第2話 浮船のような儚き世にも、夜は律義に訪れる




 めぐみと過ごす暖色の時間は、春のまどろみに似て心地よく私の心を引きとめた。思うように動かない奴隷の如き彼ら登場人物達に覚えていた怒りも、綺麗に霧散してしまう。自我のレベルまで溶け込んでいた虚構の世界からの帰還は、長時間座っていた椅子による背中の疲れに促された、やむを得ずのものだ。


 私は自分にそう言い聞かせた。


ふと気になって時計を見ると〇時をまわっている。少し遅めの夕食をとり終わり、食休みを経て原稿にとりかかったのが八時だから、およそ四時間『あっちの世界』へ行ったきりだったわけだ。


 そうだ。四時間も座っていたのだから、身体が疲労を訴えるのも当然の事だろう。


 ……いや、違う。誤魔化すな。素直に認めろ。


『アイディアが出なかったんだろ? 見ろよ、お前の原稿は食事前から全く進んでいないじゃないか』


 悲観的なもう一人の『僕』が私を嘲笑う。


『アイディアが出なかったんじゃない。四時間かけて説得しても彼らは納得してくれなかったんだ』


小さなネタは出るけれども上手く物語に組み込めない。大雑把でご都合主義だと自分でもわかる駄文なんて、書いている私自身が馬鹿らしくなるような失敗作なんて、一体誰がそんなものに貴重な時間を費して読んでくれるというのだろう。


 誰もが矛盾を抱えているのに、物語には論理的整合性を求める読者たちのため、苦しまなければならないのは何故だろう。


 理不尽な怒りの矛先は『登場人物』から『読者』へと変わっていた。誰かに対して怒っていないと、自分の力量不足を認めてしまいそうだった。私は大きく頭を振った。


 少し夜風にでも当たろう。そうすれば、何かいいアイディアが浮かぶかもしれない。何にせよ、気分転換は必要だった。






春の香りがそこかしこから漂ってきているというのに、夜風は身を刺すように冷たかった。梅は小さくかわいらしい花をつけていたが、夜目の利かない私には血球ちだまのような赤色を想像することしか出来ない。何気なく蹴飛ばした石が狭い視界から消えた。


 石は見えない。確かにそこにあったはずなのに、最早確かめる術はない。世界から石は消えてしまった。微かに痺れるような爪先の疼きが、失われし者の悲鳴を連想させる。


 駐車場に留まっていた自動車の冷たい両目を私は酷く恐れた。


彼らは自信を無くしかけている私を冷たく見つめ続ける。自身を亡くせば、恐怖に戦おののくこともなくなるのだと諭している。


――ひょっとして、僕には才能なんてないんじゃないか?――


 それは唐突なものではなく、遠い昔から頭の片隅にこびりついて離れない疑問の一つだった。


 私には他人と比べて秀でている部分など一つも無い。小説だけが私の特徴であり、只一つの存在意義だというのに。


 懐から取り出した携帯電話の薄明かりだけが、私の心を汲み取ってくれそうで暫し無機質な時刻表示を眺めていた。午前一時四十二分。その表示が私を癒してくれるなんて、数分前の私にどうして想像出来ただろうか。


まったく、なんて時間なのだろう。衝動的に笑いの発作が込み上げてくる。まるで、世界中の全ての人間が寝静まってでもいるかのように辺りは静まり返っている。私一人を残して、世界は眠りについた。


「……くくくくっ」


 笑いが漏れないようになんとか声を抑えつける。私はまるで夜の支配者のようだった。黒いマントを広げ、鋭い牙を生やしどこまでも優雅に生きる、夜の王。けれど、それは物語の中でしか生きられない不完全な生命体。それに比べて私はどうだろうか? 


午前一時四十四分。夜はまだ長い。興奮する身体中の熱で頬が火照っている。身体中に得も言われぬ昂揚感が駆け抜けていく。


自宅前の並木道を五分ほど駅の方に歩くと、コンビニエンスストアがある。駅前には、今日も路上ライブを行なっている若者がいるはずだ。確かにそこでは不夜を彷徨う同胞もいることだろう。けれど、折角の神聖な夜を、雰囲気を介さない異分子によって壊されることは避けたかった。店内に流れる俗っぽいBGMや、上手いんだか下手なんだかわからない掠れ声のノイズは私を雑多な存在にまで貶めてしまうだろう。そこでは私は脇役に過ぎない。


駅から遠ざかっていく。あらゆる音から、あらゆる存在から私は遠ざかっていく。街灯に照らされた影はどこまでも長く、道の両脇に植えられた名も知らぬ草と、私の髪が風の力で唱和しているのが酷く滑稽だった。


 お前は知らないかもしれないが、私は物語の中で風を吹かせる事が出来るのだぞ。むせかえるような夜の匂いも、擦れあう草の嗄しゃがれ声も創り出すことが出来るのだぞ。


 私はいつのまにか、夜を支配した気分になっていた。


だからそれを目に入れた時、びくりと心臓が高く打ち、足は無意識のうちに止まっていた。私は先の街灯の下、光の舞い降りるベンチの上に一つの影を見出した。


それは異分子だった。私はそんなものを創った覚えは無かった。完全なる支配を根底から突き崩す反逆だった。関わらねば良い。ただの背景として処理してしまえばいい。私はそいつの横を通り過ぎ、何事も無かったように歩き続ければ良い。


思い通りにならない登場人物に目を奪われすぎるのは危険だ。だから、私は常にこうして……


『……待って……!』


 頭の中で囁く誰かの声。誰かはもう思い出せない、けれど懐かしいその声。闇が這い寄ってくる。胸元に首筋に艶めく舌が蠢いている。耳元で誰かがざわざわと哭いている。


 足はごく当たり前のようにベンチの前で停止した。ベンチの上では薄い本を膝の上に置いた、高校生くらいの少女が酷く色素の薄い瞳を私の方に向けていた。


「……君は……」


 私はその少女をよく知っているような気がした。ついばんだ唇の清水のように冷涼な味わいを思い浮かべることが出来た。懐かしくも温かい気持ちが胸中に拡がっていく。流れる長い黒髪から漂う気品に私は圧倒される思いだった。


「……君は……」


 うわ言のように繰り返す。干上がった喉が何かを渇望していた。それは、彼女から滴り落ちる水。それは、彼女の髪から香り立つ芳香。夜風にさわさわと揺れるロングスカートの裾。


「いい……夜ですね」


 視線を本から私に向けて彼女は躊躇い気味に口を開いた。


「音も無く、声も無く。時を漂う頼りない浮き舟のような儚き世にも、夜は律儀に訪れる」


「……そ、そうですね……」


現実離れした彼女の物言いに虚をつかれて私は一瞬反応が遅れてしまう。そんな私を眺めて彼女はくすっと笑った。瞬間、大気の色が大きく変わったような気がした。幻想的で崇高な夜から、現実的でありふれた夜に。


「舘野先生……ですよね?」


 最早彼女からは神秘さの欠片も窺うことは出来ない。この後に続く言葉など私でなくても想像がつくというものだ。


『サインをいただけますか?』『握手をしてください』


 大方、こんなところだろう。去年の夏になんたら新人賞とやらをもらってから、何度か同じような状況に遭遇したことがあった。彼ら彼女らが一様に浮かべているきらきらした瞳を、私は苦手としていた。彼らは本当の私を知らない。私が逃げ場所に選んだ虚構を、自分を綺麗に見せようと創りだした御伽噺を


彼らは『心を動かされた』と言って喜んでくれる。


 けれど、そんなものはただの子供だましだ。何を望んでいるのかは知らないが、私の言葉は重くない。誰かの心に響くはずも無い。


 私と相対するだけで幸せだと言わんばかりの瞳を見ていると、強い罪悪感に囚われる。期待に満ちた笑顔は私に裏切りを許さない。過分な期待は水を十分に吸った岩塩のよう。背中を潰す重荷となって私を押しつぶそうとする。……私が非力だということに、どうして誰も気付こうとしないのだろう? どうして皆、気付かぬ振りを続けるのだろう? まるで、次に駄作を書いたら承知しないぞというように。期待の向こうの失望に、笑顔の裏に潜む冷笑に私は怯えていた。


 彼らは私に、若しくは私の物語に自分の中の何か ――例えば希望だとか、憧れだとか夢だとか。そういったきらきらした類の何か――を期待していた。


彼らにとって私は束の間の夢を見せる奇術師だった。奇術が使えなくなった途端に蔑みに晒される、使い捨ての道具。何故なら彼らは私を知らない。『小説家の先生』としか私を見ようとしない。見れないのではなく、見ようとさえしない。それが、たまらなく嫌だった。


そしてやはりと言おうか目の前の少女の瞳にも、色濃い尊敬の念が映っていた。


「私は……瑞香といいます」 


 その瞬間、私の胸の中で記憶の因子が息を呑んだ。その単語は岩戸の中に封印された氷漬けの宝箱の鍵穴に、ぴたりとフィットするほど馴染みのある名前だった。


「……みず……か……さん」


 けれど、穴に鍵が吸い込まれてもカチリと音が響かない。思い出せない事実がもどかしく、私は呆けたように彼女の言葉を繰り返すことしか出来ない。もう一度彼女の口からその名を聞けば、思い出せるのではないかと期待しているわけでもないのに。


「……会った事は……ありませんよね……?」


 喉の内壁にぶつかってかすれた声が飛び出した。何度瞬きを繰り返しても目の前の現実は変わるはずもなく、目の前の少女に見覚えは無い。


 しかし不思議とその雰囲気には触れたことがあるような気がする。


「残念ながら」


 そう言って彼女は本当にとても残念そうな顔をした。


……人違い……?


けれど、それで済ませてはいけないような気がする。それくらい大切な何か。大切だということはわかるのに。もどかしさが背中を這い回っていた。


「どうして、そんなことをお尋ねになるんですか?」


 彼女の反撃に私は思わず目を白黒させた。古いナンパの手法かなにかと勘違いされてはたまらない。


「い、いや。私のことを知っているみたいだったから。最近人の顔をよく忘れたりもして不興を買ったりもするんだよ」


 些か慌て気味に私が弁解すると、彼女の深い瞳が悪戯っぽく光った。


「私のことは、忘れないでくださいね」


 その言葉が、何故か重い意味を持っているような気がしたのも、会ったことはないのに雰囲気に覚えがあるのも、それら全ては私の描いた空想に過ぎないのだろうか?


「私、先生のファンなんですよ」


 一本の線が繋がるイメージが私の脳を駆け抜けた。彼女は只の一ファンで、幾つか受けたインタビュー記事か何かで私の写真を見たことがある。見覚えがあるような気がしたのも、出演したテレビ番組のスタジオに彼女も遊びに来ていただとか、そんな風に幾らでも説明はつく。


 『私』に会うために。甘美な言葉だ。


 けれど、それは『僕』に会うために、ではない。


夜の散歩に妙な興奮状態に陥った私がありふれた夜を、何の変哲も無い少女を特別にしている。そう考えるのが自然だと、どうして今まで思わなかったのだろう?


「読んだのは『Autumn Flash』って本だけなんですけどね」


 えへへと笑う彼女には神秘さの欠片も感じ取ることが出来ない。


「いや、嬉しいよ。すごく」


 そう。小説家としてしか見られないのはとても淋しいけれど、自分の小説が評価されて嬉しくないわけはない。嬉しさとはずかしさの入り混じった幸福感に頬が緩む。






自分の投稿した小説が大賞に選ばれたあの日、あの丘で彼女の放った言葉が忘れられない。 


「あんまり嬉しそうにしないのね」


 めぐみの鋭敏な観察力に指摘され、『私』は初めてそれらの感情を自覚した。喜びや誇らしさといったプラスの感情ではなく、焦燥と苛立ち、出口の見えない不安といったマイナスの感情たち。


「おめでとう。何はともあれ、ね」


 めぐみの口調は言葉とはっきり乖離していた。『こんな時、世間の人たちはおめでとうとよく言いますよね。何がおめでたいのかを深く考えもせずに』


 何はともあれ、ね。めぐみの口癖には、そんな彼女の冷めた感情が見え隠れしていた。彼女は私のことをよく見ている。いや、わかりすぎている。おそらく私が嬉々としていれば、彼女も幸せそうに祝福してくれただろう。


 めぐみは二次選考で落とされた。素直に喜べない理由の一つにはそれがある。示されたのはお互いに読み比べた時の私の感想と正反対の結果だった。


「いよいよ貴方は小説家への第一歩を踏み出したのね」


 感慨深げに彼女は言った。表情は見えない。


背中ごしに伝わる熱。お互いの存在を保証してくれる熱。めぐみの熱が伝わってくる。私には熱の伝導を感じ取ることが出来る。それは、私という人物の存在を証明してくれる熱。彼女を感じると言うことは裏返せば自分を感じるということであった。


「飛び立つことよりも飛び続けることの方が難しい」 


 こんな私の発言は世間一般の人の目にはへそ曲がりと映るかもしれない。けれど、これが私の率直な感想だった。


 小説を書くのが好きだから小説家を目指した。昔はそれくらい、小説を書くのが好きだった。単純に好きで、それだけで良かった時代がひどく懐かしい。


 今の私からはその喜びが失われて久しい。書くのは嫌いじゃない。嫌いじゃないが、書かされるのは好きじゃなかった。


家に帰れば家族が祝ってくれる。それに対して私は中身の無い笑顔で応えなければならない。夢は現実に変わってしまった。逃げ場所は失われた。それの、何がおめでたいと言うのだろう? 


 夢は追い続けてこそ夢。叶ってしまえば虚しい現実に過ぎない。その事実に気付けるだけの知能も持たず、大人たちは子どもたちに将来の夢を聞きたがる。それとも、夢という言葉のからくりに気付いてしまった大人たちが、子どもにつく素敵な嘘が夢という言葉なのかもしれない。平凡な夢は好かれない。叶う可能性が高いから。嘘に気付く可能性が高いから。


 世間はいつだって、私には冷たかった。あちらさんが勝手に決めた授業時間を私は守る必要性を感じなかったし、友達を作らない私を侮蔑するクラスメイトを私の方でも嘲笑っていた。


 私は人間が嫌いだった。窮屈な現実が嫌いだった。


 それなのに、現実に存在する人間であるはずのめぐみに、好意を寄せることを不思議とは思っていなかった。


 めぐみは僕にとって唯一の『人間』。


 書き割りに過ぎない他人ではない、唯一の人間。




 緑が波のようにさわさわさわと揺れる。不確かな現実が揺らめく音が、過去の延長上にある現在いまを彩っている。


「……何はともあれ……」めぐみはもう一度言った。


「今、ここに世界があって私がいる。空を飛ぶことが出来ない私は、空を飛びたいと願うかもしれない。空を飛ぶことの出来る貴方は、今度は地面を走ってみたいと希うかもしれない。それが、現実と夢の関係。現実があるから、夢が見られる。現実が無ければ夢が現実になる。……貴方にもまだ、逃げ場所はある……」


 そう呟いためぐみの声はどこか淋しそうだったけれど、すぐにそよ風に流れて消えてしまった。






「いや、嬉しいよすごく」


 私は嬉しかった。嬉しいから、笑った。頬が緩んだ。


 けれどもそれは書くことの歓びではなく、他人から認められたことで湧き上がる感情で。それが自分でも分かっているから私は嬉しくて、だけど悲しい。


楽しかった執筆という行為が、神経をすり減らす義務へと変わったのはいつだっただろう?


小説に逃げていた僕が、小説から逃げる私に変わったのはいつだっただろう?


「君みたいなファンがいるから、頑張ろうって思えるんだもの」


「えへへ……」


それは……。


『小説家になりたい』


そう、言葉に出してしまったあの時からかもしれない。私は漠然とそう感じていた。照れたのか、屈託のない笑顔を見せる瑞香に、あの日のめぐみを探してしまう。


「実は私も、……そうなんだ……」


 そんな私に届いた言葉は、瑞香のものなのかそれともめぐみのものだったのか?


 にこにこと笑っていた瑞香の軽い口調。


「でも、頑張らされている……そう思っていませんか……?」


 彼女の目が、すっと細まった。夜の香りが、拡がった。










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