魂の証明 ~見習い天使・フレイアの備忘録~

賢者テラ

第1話『小さな命だけど』

 私が看護師になりたい、と思い始めたのは随分早い頃からだった。

 小学校5年の時にたまたま読んだ、『ナイチンゲール』という偉人の伝記。

 クリミア戦争の従軍看護婦として活躍するその女性ながらも雄々しい姿は、幼心に大きな影響を受けた。

 何がどうよかったのか、と聞かれてもうまく説明できない。

 理屈抜きに、何だか熱いものが胸にこみ上げてきて仕方がなかったのだ。

 人のために生きる、っていいなぁ。単純にそう思った。 



 夢多き少女だった私は、夕食の席でさっそくその思いを家族に表明した。

「私、大人になったら看護師になるんだからね!」

「はぁ?」

 両親は、それを聞いて目を丸くした。

「医療に関わる仕事っていったらお前、タイヘンだぞ。勉強する事も多いし。今のお前の成績でなれるのか心配だなぁ」

 父さんは、言う事に遠慮がない。

「それにあんた、傷口とか血を見るだけでもキャーとかって大げさに騒ぐじゃない。そんな肝っ玉の小さい事じゃ、看護師なんかとうていなれないわよ」

 母は、そうため息をつく。

「そうそう。それこそ事故とかで血がドバァーとか肉がグチャッとか骨がバキバキ折れたような人が担ぎこまれて来るんだぞ。ほら、『ER』とか『救命病棟24時』みたいな?」

 中学生の兄は、そう言って脅しをかけてくる。

「こら、ご飯中にそんなこと言わないの。でもあんた、それはどの部署に配属になるかにもよるでしょ。救急救命とかは優秀なナースしかなれないみたいだから、この子は大丈夫じゃないかしら」



 ……オカンめ。我が子になんちゅう失礼な事を。



 何で急にそんな夢をもったのか、と聞かれたので、私はナイチンゲールの伝記を読んで感動したことを話した。

 懸命に話す私の情熱をよそに、家族はいささか冷めた反応であった。

「え~、『無いチン毛~る』?」

 下の弟の下品な物言いにムッとした私は、夕食のテーブルの下からライダーキックをお見舞いしてやった。

 まるで看護師の寛容と慈愛のかけらもないじゃない、って突っ込まないでね。 



 高校を卒業後、大学病院付属の看護専門学校に迷わず入学。

 家族は、驚いた。

「ええっ、あんたのあの夢はマジだったの?」

 ずっと言い続けてきたのに、この調子だ。

 私って、家族の目から見てそんなに看護師に向いてないのかねぇ?



 まぁ、その日から私の医療との格闘の日々は始まったわけよ。

 当然、今まで見たこともないような気持ち悪いものも見なければならない。

 注射もしなければならない。

 何せ、覚える事も山ほどある。

 でも、小学校の時に私の心の中に宿った小さな火の玉は、炎を絶やすことなく燃え続けていたのだ。

 それが、どんなにくじけそうになった時でも私を支えてくれた。

 病院で看護実習もこなし、国家試験にも合格。

 私は晴れて正看として、いっちょまえのナースとして勤務する事になった——。



 思い出深いのは、戴帽式。

 看護学校において、看護師を志願しふさわしいと認められた看護学生に、看護師のシンボルであるナースキャップを与える儀式だ。

 このキャップをかぶる事によって、看護という職業に対する情熱や、人の命にかかわる責任感を意識することに意義がある。

 ナースキャップを受けた後、皆でナイチンゲール像から受け取った灯火をかかげてナイチンゲール誓詞を朗唱する。

 


『われはここに集いたる人々の前に厳かに神に誓わん。

 わが生涯を清く過ごし、わが任務を忠実に尽くさんことを

 われはすべて毒あるもの、害あるものを絶ち、悪しき薬を用いることなく、また知りつつこれをすすめざるべし

 われはわが力の限り、わが任務の標準を高くせんことをつとむべし

 わが任務にあたりて、取り扱える人々の私事のすべて、わが知りえたる一家の内事のすべて、われはヒトにもらさざるべし

 身われは心より医師をたすけ、わが手に託されたる人々の幸のために身を捧げん——』



 しかししかし。

 実際に勤務してみれば、現実はやはり厳しかった。

 患者さんとの美しいふれあい、愛に満ちた看護の日々を夢見ていたが、そんなものとは程遠い現実が、そこにはあった。

 医療の現場にどっぷり浸かった私の正直な感想。

 キツイ。

 昔、3Kという言葉があった。

『きつい』『汚い』『危険』の3つを指し、仕事が辛いことの代名詞である。

 この看護師の仕事は、7Kであるとも言われる。

 先ほどの3つにプラスして——

『休暇が取れない』 『規則が厳しい』 化粧がのらない』『結婚できない』

 この4つを加えて、7K。

 なるほどなぁ、と思うことしきりである。

 人の命を預かる仕事だけに、緊張感もひとしおだ。

 糞尿とは、いやでもかなり仲良くお付き合いしていかなければならない。

 患者以外の男との出会いがない。

 中には、そういうナースご用達の合コンみたいなものが沢山あって、積極的に出かけていく者もいるが、私はまだそんな気にはなれない。



 本当に、いろんな患者さんがいたもので、決していい人ばかりではない。

 協力的でない患者さんもいる。

 セクハラまがいなことをしてくるオヤジ患者もいれば、陰口が大好きなオバサンもいる。

 この前、ヤクザかと思えるほどの荒くたい性格の患者がいて、扱いに非常に困ったことを覚えている。ソイツに「食事がマズイい!」 と、病院食のトレーをひっくり返されたことがある。

 その時私に一緒に付いていた看護実習生が、ショックで泣き出してしまった。

「……泣きなさんな。現場出たら、もっと色々あるんだから」

 私はただ、『こいつ星一徹かよ!』くらいにしか思わなかった。

 床にこぼれた食事を掃除しながら、確かに病院の食事ってあんまりおいしくないよな……なんて不遜にも思ってしまった私であった。




 1995年 (平成7年) 1月17日(火) AM5:46

 兵庫県  阪急電車●●駅付近



 ある朝。

 私は眠い目をこすって、日勤の勤務に向かうべく家を出た。

 昨日が夜までの準夜勤だったから、プライベートなことは何ひとつできなかった。

 ただ、家に帰って寝たというだけだ。

 電車の始発が、やっと動き出すかというこの時間帯。

 辺りはまだ暗く、街を歩く人もまばらである。

 気が付いたら、私は外科病棟に勤めてもう4年になっていた。

 その間にも、若い子が入ってきてはまたどんどん辞めていく。



 ……私、何やってるんだろ。



 もともと顔にもスタイルにも自信がない。

 これは謙遜で言うのではなく、世間一般の基準に照らし合わせて、極めて客観的な判断に基づいて言うのである。

 私は、ただ仕事をしていたのでは絶対結婚できないだろう。

 受身では、誰も寄り付かない。やはり、積極的に打って出なければ幸せはつかめないだろう。

 でも、誰かが現場を支えなければ。

 私が去ってしまえば、どうなる?

 誰かがやらねばならぬのなら、私がやれば——



 そんなとりとめもないことを考えていた時、それは起こった。

 急に視界が上下左右に揺れて、ピントが合わなくなった。

「何なのっ」

 空しか見えなくなった。

 空間把握がとっさにできなかった私は、数秒してやっと私が道路に転んだのだということが分かった。

 同時に、背中から嫌な振動が伝わってきた。



 ゴゴゴゴゴゴ……



 地中深くの悪魔が、せり上がってきて地上に君臨するかのような嫌な音。

 目の前に、何かが落ちてきた。

「…………!?」 

 ちぎれた、ビルの5階から上の部分だった。

 ブワッと上る土煙。

 一瞬遅れてくすぶり出す、真っ赤な火炎と黒煙——

 ゲホゲホ咳き込んだ私は、ハンカチを口に当てて駆け出した。

 私が走る先々で、アスファルトの道路に亀裂が走る。

「キャッ」

 思わず、走る速度を緩めて、後ろに飛びのいた。

 ズシン、という大きな音を立てて、電柱が目の前に倒れこんできた。

 見ている前で、木造の家屋はすべてペシャンコになった。

 水道管が破裂し、上る水しぶき。

 引火して次々連鎖的に起こるガス爆発。

 私の周りは、一瞬にしてのどかな早朝の街の風景から、地獄絵図へと変貌してしまった。

 建物から飛び出し、呆然とする人。

 身内がまだ建物の中にいるのか、半狂乱になって助けを呼んでいる人。

 世に言う、『阪神大震災』 である——。



 ハンドバッグを放り投げた私は、瓦礫の下から人を引きずり出した。

 その人の右足は、もう絶望的だった。

 ケータイを取り出し、病院にかけてみる。

「……つながらない」

 電波をつなぐ中継局も、何らかの打撃を受けたのだろうか。

 してみると、これはかなり広範囲にわたる大規模な地震なのだろうか。

 後に、この地震の規模はマグニチュード7.3だということを知った。



「ママぁ!」

 人形を抱いた女の子が、泣いている。

 私はフラつきながらも何とか駆け寄って、その子の目を覆った。

「見ちゃダメええええええ」

 彼女の母親だろうか。そばに寝転がっていた女性の頭部は、ぐちゃぐちゃに潰れていた。私は、その子のこれからを思っただけで、涙が出てきた。

 母親が目の前であんなことになったPTSD(心的外傷後ストレス障害)は、どんなにきついだろうか。

 私が泣いてる場合じゃ、ない。

 とりあえず、目の前のこの状況で、私ができることをするしかないか——

 そう判断した私は、とりあえず声を張り上げた。

「五体満足で動ける男、集まれぇ!」



 まだ、揺れは続いている。

 「こっちにも毛布敷いてちょうだいっ」

 動ける者は、慎重に叫び声のする場所へ赴き、可能な限り引っ張り出すなどして助け出した。

 比較的開けた地面を捜し、そこに負傷した人たちを寝かせた。

 すぐに、駅のそばの駐車場はケガ人で一杯になった。

 私は、そばにいたサラリーマン風の男に指示を飛ばした。

「あんた、この先2キロに病院があるから、何人か来れる医者か看護師がいれば、すぐに来てもらえるように頼んできて。もしすでに沢山の人が担ぎ込まれていて、病院側も人員を割けないと言われたら、せめて救急に必要な薬品や包帯だけでも分けてもらえるように言うの」

「はいっ」

 これから普通に出社するはずだったその男は、はじかれたようにダッシュして病院のある方向へと消えていった。

 周囲は、すでに瓦礫の山。とても、救急車は入って来れないだろう。



 ……病院自体が、倒壊していませんように。



 出血のひどい女性の腕に止血帯をくくりつけながら、私はそう祈った。



「こっちにも、人手くれ!」

 遠くから、声がする。

 やはり、私の心配は当たった。

 病院自体が、大変なことになっていたとの報告を、お使いに行ってもらったサラリーマンから受けた。

 病院側の入院患者のケアだけでも大変なところへ、医療従事者自身がケガをしてしまい、それが余計に事態をややこしくしていた。

 とりあえず、男は最低限の救急セットを担いで戻ってきてくれた。

「あなた、腕のここ押さえて包帯巻いといて。できるわね?」

「はい……」

 通学途中っぽかった女子高生の女の子に手当てを任せると、私は腕まくりをして声のする方向へ飛んでいった。



「もう少しで引っ張り出せそうなんだ!」

 見ると、大きな木の梁の下に足を取られた小学生くらいの女の子が。

「……助けてぇ!」

 私は、少し安心した。

 ぐったりして口数も少なければ、かなり危ない状況なのだが、それだけ泣き叫べるということは、十分に助かる体力はある。

 男が二人、女の子の片手ずつを持って引っ張り出そうとしていた。

 そばに手ごろな丸木が転がっているのを見て、私は叫んだ。

「一人がテコの原理で梁を押し上げれば、もっと楽に引き出せるかも」

 私と男たちとは協力して、圧迫されている少女の足に隙間を作るべく、つっかい棒をかまし、大きな石を支点にして思いっきり瓦礫を押し上げた。

「うわっ」

 その時。余震が周囲を襲った。

 頭上から、ガラガラと細かい石が落下し、砂埃が舞い降りた。

 恐怖のあまり、思わず後ろへ飛びのく男たち。

 私は絶叫した。

「ひるむなあああああ! もう少しなのよ!」

 そう。もう少しで、この子を引っ張り出せる。

 この子の命を助けられるのは、もう私たちだけなのよ——。




 その時。私には見えた。

「……何、あれ」 

 信じられない光景を、見た。

 私のノータリンな頭の情報をかき集めて判断する限り——

 それをあえて言い表すとするなら、『天使』だ。

 背中に羽根の生えた、白い衣をまとったおびただしい数の天使たちが、被災したこの地に舞い降りてきた。

 そしてその中の一体が、私の目の前にやってきた。

「あのう……お迎えに来ました」

 私は、立ち上がってその不思議な存在に対峙した。

「お迎えって、何の?」

 悲しげな顔をして、女性に見える天使ははっきりこう言った。

「あなたは、死んだんです。足元を見てください」

 言われて、私はおもむろに下を向いた。

 落下してきたコンクリートの塊に頭部を砕かれた、私の体があった。



「私は、天軍第1285師団所属の見習い天使・フレイアといいます」

 天使は、そう自己紹介した。

「あなたを、今から天国へお連れします」

 そっか。私はあの女の子を助けられなかったのか……。

「じゃあ、あの沢山いる天使たちは?」

 私の質問に、フレイアという天使はさらに顔を曇らせる。

「この震災で、それだけ多数の死者が出た、ということなんです」

 その時、空から声がした。



 ……子よ。よくやりました。おめでとうを言わせてください。

 自らの危険をも顧みず、目の前の命を救うために、全力で立ち向かったその姿。

 そして、お前が今まで何だかんだ思いながらも、看護の道を変わらない情熱で歩んできたその道のりも、私はすべて見ていましたよ。

 お前は、宇宙が誇る勝利者です。

 私はお前に、本来お前のものだった永遠の命を返しましょう。

 この世に生き返らせる、というのとはまた意味が違いますが——



 さぁ、おいで。

 これから先、いつまでもお前が苦痛を味わう事のないように。

 泣く事のないように。

 いつまでも幸せであるように。

 


「待ってください」

 私は、空に向かって叫んだ。

「ひとつだけ。ひとつだけお願いがあります。あの子を……あの子の命を助けてください」

 霊になった私には、死者と生者の区別がはっきり見えた。

 助けようとした私は死んだけど、あの子にはまだ息がある。



 私の願いは、聞き入れられた。

 フレイアさんによって軽々と救い出された女の子は、倒壊を免れまだ機能している病院に運ばれた。

 それを見届けてから、私は地上世界に別れを告げた。

「さ、行きましょう」

 フレイアさんに手を引かれ、私たちは宙に飛び上がった。

 下を見ていると、建物が一瞬で豆粒ほどになった。

 やがて街が神戸全体になり、神戸が日本になり、日本が世界になり、世界が地球になり……とうとう、宇宙空間に飛び出た。



 ……父さん母さん。お兄ちゃんに弟たち。

 バイバイ。先にごめんね。



 天国の入り口は、火星の近くにあるのだとフレイアさんが教えてくれた。

 でも、人間の目には隠されていて見えないらしい。

「実はね、私たち天使も任務の初めに宣誓するのよ。あの『ナイチンゲールの誓詞』。医療じゃないから、ビミョーに所々言葉は違うけどねっ」

 茶目っ気たっぷりの瞳で、フレイアさんはそう言って笑う。

 私も、つられて微笑みながら後ろを振り返った。

 小さくなっていく地球。



 ……さようなら。私の大好きな、小さな病院。

 担当の患者さんたち、ごめんね。急にいなくなって。

 さようなら、私の恋。

 結局男、誰もつかまえられなかったな——

 


 時が経ち。

 助けられた少女は、命の恩人の墓前で手を合わせた。

 命を懸けて助けようとしてくれた勇敢な人が、看護師だと知った彼女は——

 やはり大人になって、彼女自身も看護師となった。




 阪神大震災

 死者:6,434名 行方不明者:3名 負傷者:43,792名

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