パンドラの優しい嘘
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第1話 あの丘で僕たちは恋を覚えた
『彼女はただでさえ遠い空の、そのまた向こうにある何かを見つめていた。その先にあるものを私は知らない。空間を共有することは出来ても、彼女と私には溝がある。
私の見ているものと彼女の見ているものが違う。私の感じている気持ちと彼女の感じている気持ちが違う。
一体、何を信じればいいのだろう? 私は彼女の草原にいる。
けれども彼女は私の海にいない』
ふっと意識を引き戻される。いや、その表現は適切ではないかもしれない。それは私の集中が既に尽きかけていたことを、覆い隠す体の良い嘘になる。
「あ、お邪魔しちゃったかな?」
コーヒーの香ばしい香りと共に彼女が部屋に入ってきた。以前は短かった艶のある長い黒髪に温かな色を湛えた瞳、薄い桜色の唇が穏やかな声音を導き出す。
「……いや、ありがとう……」
彼女の穏やかさに触れると、先ほどまでの苛立ちが幻のように感じられた。私の答えを聞いて控えめに笑む彼女の網膜にも、笑顔の私が映っていることだろう。
私は館野祐介。自分で言うのもなんだが名前の知られたモノカキだ。そして彼女の名前は里中めぐみ。私と彼女は高等学校に在籍していた頃からの付き合いで、今では二人でこの2DKの部屋を借りている。
二人で借りるには少々広い家。一人でいるには淋しい時間。だからであろうか? 仕事の邪魔になると分かっていても、めぐみはここに来てしまう。側にいることの理由づけに二人分のカップを持って。
一
真っ白な原稿に文字を埋め、世界を創りあげていく。僕しもべとなる登場人物を作り上げ、私の用意したシナリオの通りに動けと命ずる。けれど忘れてはならないことが一つ。それは、彼らが意思を持っているということだ。
生きた登場人物は神である私に時に反抗し、物語を破綻させようと目論む。私は常に苛立たされ、彼らとの仲があまりにも険悪になれば私は最終手段に頼らざるを得なくなる。
それは『世界の破壊』だ。神が誰かということを、私は彼らに思い知らすことが出来る。
しかし破壊は諸刃の剣だ。脱力感が全身を駆け抜け、気力が根こそぎ奪われていく。だからこそ、なんとか彼らをなだめすかし、協力してもらわねばならない。
小説家は素敵な嘘をつく仕事だと、以前めぐみは言っていた。心温まる物語の紡ぎ手である彼女らしい言葉だと、私は微笑
ましく思う。
けれど、私には素敵な嘘などつけはしない。私のつく嘘は深く澱んだ沼のように不快な臭気を放つ。
コンプレックス。願望。鬱屈した愛。現実逃避。私の嘘に輝きはない。幾重にも折り重なった愚痴と、神の権力を得られる恍惚と、そして何より自分の存在意義を確認するための嘘。
空想の中でしか自由に生きられない私が逃げ込んだ、自分のための世界。そこでまた、自分を美化するための嘘を繰り返す。
嘘の連鎖が嘘を呼び、嘘は膨張し続ける。嘘をつき慣れた羊飼いの少年が
「オオカミが来たぞ!」と事実を叫んでも、その事実すらも偽りと捉えられてしまうように、出口の見えない嘘の応酬が私の心を曇らせている。
「今日はもう休んだら?」
カップを机の片隅に置いためぐみの、どこか甘えるような声に「解ったよ」と応えると、彼女の表情が一際喜びに輝いた。
高校時代、鈴ヶ丘は二人だけの空間だった。そこは街全体を見下ろせる小高い丘で、吹き渡る風は涼しかった。私たちは常に取るに足らない議論を、まるで世界の趨勢を語るかのように大真面目に戦わせたものだった。それは今振り返れば子供の戯れに過ぎなかったのだが、青さが色濃く残っていた当時の二人にはかけがえのないもののように思われた。
「僕の思うままその世界は紡がれる。呟かれた愚痴と顕現出来ない狂気と、身も凍る嘆きと胸を引き裂く切望を。閉じ込めたその世界こそ僕の総てだ」
『僕』は自分の心を曝け出すことに何故か胸を張った。
「私の思いに反してその世界は紡がれる。言葉に出来なかった後悔と、誰かに聞いて欲しかった悲しみと。それらを閉じ込めた失敗談が、世界を現実に近づけている。けれど、それは現実ではなく」
将来の夢をもの書きに定めた二人は、同じ目標を持つ同志であると共に強力なライバル同士でもあった。付け加えて、当事から僕は彼女に淡い想いを抱いていた。
「どうして、現実ではないと言い切れる?」
言葉を交わす時、僕らは意識的に互いの顔を見ないように背中を合わせていた。空虚で満たされた心を慰める、とっておきのいいわけを発しながら穏やかな現実の熱に身を任せていた。
「ひょっとしたら僕らも、誰かの作った物語の中の人物かもしれない。現実と呼ばれるこの世界そのものが誰かの創った虚構ではないと、君はどうして言い切ることが出来る?」
「誰かの虚構も、貴方にとっては現実に違いないでしょう? 私の虚構も誰かにとっては現実かもしれないし」
背中越しに伝わる震えに僕の心は肝を冷やす。どうして泣いているのかと思い、そう問いかけようとしたけれど、
「ごめん、ちょっとおかしかっただけ」
彼女は予想に反して笑っていたようだった。
「原稿の中の出来事が虚構だとしても、向かい合っている時間は紛れも無く現実でしょう?」
口から溢れ空気に溶けて消えていく言葉たちはまるでシャボン玉のように儚く、浮遊感に似て弱々しい。
「だけど、君はさっき『現実ではない』と言った」
「休戦中の兵士は戦争をリアルには感じない。私もそれと同じこと」
彼女の言葉に納得の出来たあの頃の自分に戻りたいと、私は何度思ったことだろうか?
――違うんだよ、めぐみ。……今の私には休戦なんてないんだ……。小説が書けないと、私は生きていけないんだよ――
彼女との時間が好きだった。遊園地やカラオケに行くのと違ってお金のかからない遊び。彼女の持ってくる水筒から温かい紅茶がカップに注がれる、こぽこぽという音を僕は愛していた。
「小説家になりたい」
口に出すのもはずかしかったけれど、笑われるかもしれないと思ったけれど、そして実際彼女は笑ったのだけれど。その笑みはふんわりと拡がる羽毛のようにたおやかで。
「実は、私もそうなんだ」
それは仲間を見つけた嬉しさだったのか。僕は彼女と同じ感情を共有していることを心の底から喜んだ。
それは曖昧な記憶と、微かにざわめく胸の叫び以外に確かめる術のない不確かな過去。
本当にあったのかどうかすらわからない、ある意味最も過去らしい過去、あの丘で僕たちは恋を覚えた。
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