13-2 セピア色のポートレート
コーヒーの紙コップをもって個展会場のガラスドアが見えるところまで戻ってきたら、ドアの前に日傘をさした女の人が立っているのが見えた。
「あ、すみません。お待たせしました。いま鍵開けますね」
女の人が、ゆっくり振り向く。
「久しぶり、奥田くん」
「沙希さん。よくわかりましたね。きてくれるとは思いませんでしたよ。とにかくどうぞ。暑かったでしょう。待たせてしまってすみません。ちょっとそこで、昼メシ食ってコーヒーを買ってたんです」
ぼくは開錠の上、ドアを開けて手で押さえた。沙希さんは日傘をたたんで腕にかけてドアを通った。
「雑誌のインフォメーションのコーナーにでてたのを見たの。奥田くんは、写真の師匠だから。来ないわけにはいかないでしょう?」
「師匠だなんて、そんな」
「わたしが弟子を名乗ったら迷惑?」
「そんなことはありません。勉強は順調ですか?」
「まあまあかな。結婚式にはきてくれてありがとうというか、カメラマン頼んでしまって、ごめんなさい」
「いや、写真撮るしかできないですから。シャッターチャンス逃したら大変だと思って気が気でなかったけど、いい結婚式でしたね。あんまり久しぶりな気がしないですけど、会うのは結婚式以来ですか。もう四五箇月くらいたちますかね」
沙希さんは、萌さんが引退して本名にもどった女性だ。引退後は写真の勉強をすると言って、四月からぼくの通っていた専門学校の後輩になった。それ以前に、アマチュア向けの撮影講習会に通っているうちに男性と知り合い、結婚した。スピード結婚だ。結婚式ではぼくがカメラマンを勤めた。沙希さんにも、この一年でいろいろあったのだ。
「お互いいろいろあったから、時間の感覚がおかしくなってるんでしょ」
沙希さんが写真を見てまわりはじめる。コーヒーは受付に置いて、ぼくも一緒にまわる。
「四月にスイスで青木さんに会いましたよ」
「スイスっていうと受賞式で?」
「そうですそうです。全然連絡とってなかったのに、突然」
沙希さんには、受賞のことを発表のあとすぐに知らせた。この個展のことは、知らせなかった。ひっそりとやろうと思ったからだ。でも、雑誌に載せてしまっては、そんな企みは成功しなかった。
「どんな様子でした?」
「フランスで管理職やってるって言ってました。スイスはとなりの国だからっていって、ふらっとやってきたんです。ビックリしましたよ。ふらっとくるような距離じゃないんですけどね」
国も業界もかわって、まったく関係の切れたぼくのことを、まだ気にかけていてくれた。
萌さんのことで文句を言おうと思って失敗したあの夜以来、青木さんの仕事を断ってしまった。グラビアの仕事をやらせてもらえるようになったこともあり、ちょうど写真展の応募作を撮るために日本中をかけずりまわっていたころでもあるけど、顔を合わせづらいということがあったからだ。ひどい別れ方をしたというのに、青木さんは何ごともなかったかのようにお祝いにきてくれた。カッコよすぎる。
「優秀な人は、落ち目の日本にいても活躍の場がないから、いいことだと思う。わたしには、とうていついていけない人だったな。奥田くんも海外で活躍しそうだし」
「沙希さんもたいがいですよ」
沙希さんは立ち止まって、体をぼくのほうに向ける。
「そう?わたしは、いたって平凡な人間でしょ?」
まだタレントさんの心が残っているんだろうか。キャビンアテンダントといったっけ、スチュワーデスといっていた職業は。その人たちがするポーズのイメージがあるんだけど、手を肘のところで上に曲げて、手のひらを上に向けている。アテンションプリーズって感じだ。本職の人が実際にそのポーズをとっているところを見たことはない。
「気が早いですけど、卒業後はどうするんですか?」
「奥田くんの会社に雇ってもらおうかな?」
沙希さんは、ゆっくり歩きはじめる。
「あの業界にもどるんですか」
旦那さんは、沙希さんが萌さんであったことを知っている。理解のある旦那さんだから、本当にやりたければ可能かもしれない。
「うーん。でも、女のカメラマンのほうが気を許せそうじゃない?」
「まあ、いいですけど。ぼくは、いま受けている仕事が終わったら、会社をやめることになってます」
「そう。それもそうだって感じ。ひとり立ちできるくらい仕事がきてるってことでしょ?」
「まあ、なんとかやっていけそうかなってところです。社長がそろそろ独立してもいいんじゃないかって、勧めてくれたんですけどね」
「会社にとっては損失ね」
「世界って、こんなにやさしいのかって思います」
「一番やさしいのは奥田くんだからね」
沙希さんが歩きながら、ぼくのほうに顔を向ける。
「そんなことないですよ」
「でも、やさしすぎるから、童貞のままなんだよ」
沙希さんは、ぼくが告白に失敗したことを知っている。
「あのときしておけば、奥田くんの童貞を奪えたのに、残念だな」
沙希さんが立ち止まって、ぼくの胸元に手をおいた。まっすぐ目を見つめてくる。でも、ぼくはもう、あのころのぼくではない。このくらいでは、たじろいだりしない。
「風俗というものがあるんですよ」
「え?もしかして、行っちゃった?」
ぼくが先に歩き出す。沙希さんもついてくる。
「行っちゃいましたね。童貞は童貞でも、素人童貞ってやつです」
山口との関係が切れて半年くらいたったころ、ぼくは勃起した。女の人を見るだけで気分が悪くなるというのは、一箇月でよくなったんだけど、それまで勃起することがなかったし、オナニーすることもなかった。勃起したことで、それまでインポの状態だったことに気づいた。山口に男ができたショックのせいだろう。それで、童貞に嫌気がさして、ソープランドに行ったのだ。
「風俗はいいですよー。アニメの主人公になった気分に浸れる」
「そんなアニメないでしょ」
「まあ、そうかもしれません」
「風景なのに、全部モノクロなの?」
萌さんはその場でクルリとひと回りして写真をチェックした。見渡す限りモノクロの写真しかない。
「はい、現像で」
「ふーん、なんか力強い感じ」
「わかっちゃいます?」
「すこしは。全部日本なの?」
「そうですよ」
「山口さんと撮ったやつもあるの?」
「全部そうです」
沙希さんがぼくを抱き締めた。
「どうしたんです?」
「いまさらだけどね、慰めのお返し。苦しかったでしょう?よくガンバったね。よしよし」
ぼくも沙希さんに抱きつく。ぼくは、沙希さんが傷ついていたとき、慰めてあげることができなかった。拒絶してしまった。人に慰めを与えるというのは、痛みを知った人間でないと無理なのかもしれない。目をつぶって、沙希さんのぬくもりを感じた。
「もう大丈夫なんでしょう?」
「まあ、大丈夫です。でも、ありがとうございます。心が安らぎましたよ」
「よかった。でも」
沙希さんが体をはなす。
「本当の安らぎを得られる相手を見つけないとね」
「はあ。そんな人があらわれますかね」
「大丈夫。一人の人を好きになれたんなら、三十人くらいはほかの人も好きになれる」
「それは、ヒドイですね」
「男も女も同じだからいいの」
次が最後の写真だった。その前でピタリと、沙希さんの歩みが止まった。どうしたんだろうと、横顔を見ていると、沙希さんの目から涙がこぼれた。
「山口さんとは付き合ってなかったんでしょう?」
「ええ、まあ。好きっていおうとしたら、好きな人ができたって言われちゃいました」
「ふたりとも大バカだったね」
沙希さんは、ハンカチで目を押えた。
「こんなに大好きなのに、好きと言わず。こんなに思われているのに、それに気づかず。自分の気持ちにも気づかなかった。結局わかれわかれになるなんてね」
それは、山口がバイクにまたがって、笑顔でこちらに手を差し伸べている写真だった。
ぼくの意図は、ここに展示した写真は、山口が連れて行ってくれた撮影地で撮ったもの、山口が撮らせてくれたものであるということだった。そして、いまのぼくのいる地点につれてきてくれたともいえる。これからは自分の足で進まなければならない。これで、ぼくの写真人生は一区切りだ。そんなつもりだった。
沙希さんは、まったくちがう世界を見ているようだ。
「さっき、専門学校時代の同級生からは、セルフポートレートのほうがマシだと言われました」
「そうかもしれない。ちがう物語を見せられている気になっちゃうよ。でも、そうか。全部の写真をそういう風に見なくちゃいけないのかもしれない。それは、他人が見るべきものではないかな」
沙希さんは、ぼくの目を見つめる。瞬きをして、もう一粒、涙がこぼれた。
「わたしも、この写真は奥田くんの心にしまっておくべきものだと思うな。セルフポートレートのほうがいいというのは、同感」
沙希さんは化粧室で化粧を直して、灼熱の太陽のもと陽炎のなかに消えた。
ぼくは、個展会場にもどって、最後のポートレートをはずした。
セピア色のポートレート 九乃カナ @kyuno-kana
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます