第3話 あなたにとっての逃げ場所が、常に私でありますように




 コーヒーを運んでくれためぐみの瞳に羨望の色が混じっていたことに私は気付いていた。


 戦場に立てただけでも兵士は幸せだ。兵士にもなれずに職も無く、周囲の者から蔑まれ食料も無く飢えて死んでいくのに比べれば。兵士になれただけでも、幸せなんだ。


 夢を叶えたというのに、この虚しさはなんだろう。胸の奥に口を開いた小さな穴から、何かが少しずつ少しずつ零れ落ちていく。こうして息をしている間にも、どんどんどんどん失われていく。私の身体から輝きが、私の心から煌きが、私の頭から閃きが、音も無く零れ落ちていく。声もなく細胞が崩れ落ちていく。


 私はこの世界で生きていけるのだろうか? そんな疑問が浮かぶだけ、幸せなのかもしれない。






「頑張らされている……そう思っていませんか?」


 その言葉は私を固まらせるのに十分な破壊力を伴っていた。


高波のような凶暴さで私の身体を断続的に震わせる。


「……そんなことは、ない」と返すまでには少しの空白があった。


 私の返答にも彼女は艶然と笑う。


「嘘です」


 嫌な笑い方だと思った。心に土足で押し入るように乱暴な笑顔だと思った。


「よくわかったね」


 否定はしなかった。しようがなかった。笑みを浮かべる彼女の瞳には、それを許さない力があった。


「わかりますよ。だって、私は……」


 意味深に切られた言葉と、不自然に逸らされたその瞳。向いた先は果てしない闇色の空と、確かにそこにあるはずなのに姿を見せない新月の影。


彼女はただでさえ遠い空の、そのまた向こうにある何かを見つめていた。その先にあるものを私は知らない。空間を共有することは出来ても、彼女と私には溝がある。


私の見ているものと彼女の見ているものが違う。私の感じている気持ちと彼女の感じている気持ちが違う。


一体、何を信じればいいのだろう? 私は彼女の草原にいる。


けれども彼女は私の海にいない。


 夜風が運んでくる清水のような匂い。彼女の髪の香り。街灯の下に佇む横顔は思わず息を呑むほどに、美しい。


 光の粒子が彼女と水色のロングスカートを彩っていた。


「だって、私は先生を知っていますから」


 心臓が強く跳ねた。


「だ、だけど僕は君を知らない……」


 私は純粋な恐怖を感じた。数種の怖れが入り混じった膨大な恐怖。中でも大部分を占めていた単語は『ストーカー』。


 背筋を走る薄ら寒い悪寒が私を浸していく。


「先生」


「……っ!!」


 疑心暗鬼の黒い靄が私の心を覆おうと勢力を増していく。痺れるほどの鋭さで心が何かに締め付けられた。


「先生が忘れているだけですよ」


 彼女はそう言うと視線を空から私に戻し、淋しそうに笑う。灯りを湛えた雫が煌き、私の膨らんだ恐怖心は不思議と急速に萎んでいった。


「どうして、忘れてしまったんですか? もう、必要ないってことですか?」


 咎めるような言葉なのに、責められているようには感じなかった。瞳に浮かんだすがるような色が痛々しくて、私は一歩彼女に近づいた。


「逃げないでください。私から、逃げないでください!」


 出会った瞬間に芽生えた懐かしさが強くなった。


「お願いですから、私を……見捨てないで……」


 弱々しい声が闇に消えていく。私は誤解していたのかもしれない。名乗る時に瑞香が瞳に浮かべていたのは、尊敬の色などではなく期待の色。


『……会った事は……ありませんよね?』


『残念ながら』


「先生がいなければ私は……」


 会った事のない瑞香。なのに懐かしい瑞香。


「ちょっと待って」


 私は感情の昂ぶりを抑えられない彼女に、落ち着くように促した。


「君はただのファンじゃない。そうだね?」


 こくんと彼女が頷いた。スカートのポケットから取り出したハンカチで目をごしごしと擦る。


「そして君は私に会いに来た。街灯の下で読書をする為ではなく、君の目的は私に会うことだった」


 ……私は既に彼女の正体に気付きかけていた。


「……そうです……」


 持てなかった確証が、彼女の肯定の数だけ現実に近づいていく。


「瑞香ちゃん、上の名字は?」


 少しの間の後濡れた瞳で見上げる彼女に、知らず心臓の拍動が早くなってしまう。


「先生は付けてくださいませんでした」






 終わらせたくない。一つの物語が完成に近づくたびに思ってしまう。書くのが楽しくて楽しくてたまらないから。そして書き終えた時に生じる感情は、達成感と同じくらいに喪失感も大きいから。この時は確か、『パンドラの箱庭』と言うタイトルのつけられた物語を書き終えようとしていた。


「どうして物語には終わりがなくちゃいけないのだろう? 終わりなんて来なければいいのに……」


「でも、終わらなければ始まらない。未完の物語はそれ自体何の力にもならない」


 くだらないと笑い飛ばされても仕方ない告白にも、めぐみは真面目に答えてくれる。だからついつい、僕は彼女に逃げてしまう。


「だけど、物語が終われば彼らは消えてしまうのに」


 めぐみには隠していたけれど、その時の僕は『パンドラの箱庭』の登場人物たちに惚れこんでいた。それはそうだろう。自分の作った都合の良い世界。逃避するためのキャラクターたち。それは僕の欲望を満たす最高の『道具』だ。


「違う。話しかけてくれなくなるだけよ」 


「無視される。それは死に等しいよ」


 終われば世界は閉じてしまう。役目を果たした登場人物たちに僕が出来る事は何もない。


「そうね」


 めぐみはそう言ったきり黙りこくってしまう。背中を合わせているのでめぐみの顔は見えない。変な事を言って呆れさせてしまっただろうか?


「でも、それは私たちだって同じようなものよ」


 沈黙が我慢の限界に達した頃、めぐみは不意にそう言った。


「私たちにも終わりはある。ううん、厳密に言えば『今』という時間は常に終わり続けている。そして瞬きの一つ一つの間に私たちは移り変わっていく。旧い私は死に、新しい私が生まれる。それが成長ということなの」


 めぐみの言葉はいつも僕に新たなインスピレーションをくれる。以前、めぐみも同じことを言っていた。私たち二人は、お互いを高め合える存在なのだと。お互いがお互いを必要としている、そう信じられるからめぐみは特別なのだろう。


「こうしている間にも『現在』は『未来』に食い尽くされていく。現在という物語が終わり未来という物語が始まる。今と同じような、未来という名の別の物語で、今と同じような別の私たちが。同じ名札を胸につけて、同じ物語を演じ続けている『振り』をする」


「意味はわかるけど、結局君が何を言いたいのかがわからない」


 痺れを切らした僕にふふっとめぐみが笑う。


「私が言いたかったことも大切だけれど、一番大切なのは貴方が何を感じたか、なの。どんなに崇高な言葉も理解されなければ意味がないように。時にただの冗談が、相手の心に輝きを放つダイアモンドになるように」


 あの時の僕はめぐみの言わんとするところを正確に汲み取れていただろうか?


「登場人物達は同じ小説内でも刻一刻と変化していく。僕たちには変化させていく力がある……。そういうこと?」


 彼女は僕の問いには直接答えなかった。話題を転換するように声の調子を少し軽くした。


「……私の小説、よく読んでみると登場人物達がみんな似ているの。名前は違うけれど、本当に似ている。やっぱり自分の得意なキャラクターには傾向があるし、情も移る。それでもやっぱり彼らはそれぞれ違うのよ。少しずつ違う。人間も同じだと……思わない? 新しい人と出会い、打ち解けるのが難しいところまで、現実と良く似てる」


「……そうなのかな……。……うん、確かにそうなのかもしれない……」


「卒業みたいなものだから」


 めぐみはそこで僕を見上げ、にこーっと笑う。書き終えた原稿は卒業アルバム。新しく入学する学校で作るのは、やっぱり似たような友達かもしれないけれど。


「はなせばわかる」


 彼女がぽつりと呟いた。


 離せば解る。別れてからやっとその人の大切さに気付く。めぐみの書く恋愛小説にいかにも出てきそうなセリフだと思った。


 結局『パンドラの箱庭』は書き上げられる事はなかった。それは感傷的な理由ではなく、止むに止まれぬ事情からだった。物語の根底を揺さぶりかねない矛盾を私は見逃していたのである。そして、物語を閉じる最終段階になってそれに気付いてしまったのだ。


瑞香。それはこの未完の物語のヒロインの名前だった。






街灯に照らされた頬に涙の跡。それは月の精に見紛う程に美しい。


今の今まで、私は神の視点で登場人物たちを操ってきた。必要な所に必要なだけのキャラクターを生みだし、物語上の演出の為に容赦なく彼らを殺した。自分の思い通りに動かないキャラクターに苛立ちを覚えたのも、自分が彼らの上に立つ存在だということを自覚していたからこそ。


「君は、私に何を求めているんだ?」


 私は敢えて、聞く前から答えの解る問いを発した。


「私の生きられる世界を、もう一度創ってほしい」


「つまり『パンドラの箱庭』をもう一度書いて欲しいと?」


 どんな、小さな糸口でもいい。彼女たちのことを知る突破口になるかもしれない。彼女たちを知りたいと純粋に思えたから。


 時の経つのも忘れ、私は彼女に様々な質問をした。趣味、好きな食べ物、悩み事。それらは、私自身が創ったにも関わらず忘れてしまった設定の数々。それを、彼女は時に自慢気に、時にはにかんで話す。そのいきいきとした仕草に私は内心驚かされた。


 少々話し疲れたと感じ始めた頃、私は一番気になっていた事を聞いてみた。


「……瑞香ちゃん。君は私を、恨んではいないの?」


 これは今までの問いかけと少々色合いが違う。


 今までの問いの答えは、既に私の知っているものだった。忘れてしまっただけで、本来なら知っているはずの、知っていなければならないものだった。しかしこの問いは違う。この問いの答えを私は知りようはずが無い。何故だか胸が不安に締め付けられた。脳内に薄気味悪い粘着力で張り付いたかのように、最も想像したくない答えばかりが糸を垂らして繰り返される。


「……先生♪」


 ……目の前の瑞香は笑っていた。しょうがないなぁとでも言うように。彼女は人を恨んだりしない。そういう風に創ったのが誰かということを私はこのとき失念していた。


「無責任な親を持った子供は、内心恨みでいっぱいなんです」


 無責任。どんな理由があれ、物語を完結させないなんて無責任もいいところかもしれない。それが例え、誰かに見せる予定のないものだったとしても。


「だから、責任とってくださいね」


 瑞香の笑みは、苦笑というより安堵に近いものだったのかもしれない。自らの造物主の手へと還り、物語を完結へと導いてもらえると確信しての安堵。


 めぐみの言った、『はなせばわかる』の意味は単純に『話せば解る』だったのかもしれないなと私は思い直した。


 登場人物達に視線を合わせて言葉を交わせば、もっともっと彼らを愛することが出来るかもしれない。無責任な親も、子供と毎日言葉を交わせば恨まれることもないだろう。


 私は物語の完結を彼女に約し、夜の明ける前に帰路に着いた。






  四  






 家に帰ると、心配しためぐみがわざわざ玄関口まで迎えに来てくれた。無断で散歩に出る。私にとっては何でもないことなのだが、夜にふと目を覚ましためぐみにとっては大したことだったらしい。一人家に取り残されたとうっすら涙まで浮かべる彼女を、安心させるようにそっと抱きしめる。


「ほんと、大げさだなぁめぐみは」


 口ではそう言いながらも、心の中はすまなさと愛しさがごっちゃになって、思わず背中に回した腕に力を込めた。もう、離さない。そんな意思表示のつもりなのだけれど、伝わっただろうか?


「……貴方に……」


 泣きはらして少々赤くなった瞳が、私を見上げていた。 


「貴方にとっての逃げ場所が常に私でありますように」


 ……私は不意に、とてつもない恐怖に襲われた。


 それは本当に恐ろしい推測だった。


 姿を現した今となっては、そんな考えがいつから僕の脳内に巣食っていたのかはわからない。


 めぐみ。『僕』にとって彼女はなんて、都合の良い女性なのだろう? 思えば彼女は僕のことを、何でも解っているかのようだった。それを僕は好意故の観察力と信じて疑わなかった。


 どうして、彼女は僕のことを何でも解っていたのだろう?


 そして、めぐみにとって僕はなんて、都合の良い存在なのだろう? 僕はめぐみの全てを、何でも解るような気がする。何気ない仕草に込められる意味を、容易く見抜くことが出来る。


『だって、私は先生を知っていますから』


 それは、瑞香という少女の言葉。登場人物である彼女は、創り手である私と触れ合う時間が長かった。だから、彼女は私を知っていた。


『ひょっとしたら僕らも、誰かの作った物語の中の人物なのかもしれない』


 私は瑞香の意識を、考え方を、嗜好を、瑞香の全てを創ることが出来た。


同じように、僕の性格を、感性を、価値観を、僕の全てが創られたものであっても何ら不思議ではない。


幼い頃に刷り込まれた価値観を、自分固有のものと錯覚するように、僕たちの生きるこの世界全てがどこか偽りめいている。


 僕は、めぐみのことをよく知っている。


 めぐみも僕のことをよく知っている。


 それは、共に過ごした時間が長いから。ありきたりのはずのこの答えに何故か僕の心は満足しようとしない。


『はなせばわかる』 


 いつかのめぐみの言葉が脳裏を過よぎる。 




……けれど、その言葉に僕は首を振った。


 そんなこと、解らなくてもいい。腕に伝わるめぐみの温もりを離したくなどない。


 それは確かに逃げに他ならなかった。けれど、逃げとはなんだろう? 先に進む事と、後に下がること。逃げるということと立ち向かうということ。全く正反対に見えて、実は全く同じ行為。何かから逃げるということは、別の何かに立ち向かうということ。


何故って、人は多くの厄介事に挟み撃ちにされているのだから。






『あなたにとっての逃げ場所が、常に私でありますように』


 そう言ってくれる人がいる。


そう思えるだけの人がいる。


それが、僕の生きる現実の姿。夢のように恵まれているはずなのに、満ち足りることのない不思議な世界。


現実と虚構。全く正反対に見えて、実は全く同じ世界なのかもしれない。ただ、存在している方位が逆さまなだけで。


『……何はともあれ……今、ここに世界があって私がいる』


今ある現実が、誰かの創り出した幻に過ぎないとしても。


例えそれが、この世界における最後の希望だとしても。


抱き寄せた彼女の温もりだけは、決して僕に嘘をつかない。




 


……そう、信じ続けることが出来ればいいのに。


虚しさから逃げるためについた、素敵な嘘。


FIN

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パンドラの優しい嘘 DOI @fee1109

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