第2話『エレベーター』

 夕方が、夜に限りなく近付いたその時刻。

 男は、1階でエレベーターを待って立っていた。

 表示を見ると、まだ最上階に停止したままだ。

 


 エレベーターを待つ時間というのは、一種独特の間だ。

 中途半端な時間だ。

 考え事をするにも短いし、どうでもいいような取りとめのないことばかりが、断片的に頭をよぎる。

 やっと、階数表示が変わった。下に降りてきているのだ。

 7階・6階・5階……

 男は、背後に何かの気配を感じた。

 何かとは言っても、人以外には考えられないのだが。



 失礼に当たらないように、首は露骨に後ろには曲げずに、目玉を最大限端に動かして、何とか背後の存在を視界に捉えた。

 女性だ。しかも、ちょっとした美人。

 でも、なぜか元気がなさそうというか……

 もっと言ってしまえば生気、つまり生命のエネルギーのようなものがまったく感じられない。

 髪は栗色。顔立ちも、ちょっと日本人離れした西洋的な顔立ちだ。

 でも、恐らく日本人だろう。目玉が黒いから。

 根拠は、たったそれだけなのだが。

 


 3階、2階……1階。

 停止を示す小気味の良いチーンという金属音と共に、ドアが開いた。

 男は乗り込むと、右側の操作盤にサッと身を寄せ、女性が入るのを待った。

 女性は、静かに男のやや斜め後ろに立った。



「何階ですか?」

 男は、背後の女性に尋ねる。

「……8階をお願いします」

 彼女の流暢な日本語を聞いて、そらやっぱり日本の人じゃないか、などと男は一人内心で納得していた。

 自分の目的階である7階と、女性の言葉通り8階を押す。

 完全に扉が閉まると、エレベーターの箱はゆっくりと上昇していった。



 見知らぬ人物と、密室で二人きり。

 たった数十秒そこらのこととはいえ、これまた一種異様な間である。

 相手が若い異性だと、特に。

 必要以上に、意識してしまう。

 男は、視線のやりどころや呼吸のペースまで不自然になった。



 急に、エレベーターの照明が消えた。



 ガクン!



 倒れてしまうほどではないものの、明らかに異常な揺れがエレベーターを襲った。

 扉のガラス窓の外は真っ暗。まだ、階と階の間なのだろう。

 揺れが収まった。とりあえず分かることはただひとつ——

 エレベーターに閉じ込められたのだ。

 この、見知らぬ女性と一緒に。



「止まっちゃいましたね」

 とりあえず、女性を不安がらせてはいけないと思った男は、できるだけ明るい声を出して、何とかしようと事態の打開に乗り出した。

 まず、赤い非常ボタンを押してみた。

 本来なら、押したとたんにジリリリリ……というけたたましい音がなるはずなのだが。いくら力を込めて押そうが、何も反応がない。

 業者に直接つながるらしい非常用インターホンも試してみたが、これもアウト。

 電気が通っている感じが、まったくない。

 他のボタンもあちこち押してみたが、やはり何も起こりそうになかった。

 かといって、ダイハードかなんぞのアクション映画のように、天上から外に出てシャフトを伝う、なんてことができようはずもない。



「ま、じたばたしてもしょうがありませんねぇ」

 男はやれやれ、と首を振ると、奥の壁に背をもたれさせて座り込んだ。

「そのうち、他の利用者の通報でビルの管理会社が気付いてくれるでしょう。それまで待つことにしましょう。なぁに、心配いりませんよ」

 かなり暗いので、女性の姿はおぼろげにしか見えない。

「……そうですね」

 男の目に、その女性が闇でうごめくのが見えた。

 次の瞬間、男は隣りに気配を感じた。

 どうやら、その女性も隣りに座ったらしい。

 


 こうなっては、なかなか時間の感覚が分からない。

 時計を見れば三分くらいしかたっていないのに、かなり長いこと座っているような気がしてしまう。

 それも、この故障したエレベーターの中という異常な環境と、偶然にも一緒に閉じ込められてしまったこの女性の存在が、大きく作用しているようだ。

「…………」

 こういう時、何をしゃべったらいいのだろうー?

 男は、途方にくれた。

 何の覚悟もなくこういう状況に放り込まれたのだから、無理もない。

 それは、隣りの女性とて同じことであろう。

 世間話か、お互いの身の上話でもすればいいのか…



 その時だった。

 男は、手に何かが覆いかぶさるのを感じた。

 隣りの女性の手、だった。



 …え?



 驚きは、それだけでは終わらなかった。

 次に、女性の体が男の左半身にピッタリと密着してきたのだ。

 女性は機械仕掛けの人形のように、ゆっくりと顔をこちらに向けてきた。

 その瞳の深い漆黒の闇には、男を虜にする力があった。

 思わず、その眼力に吸い込まれてしまう男。

 ニタァッと笑った女性は、男の手を取り自らの胸に導く。

「…………!」

 女が馬乗りになってきた。

 垂れる長い髪が、男の顔の周りをカーテンのように覆う。

 ゆっくりと顔を下ろした女の赤い唇が、男の口を塞ぐ。

 男には抵抗する力も、事態の異常性を把握する理性も無くなった。

 ただただ、この不思議な状況下での官能の世界に身を委ねた。

 行為の間、彼女はあえぎ声以外にただ一言だけ言葉を漏らした。

「アアツ、山野君……」

 それには、男も驚いた。



 ……どうして、僕の名を!?

 


 行為が終わった。

 気まずすぎる。

 山野は、悩んだ。



 ……こんなことになってしまって。誘ってきたのは向こうとはいえ、最後までやってしまったこの責任は、どうとればいいというのか?



 すると、それまで言葉少なだった女性が急にしゃべりだした。

「ごめんね。急にこんなことして。驚いたでしょ? 山野君。実はね、エレベーターの故障は、私の仕業なの。あなたに抱かれるために、仕組んだことなの」



 女性は、事態の驚くべき真相を語った。

 彼女の名は、井浦佐和子。

「実はね、私二ヶ月前に死んだの」

 そう。彼女は、幽霊だったのだ。 



 佐和子と山野は、共に会社の同僚同士だった。

 二人は、付き合い始めて半年の恋仲であった。

 しかし。佐和子は交通事故で死んでしまった。

「死んだら霊界かどっかにいくのかなぁ、なんて思ってたんだけど、この通り私は霊のままこの世界をさまよってるし。これはきっと私が成仏できないからだわ、と思って。それで、何でだろうなぁと思ったの。そこで、思い残したことは何かを考えた。それが、あなたにもう一度抱かれることだったの」

 にわかには信じられない話だった。

「あなた、私だって気付かなかったでしょ? 実はね、私も驚いてるの。霊になったら、どうも生きてる時の顔と少し違うみたいなのね。ちょっと外人っぽく、美人さんになってるでしょ?」

 佐和子の霊は、フッと笑った。

 男は、ひとつの疑問を口にした。

「その、何だ……どうして霊と……交われたんだろう?」

「ああ、なんでエッチできたか、ってこと?」

 顔を赤らめて、佐和子はドギマギした。

「あのね、生きてる人間は、霊——つまり精神の部分と現実の肉体とがピッタリ重なっている状態なのね。だから、死ねば肉体が取っ払われて、魂だけの状態になるの。だから生きている人間の魂の部分と、霊とは相互に感覚を伝え合うことが可能。そういうわけでこの場合は、あなたの霊の部分が私とセックスをしたことになるの」



 ……はぁ。そういうものなのか。



 分かったような、分からないような話だが——

 山野には、ひとつ重大なことをこの女の霊に伝えなければならなかった。

 それは、とっても言いにくい話。

「あの……あなたにひとつ言わなきゃいけないことが」

 佐和子の霊は、不思議そうな表情で山野を見た。

「なぁに?」

 コホン、と思わせぶりな咳払いをひとつして、一気に言い切った。

「人違い、です」



「ええええええええええええ!」

 座ったまま後ずさりした佐和子の霊は、驚愕に目を見開いた。

「僕は、あなたの彼氏だった山野敬一の双子の弟です。僕は、山野誠二。一卵性双生児なんで、間違えるのも無理はないです。でも、幽霊でも間違えることって、あるんですね」

 佐和子は、真っ赤になって両手で顔を隠した。

 単なる人違いでも恥ずかしいのに、セックスまでしてしまうとは。

 恥ずかしいということでは、最高ランキングものであろう。

「いやああああん! 恥ずかしい~」

 山野誠二は、佐和子を慰めるように言った。

「しゃべらず黙っていれば、親でさえも間違えることがあるくらいですから。でも、幽霊でも人違いをするんですねぇ」

「ゆ、ユーレイだからって何でも見抜けたり、人の心を読めたりってわけにはいかないみたいなの。ちょっとした念動力みたいなのだけは使えるみたいだけど。それにしても、山野君に双子の弟さんがいたなんて、ゼンゼン知らなかったわ」

 佐和子は、形の良い唇をしきりに指でさわっていた。

 先ほどの激しいキスの感触を思い出し、恥ずかしさがぶり返していることだろう。

「化けて出るんなら、兄貴の部屋とかに出ればいいのに」

 そう。なぜ、わざわざ大掛かりな仕掛けをしてエレベーターなんて場所を?

「それはね……私このすぐ近くで事故にあったの。現場から半径500メートルより外には、どんなに頑張っても出れないのよ。多分私は『地縛霊』ってやつなんだと思う。だからあなた—— じゃない、この場合はお兄さんのほうね—— が、このエリアに用事があるまでずっと待ち構えていた、ってわけ」



 その時だった。

 またまた、誠二は信じられないものを見るはめになってしまった。

 急にエレベーター内が明るくなったかと思うと、真っ白な衣を着た少女が現れた。

 背中から羽根の生えたその姿は…言うなれば『天使』だ。

 足が、床から浮いている。

「遅くなって、ゴメンなさいっ」

 天使の少女は、いきなり佐和子に頭を下げた。

「私は、フレイア。あなたを担当する天軍第1285師団所属の見習い天使なんですけどちょっと最近忙しすぎてそのう、あなたを迎えに来るのを……忘れてましたぁ」

「エエッ!?」

 佐和子は、ズッコケた。

「じゃあ、私が二ヶ月間も死んだままさまよっていたのはー」

「ホントごめんなさいっ」

 思わず、誠二は笑ってしまった。



 ……死後の世界も、地上界と変わらずおっちょこちょいなのがいるんだなぁ。



 フレイアという見習い天使は、お願いだから上司の大天使メリエル様にはこのことは黙っておいてくれ、とペコペコと頭を下げて佐和子に頼みまくっていた。



「さてと。行きますか」

 フレイアは佐和子の手を取った。 

 おもむろに、フレイアは誠二のほうを見た。

「あなたには私が見えるのですね? 強い霊感がおありのようで……」

 口に手を当て、いたずらっぽい目でシーッと言う。

「このことは、絶対人には言わないでねっ」

 誠二は、フレイアに聞いてみた。

「後で佐和子さんを僕の兄貴に、会わせてやってくれないかなぁ?」

 小さいように思えていたフレイアの翼は、広がってみると壁を突き抜けるほど巨大だった。

 彼女は佐和子を優しく抱えると、二度ほど翼をはためかせた。

「大丈夫。きっと許可が下りると思いますよ」

 にっこり笑ったフレイアは天井を見上げた。きっと、今にも飛び立つのだろう。

 最後にこれは言っておかなきゃ、と思った誠二は佐和子に叫んだ。

「さっきのこと、兄貴には内緒にしてくれよ!」

 フレイアの腕の中の佐和子も、笑顔で返す。

「ええ。死んでも言わないわよ! ……って死んでるのよね、私」

 陽気な笑い声を残して、真上に飛び上がったフレイアと佐和子は、一瞬にしてエレベーターの天井をすり抜けて、見えなくなってしまった。 



 ……これからお幸せに。



 やっと行くべき世界に旅立つことができた佐和子のために、誠二はしばらくの間ささやかな祈りを捧げた。

 そして、ハタと誠二は我に返った。

「そういえば、僕はどうなるんだよおおおお!」

 そう。彼はまだ、エレベーターに閉じ込められたままだったのだ。

「あのフレイアというマヌケ天使め。せめて僕をここから外に出してから行くくらい、気をきかしてくれてもよかったのにいいい!」

 ガックリとうなだれて、誠二は再びエレベーターの隅に座り込んだ。



 もうしばらく、救助が来るのを待たなければならないようだ。

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魂の証明 ~見習い天使・フレイアの備忘録~ 賢者テラ @eyeofgod

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