13-1 奥田の写真はまえからよかったよ。
山口への告白が失敗し、ショックで死にそうな日々を過ごしたし、このまま死ねばいいと思っていた。それでも、ぼくは生きのこった。一週間後には少し食欲がもどり、一箇月で仕事に復帰することができた。人間の回復力というのは、なかなか捨てたものではない。数ヶ月のあいだは、なんとはなしに涙があふれてくることがあった。脳がすこし壊れていたのだろう。一年以上が経ったいまは、そんなこともなくなった。
小学校低学年くらいまでは、ケンカをして泣いたことがあったと思うけど、それ以降は涙を流したことがなかった。祖父母が亡くなったときでも涙がでなかった。それでも泣くという機能は失われないのだと、今回わかった。大人が泣くなんて、ドラマの中だけのことのように、いつの間にか思っていたけど、現実に大人も泣く。笑っちゃうくらいに泣く。実際、泣きながらおかしくて、顔をゆがめて笑ったことがある。頭がおかしかっただけかもしれない。
仕事の上では、出世してパッケージ撮影とグラビア撮影をさせてもらえるようになった。そして、とうとう個展を開いている。個展は、プライベートで撮影してきた写真を展示している。本当はもっと早くすべきだったんだけど、いろんなゴタゴタと準備で時間をとられてしまった。
受付で、並べたチラシの乱れを整えていたら、お客さんがはいってきた。専門学校時代の同級生の田代だ。田代と顔をあわせたのは卒業以来だ。それでも個展にきてくれたのが嬉しい。ぼくは田代の活躍を遠くから見ていただけだ。自分の不義理を恥じるしかない。ちょっと挨拶をして、写真を見てもらう。知り合いに写真を見てもらうのは照れくさいものだ。
「やっとだな」
「そうだね。田代は卒業後すぐからご活躍だけど」
「奥田は、賞にださなかったからだろ。写真がよくなったんじゃない。奥田の写真はまえからよかったよ。ただ、賞にだす、そして個展を開く。それだけのことなのに、いままでやってこなかったってだけだ」
「ぼくにはハードル高くて」
「あれだろ?あの奥田にくっついてまわってた女」
「え?もしかして、山口のこと?」
ぼくは、山口と口に出したとき、まだ心臓にするどい針金が突き刺さるような痛みを感じた。山口がぼくにくっついてまわっていたなんて、そんな風にまわりから見られていたとは知らなかった。ぼくが山口に振り回されていたというのは本当のことだけど。
「賞に応募して、個展を開いたってことは、わかれたんだろ?」
「いや、もともと付き合ってなかったんだけど」
「そうなのか?そんな奴となにやってたんだよ、三年も四年も。とにかく、その山口って子が奥田の障害だったんだ」
「そんなことないよ。山口のおかげでいろいろ撮影に出かけられたんだから」
「本気で言ってるのか?奥田は専門学校の一年のときから撮影旅行に出てただろ。すげー気合入ってんなーって思ってたんだ。山口って子と知り合う前から奥田は撮影していたよ」
「そうだったかなー」
「そんなことはどうでもいいか。とにかく、おめでとう。まさか、いきなり海外の賞をとるとは思ってなかったよ」
「うん、ありがとう」
ぼくはとうとう賞に応募した。スイスへ行って撮影した中からどこかの賞に応募しようと思っていた。いろいろ思案しているうちに、日本の風景を海外に紹介しろと、スイスでおばあさんに言われたことが思い出された。ぼくは方針をかえて、海外の人、特にアジア以外に住む人に日本の風景を紹介するつもりで賞への応募を考えることにした。そして、スイス国際写真賞という公募の賞で、ネイチャー部門に応募することに決めた。応募したのがスイスの賞だというのは偶然だ。ヨーロッパかアメリカあたりの賞にしようと思って探していたら、ちょうどよさそうなのがスイス国際写真賞だったということだ。日本では風景写真で応募できる賞が少ないという点からいっても、よい選択だったと思う。
夏から冬にかけて、仕事が忙しい時期もあったけど、アジア人以外の人に興味をもってもらえる写真を撮ろうと、あちこち出かけた。賞の締め切りは年内いっぱいだった。とにかく、自分なりの写真を撮り、はじめて賞に応募して、それなりの満足感が得られた。すこし成長したなという実感があった。
二月になって連絡がきて、お前に賞をやる、四月に受賞式にこいと言われた。受賞式ってなんだ?と思った。賞というのは、雑誌やウェブサイトに載って終わりかと思っていたら、受賞式というのがあるという。さらに、受賞作品は世界中を巡回して展示されることになっていた。それが国際的な賞かと思った。ものすごいチャンスが回ってきたんだけど、ぼくは英語ができないからチャンスをフイにしてしまうんじゃないかと心配になった。あわてて英語の勉強をはじめた。
四月、社長に相談して休みをもらった。受賞式が二日間かけて行われる。それに出席するためだ。前年一箇月の休職をして、また一週間の休みをもらうというのは心苦しかった。帰ったらいい写真をとって報いようと決めた。
作品が世界を巡回し、問い合わせがぼちぼち来るようになってきた。国内でも紹介されて、ご指名の依頼を受けることもある。
「でもさ、なんでこんなの展示してるんだ?」
展示の最後の写真の前だった。
「え?これが一番好きだっていってくれる人もいるよ?」
「へたなセルフポートレートのほうがマシだと思うぞ?」
「いいんだよ、ぼくがこれでいいと思ってるんだから」
「まあな。じゃあ、お互いこれからだ。ガンバっていこうな」
「うん、今日はきてくれてありがとう」
古い友人を送り出して、ぼくは目を細めた。日差しが目を突く。
午前の部は終了にする。財布をもって個展会場の鍵をかける。ガラスドアに「食事中、しばらくお待ちください」の札をさげる。
近所のそば屋でかつ丼を食べた。うまくてボリュームがあった。すこし胃もたれするくらいだ。コンビニで食後のコーヒーを買って会場にもどる。
レギュラーコーヒーを自分でいれるようになって、コーヒーの味のちがいがわかるようになっていた。コーヒーをいれる実力もあがったと思う。一年くらいの研鑽で、人生と同じくらい苦みのあるコーヒーがいれられるようになった。いまでは、喫茶店で飲むより自分でいれたほうがいいくらいだ。写真がダメだったら喫茶店で働こうなんて考えていた。
そんなこといっておいてなんだけど、コンビニのコーヒーを利用することがある。その味の良さは、目を見張るものがある。味の場合はなんていうのか知らない。下手なチェーンの喫茶店よりおいしい。自分でコーヒーをいれるのが面倒なときはコンビニのコーヒーで十分だと思える。
ボタンを押すと豆をひいて抽出するタイプの機械が多いけど、挽いた粉がはいったパックをセットするタイプの機械をおいているコンビニがあって、ぼくはこっちのほうが好きだ。パック方式のほうが、豆が密閉されていて鮮度が落ちないせいかもしれない。挽きたてだけでなく、炒りたてということが、味に影響するということかな。
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