時しゃぶり煙草
あさって
時しゃぶり煙草
いつの間にか九月になったなと思ったら、その九月も下旬に差し掛かってまいりました。暦の上では、そろそろ秋と言える頃合いでございますが、まだまだ暑い日が続いております。近頃は温暖化やらの影響なのか春と秋が無くなって、夏と冬だけになってしまったような、どうにも気温が極端ですね。とんでもなく暑いか。とんでもなく寒いか。中間がなくて極端に変わってしまう。私も先日こっぴどい風邪を引きまして、元々季節の変わり目は体調を崩しやすいと言われるわけですが、その落差と言いますか、変化が大きいと余計に身体に負担がかかってしまうようです。これは私達、お笑いも全く同じでございまして、徐々につまらなくなれば誰も気づかないわけですが――上手くいってるところで突然、急~にスベってしまうから皆さんも「あれどうも様子がおかしいな」と思ってしまうわけでございます。
なんにせよ人間、突然の変化にはなかなか対応できないものでして「今日から一日二十キロ走るぞ!」とか「一ヶ月十万預金!」とか。こんなことを仰る方がいらっしゃいますが、まぁまず上手くいきません。私の師匠、珍遊亭海楽も一日に三箱もタバコを吸うヘビースモーカーなんでございますが、ある時突然「煙草なんて金輪際吸わん」と大見得を切られまして、本当にその寄席の間は一本も吸わなかった。ですが寄席が終わった後、何事もなかったようにスパーッ、スパーッ、と煙草を吹かしてるんですよ。恐る恐る「師匠、よろしいんですか?」と聞きますとやっぱり平然とした顔で。
「これは禁煙できたお祝いだ」
結局その日、四箱吸いました。
気合いを入れるのは結構ですが、やっぱり地道に、徐々に慣らしていくのが一番の近道であるようです。江戸の人々も同じ答えを出していました。この時代、禁煙中の人々が口寂しさを紛らわすための『しゃぶり煙草』というものがあったのはご存じでしょうか。
ニコチンは含まれてませんが、その分太くて咥えがいがありまして、匂いも濃厚。味はと言いますと苦みがかなり強烈だったようです。いきなりスッパリ禁煙しようとしても私の師匠のようになってしまいますから、このような大味なものを繋ぎにして、徐々に煙草から離れていこうという、そういう狙いがあったわけですね。
この、しゃぶり煙草。当時は寿司や蕎麦と同じように屋台で売られておりまして、こう聞きますと、店主が徐にふんどしを解いて……ボロン。「さぁどうぞ」。こんな情景を思い浮かべてしまいますが、実際には違います。他の屋台と同じように店を切り盛りする店主がおりまして、その店主が担ぐ屋台の中に屈強な欧米人が控えているんですね。注文がありますと店主が欧米人の胸や内股なんかを軽く撫で上げまして煙草を整え給仕する、といった具合です。
この煙草がおおよそ十六センチ。そのことから、二×八で十六、二八煙草と呼ばれて庶民に親しまれておりました。
煙草の代わりとして吸う訳ですが、あまりに気に入って普通の煙草じゃ味がしない。物足りなくなった。と言って、今度はしゃぶり煙草中毒に成ってしまう方もいたそうです。こうなっては本末転倒ですね。「一時も吸わずにいられない」「一秒でも長く吸っていたい」そんな風に思う人も少なくなかったようでございます。
「たばぁ~~こぉ~~ぃ。たばぁ~~こぉ~~」
夜の江戸。歌うような抑揚で、しかし、陽気さの無いしわがれた声が響く。それを聞くや否や、男は住まいを飛び出した。目が回るような勢いで首を振り回すと、即座に、屋台を担ぐ後ろ姿を見つけた。
「おう煙草屋! 煙草屋ぁ‼ こっちだこっち――あぁあぁ、いぃいぃ。こっちだっつっても俺から行くからよ、そこに降ろしてくんな。なにもそんな重いもん持ってあっちだこっちだ行ったり来たりすることねぇわな」
屋台(細長い棒の両端に立方体の箱が取り付けられているもの)を担いだまま、その場でぐるりと方向転換した煙草屋に男は早口で捲し立てた。
「へぇ、恐れ入ります」
煙草屋は道の端に寄って屋台を降ろす。男はそわそわ上半身を揺らし上機嫌に屋台の中、棒で繋がれた両端の箱を覗いた。
「何ができるんでぃ? 鳥狩(*1)に? 芝刈り(*2)かい? じゃ、すまねぇが鳥狩を一本こしらえてもらおうじゃねぇかな」
「承知しました」
恭しく答えた店主は箱の中に手を差し伸べる。そこに控えるは筋骨隆々、均整のとれた金髪碧眼ハンサムマン。ビキニパンツから伸びる黒いサスペンダーが露出した上半身――白い地肌にラインを引き、絶妙なコントラストを生み出していた。煙草屋の手がその胸板に触れると、彼は「――っ」と微かに息を吐いた。
「どうでぇ景気は?」
男はやはり落ち着かない様子で、腕組みしたまま身体を揺らしていた。店主はハンサムマンの胸板に両手を這わせたまま、困ったような笑みを浮かべる。
「えぇ、世間様でも不景気不景気と言われておりますが、私共もすっかり煽りを受けてしまいまして……最高に繁盛した時をギンギンの剛直煙草とするなら、今は逆、言わば
複雑な微笑みのまま微かに俯く煙草屋の様子は、確かに萎えたしゃぶり煙草そのものであった。しかし男は「へへへっ! そうかい」と景気よく笑った。
「だがよ、こんな時だからこそ、商売ってのは腐らずやらなきゃいけねぇよ、なぁ、勃起という字を、お前さんが言ったみたいに逆立ちさせて見てみてくんねぇな。起勃……きっぼ。な? 希望と読めるじゃねぇか。希望を持ってやらなきゃいけねぇよ」
「ほぉ」と煙草屋は思わず息をついた。ハンサムマンは「Ah――」と声を漏らした。
「勃起が逆立ちして希望ですか。これは上手いこと仰いますな」
幾分元気づけられた様子の煙草屋は、先ほどより明るい微笑みで手際よくハンサムマンのビキニパンツをズリ降ろす。サスペンダーがバチンと音をたてパンツから外れる。肩を滑りハラリと地に落ちた。
「へぃ、おまちどお」
男は驚いた様子で、店主としゃぶり煙を交互に見やった。
「おぉ、もう出来たのかい? ありがてぇ、いやこれだよ。こうやって無駄話してる間に手ではしっかり乳首をつねり上げて煙草をこしらえててよ、話の切りがいいとこでスッ――と出てくる。いやぁ、ありがてぇ。ずっと、くっちゃっべってばかりで、なかなか煙草が出てこねえと思ったら「今からこしらえます」って煙草屋も中にはいてよぉ。まったく口を動かすのはしゃぶる側だけで充分だってのによ。へへっ」
男はそう言ってしゃがみ込み、上向いたしゃぶり煙草をじっくりと観察した。そこで、はたと何かに気づく。表情を歪めて目を見開いた。ハンサムマンは羞恥と、それがもたらす倒錯的官能に頬を染めた。
「煙草屋ッ……お前これ……ごむっかむり付けてんのか?」
男はしゃぶり煙草の皮、の上にもう一枚覆い被さったラバーの皮をつまんで引っ張った。
「へぇ……左様でございますが」
店主はおずおずと答えた。男はつまんで伸ばしたラバー皮を離す。元の形状に戻ったそれが、地肌を弾いて手を打つような音をたてた。店主の肩としゃぶり煙草がぴょこんと跳ねる。男は重々しく口を開く。
「……ありがてぇな。いや、ありがてぇ」
身構えた店主だったが、男の口から発せられたのは感嘆の言葉であった。
「巷にゃあ何かにつけて生がいい生がいいと言う奴がいるけどもね、俺に言わせりゃあいただけねぇね。どこの誰がしゃぶったかわからねぇものに口をつけるなんてのは気色が悪くていけねぇや。そうじゃなくったって、感染症のリスクだってあるんだからよ。『しゃぶるだけ』で差し込み煙草じゃないからってそこら辺侮っちゃあいけねぇよ、うん。まったくありがてぇ」
気の済むまで感動の言葉を述べてから、男は大きく開いた口元を煙草に近づける。生暖かい感触に、ハンサムマンは「Oh――Ah――」と喘ぎ声を上げた。そうすると男も興がのってくるってもんで、段々リズミカルに。
ジュズ、ズズルル、ジュルッ、ズルズルズル、ズズズ、ルルズズ、ジュルジュル、ズズズ
隅々まで煙草しゃぶる男、一心不乱。刺激に悶えるハンサムマンの徐々に高まる絶頂感。今まさに限界スリー、ツー、ワン――そんな時、男は突然煙草から口を離した。いや、離された。
「お客さん、他の方にもお届けしなくてはいけません。ここまで、ということで……」
店主が男の肩を叩いて、そう言った。夢中になってしゃぶる内、気づけば結構な時間が経っていた。
「あ……。あ~ここまで、ね。うん、いいよ。時間だもんな、時間。んー時間……」
男は白々しく何度も頷いたと思ったら、突然俯いて考え込むように数秒間黙り込む。そして店主に顔を寄せた。
「すまねぇが久しぶりのしゃぶり煙草でよぉ……。あとほんの二十秒だけ、吸わしちゃくれねぇかな――頼む! この通り」
男は両手を合わせて必死な形相、ハンサムマンは潤んだ瞳で切なげな視線を店主に送る。転宗はほんの一瞬だけ悩んだが、励ましてくれたり煙草を褒めてくれたり気の良いお客さんだ。多少贔屓をしても罰は当たらないだろう。そう考え、頷いた。
「へぇ、では数えさせていただきます。二十……十九……十八…………」
ジュズズズズズズルル、ジュルッ、ズルズルズル
聞くやいなやフルスロットルで口を動かす男。焦らされたことも相まって、ハンサムマンの全身を激しい快感が襲う。
「五……四……三…………」
ジュズズズルル、ジュルッ、ズルズルズル
終決への期待感に目を瞑るハンサムマン。しかし彼は突然「Eh……?」と疑問と驚きの混じった呻きを漏らした。男が、またも煙草から口を離したのである。ハンサムマンの困惑と失望を余所に、男は店主を見上げた。
「今、何時だい?」
なんで今そんなこと聞くのか、疑問に思いつつ店主は時計に目をやり――
「へい、十一でございます」
――そう答えると、カウントダウンを続行した。
「十……九……八…………」
「NOOOO!!!!」
ハンサムマンの絶叫が夜の江戸に響き渡る。おかしいだろう! あと三秒だったろう! ハンサムマンの心からの叫びはしかし――
ジュズズズズズズズズズズズズズZUZUZUZUZZZ‼‼‼
「Ohhhhh!!!!!!!!!!」
――男の絶技によって中断される。ハンサムマンは最早我慢の限界。いつ絶叫の代わりに絶頂しても可笑しくない状態だったが、しゃぶり煙草屋のハンサムマンは、時間一杯まで達する事を禁じられている。そう身体に教え込まれている。積もっていくばかりの快感にハンサムマンは歯を食いしばる。
「四……三……二…………」
「今、何時だい?」
「へい、十一でございます。十……九……八……」
「NOOOOO!!!!!!」
ジュズズズズズズズズズズズズズZUZUZUZZZZ‼‼‼
「Ohhhhhhh!!!!!!!!!!」
「三……二……一…………」
「今、何時だい?」
「へい、十一でございます。十……九……八………」
「NOOOOOOO!!!!!!!!!」
ジュズズズズズズズズズズズズズZUZUZUZZZZ‼‼‼
「Ohhhhhhhhhh!!!!!!!!!」
そんなやりとりを何度となく繰り返し、ハンサムマンが白目を向き、男の顎は外れ、時計を見る度首を回す店主の肩が凝ってきた頃。「三……二……一」という声に、男は息も絶え絶えやっぱり聞いた。煙草屋はまたかと思いつつ、律儀に時計に目をやった。
「ふぉふぁや! ふぃま、ふぁんふぉきふぇえ?」
「へい、ちょうど
瞬間、男は『シマッタ』と思うが後悔する間もなく。
ビュルッ、ビュルッッ、ビュビュビュビュビュッッッッッッ~~~‼‼‼‼‼‼
焦らしに焦らされた屈強な煙草の真っ白な吸い殻が、ごむっかむりを突き破りレーザー光線よろしく男の
「お前さんどうしたんだい、こんな夜更けに急に飛び出したと思ったら帰って来るなり厠でゲェゲェゲェゲェ。一体何があったんだい?」
茫然自失。男は深刻を極めたような顔で、うわごとのようにぽつり。
「しゃぶるだけのつもりが波乱でシマッタ」
時しゃぶり煙草というお笑いでございました。
時しゃぶり煙草 あさって @Asatte_Chan
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます