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弓を引いていると、時々思いもかけずに痛い目に遭う事がある。手や顔を払うのは、まあ……弓道をやっていれば経験しない人はいないんじゃないかしら。誰しもが一度は通る道なのだ。弓手の前腕、頬、胸。髪の毛なんて右の方ばっかり枝毛になるし。
でも、特に痛いのは耳。耳を払った瞬間、涙が出そうなくらいの激痛が走り抜ける。そして一瞬遅れてキーンという耳鳴りが大きな音で鳴り響く。そんなときはいつも耳が取れてしまったんじゃないかと、涙目でそっと、払った箇所を確かめずにはいられない。
——あなた、昨日今日弓を引き始めたわけじゃないでしょう? なんで暴発なんてさせるのよ、馬鹿。え? ちょ、やだ、耳払っちゃったの? 嘘。ねぇ、……大丈夫?
……こんなとき。彼女がそっと声を掛けてくれるのはなによりも嬉しい。でもさ、どうせなら〝大丈夫?〟って心配してくれる声がお小言よりも先にきてくれた方が嬉しいのにな、なんて思ってしまうのだ。わたしはえへへ、って笑ってみせて。彼女の相変わらずの指先が、そっと自分の耳に触れる瞬間をこの上ない幸せに感じてしまう。まさしく飴と鞭を地でいっているようなものなのだけど。
さて、このお話はそんな痛い思いをした最初の記憶。紫優ちゃんの前で初めて弓を引いた、あの日の思い出。
……そういえば思い出したことがある。当時の紫優ちゃんの車はハイトタイプの軽自動車で、黄色い外装とずんぐりしたフォルムから、わたしたち家族のあいだではプーさんの愛称で呼ばれていた。たとえば。
プーさんの中に段ボール積んであるから下ろしてきて。
なんていった具合に。年代物のプーさんは時々反抗的になってへそを曲げてしまうけど、わたしたちはみんな彼の事をどうしても憎めず、愛していた。
あ、せっかくなので、ここから先、彼(?)の事はプーさんと呼称したいと思う。
果穂さんの、というよりも洪大先生の道場に向かう道すがら、わたしは紫優ちゃんの運転するプーさんにゆられてぼんやりと夜の景色を眺めていた。田植えも済んだ水田からは、異性を求める蛙たちのラブコール。まだやわらかそうな稲の苗の隙間に、満月が水面にゆれて光っている。
「改めてメール読み返してみたんだけどね」
ハンドルを動かしながら紫優ちゃんが言った。カーステレオのFMは、はやりのJポップを小さな音で流している。
「……結局なんだかよく解んなかったわ」
「ふーん」
事情をなにも聞かされていないわたしは、ちらりと紫優ちゃんを一瞥しただけで、また夜の風景に目を向けた。水を張ったばかりの、稲を植えて間もない田んぼが好きで。蛙が梅雨の訪れを知らせる歌を聴くのが好きで。わたしの一番好きな季節がまた、ゆっくりと巡ってきたのを肌で感じていた。
「こら、人の話はしっかり聞くの」
「だって、興味ないんだもん。そもそも学校に関連する事なのかどうかだってわたし、知らないんだよ? 果穂さんが教えてくれないんだったら紫優ちゃんが教えてくれてもいいのに」
わたしは少しむっとしながら改めて紫優ちゃんに視線を向けた。
「わたしだって詳細は知らないもの。ねえ、……本当に果穂から一花はなにも聞いてないの?」
「もう、だからそう言ってるじゃん」
わたしはただ、弓道着を持ってくるように言われただけ。たぶん道場に入るなら、それなりの格好をしろという事なのだと思うのだけれど。それにしたって真意のほどは解らない。
「紫優ちゃんも道着と弓、持ってきたじゃない? って事は、弓道がらみの相談なんでしょ?」
「わたしもせっかくだから弓を引かせてもらおうと思っただけよ? とりあえずあの写メ消させられたらそれでいいもん」
紫優ちゃんはそう言って苦笑してみせた。
「ねえ」
わたしは訊いた。
「紫優ちゃんにとって、果穂さんってどういう存在なの?」
「友達。今はもうそれ以上でもそれ以外でもないわ」
「嘘」
わたしの声の硬さに、紫優ちゃんが路肩にプーさんを止めた。そしてわたしをじっと見ているのが解ったけれど、わたしは紫優ちゃんの方を見なかった。
そして前を向いたまま、言った。
「友達だと思ってるなら、どうしてわざとらしく不機嫌にしてみせるの? どうして射会で会っても無視し合うの? どうして……お母さんは紫優ちゃんを許すの?」
ラジオからはアイドルグループの女の子たちの歌声。ハザードランプの点滅する音。蛙の鳴き声。静かな、遠くから漂う雨の匂い。
「お母さんがあれでなかなか嫉妬深い、ってのはわたしだって見ていれば解るわ。だから紫優ちゃんが滅多に道場に行かない事もちゃんと解ってる。……でもね、わたしだったら嫌。後ろめたい気持ちのまま出かけていくのも、それを見送るのも。ねえ、もう終わったとはいえ、果穂さんは昔の恋人なんでしょ? 紫優ちゃんがそう言ったんでしょ? なら、どうして友達だなんて簡単に言うの? 果穂さんは紫優ちゃんにとって大切な人なんでしょ? それは果穂さんが結婚したって……変わらないんでしょ?」
紫優ちゃんは暫く黙っていた。
いつかのようにハンドルに肘を掛けると、その上に自分の額を乗せた。さらさらと少し癖のある髪が流れて。紫優ちゃんの表情を覆い隠した。
「果穂はね、わたしの……ううん、わたしたちの恩人なの」
紫優ちゃんは俯いたまま、静かな声で言った。
「最初から話そうね。わたしと果穂はあの高校に入学して初めて出会ったの。……一年の頃からずっと同じクラスだったわ。前にも話したかもしれないけれど、最初は喧嘩してばかりだった。同じ弓道部員になったのに、ほとんど口もきかなかったもの。でもね、わたしは彼女の真摯な姿が好きだったの。今の果穂の射も好きだけれど、中てる気の強い当時の果穂の弓も大好きだった。わたしはね、弓道を始めた最初の頃……全くって言っていいほど的に当てられなかった。でも、それでもいいと思っていた。わたしの弓は……そういう弓なんだって、思っていたから。それは一花にも前に説明したと思うんだけど」
「……うん」
わたしは頷いた。紫優ちゃんの弓は、自分が的外れな人間なのだと忘れないための……祈りのようなものなのだって、そう話してくれたのをわたしは憶えていた。
「でもね、そんなわたしを果穂は許してくれなかった。ある日、やる気がないなら部から出て行って欲しいって言われたの。そんな風に思われていたなんて、わたし知らなかったから……泣けてきちゃって。ボロボロ涙を流しながらね、必死に訴えたわ。そのとき、つい……『こんなに弓道も果穂も好きなのに、どうして解ってくれないのっ』って。思わず言っちゃったの」
わたしは無言で紫優ちゃんを見つめていた。紫優ちゃんはハンドルに突っ伏したままだった。
「そのあとも紆余曲折あったけれど……わたしたちは恋人同士になった。そして果穂に洪大先生を紹介してもらえて、あの頃が弓道をしていて一番楽しかった時期かもしれない」
紫優ちゃんは少しだけ沈黙した。どこかで蛙が鳴き続けていた。
「……あれは高校を卒業して、看護学校に通ってるときだったわ。わたしの家が火事で焼けたって、昔、一花にも話した事があったよね? あのね、わたしの両親がその火事で死んだあと、果穂の家に暫く居候させてもらっていた時期があるの。わたしには身寄りがなかったし、背中のやけどもひどかったから。ひとりではたぶん、生きていけなかった。わたしは果穂が好きだったし、果穂もわたしを好きでいてくれたから。洪大先生も優しい方だから。だから……わたしはその好意に甘えたの」
はあ、とため息が聞こえた。後続車がわたしたちの隣を追い越していく。紫優ちゃんはハンドルにもたれかかったまま、動かない。顔を、表情を見る事も出来ない。
そしてまたゆっくりと喋り出した。
「でもね、わたしは……そんな生活に耐えられなくなったの。両親が焼け死んだのに、のうのうと暮らしていく事に耐えられなくなったの。自分だけが周りから優しくされるのが許せなかったのよ。だからね、逃げたの。あんなに好きだったのに。果穂の優しさが、先生の優しさが……わたしにはどうしようもなく辛かったの。だからわたしは看護学校を出たら……なるべく遠くに行こうと思った。でもそれだって打算だったんだよね。自活出来るようになるまで出ていかなかったんだもの。もっと早くに出ていくべきだったんだわ。一花、これで解ったでしょ? わたしは、どうしようもない人間なの。遠くに、遠くにって思っていたら……気付いたら北海道なんかに来ていたんだものね。自分でも馬鹿だったなって思うけど」
北海道。
お母さんの産まれた場所。
そして、お母さんが忌み嫌う場所。
「そしてわたしはかすみと出逢って、……ふたりで逃げたの」
「……どうして?」
そう聞いたわたしの声は、自分でもびっくりするくらい、かすれていた。
「言わない。絶対に。一花が言ったのよ。秘密は墓まで持っていくの。あなたには絶対に喋らない」
もう一度、はあ、っと深いため息が聞こえた。紫優ちゃんの肩がふるふると震えていた。
「逃げるって言ったってさ。どこに逃げたらいいのかなんて解んなかった。で、気付いたらまたここに戻ってきちゃった。ほんと馬鹿みたいよね。両親が死んだこの場所に、また戻ってくるなんて。果穂を裏切って出ていったのに。絶対に戻ってくるもんかって、そう思って飛び出したのに。……なのにね、かすみを連れて戻ってきたわたしに、果穂も先生も変わらずに優しく接してくれた。ふたりはかすみの為にも散々骨を折ってくれた。そして……そんな真似をしたわたしを、わたしたちを責めたりしなかった。何事もなかったかのようにわたしを許してくれたの。わたし……今でも、どうやって果穂や先生に接したらいいのか解んないの。本当に解らないの。一花、教えてよ。わたしは……わたしはなんでここにいるの?」
わたしは静かに呼吸を繰り返した。胸が詰まって、うまく息が吸えなくて。うまく息が吐けなくて。胸が苦しい。そんな思いを抱えて、紫優ちゃんが弓を引いていたなんて。果穂さんと会っていたなんて、わたしは思いもしなかった。離れる事も苦しくて、会う事も辛くて。そんな紫優ちゃんを、お母さんはどんな思いで見つめていたのだろう。
わたしは小さな声で、言った。
「ねえ、紫優ちゃん。それをわたしが答えて、それで紫優ちゃんが納得するとは思えないよ。だから言わない。それはね、紫優ちゃん。紫優ちゃんが自分で見つけなきゃいけない答えなんじゃないのかな。果穂さんたちとの事だけじゃなく、ね。だってさ、わたしとお母さんの為に自分を犠牲にして、なんて思ってはいないんでしょ? 紫優ちゃんが求めているのはもっと別のなにかでしょ? ねえ、……紫優ちゃんはわたしたちの事を重荷に感じたり……する?」
「ない」
紫優ちゃんは強い口調で言った。
「あるわけないじゃない」
「なら、……顔をあげてよ」
ゆっくりと俯いていた顔を戻すと、紫優ちゃんの顔は……涙でぐしょぐしょになっていた。
「わたしは、紫優ちゃんが好き。好きだよ。それだけじゃ……駄目かな? それだけをわたしがここにいる理由にしちゃいけない? ……好きよ、紫優ちゃん。わたしも、お母さんも。ねえ、わたしとお母さんが紫優ちゃんと一緒にいる理由なんて、それ以外にあるわけがないでしょ? だからお母さんは北海道からここまで、紫優ちゃんについてきたんだと思うわ。だから……紫優ちゃんがここにいる理由は、紫優ちゃんが見つけなきゃ駄目なの」
わたしは手を伸ばして、そっと指先で紫優ちゃんの涙を拭った。そして果穂さんが以前話してくれた……紫優ちゃんの負い目がなんであるのかを、わたしは今日、初めて知ったのだ。だから。
お願い。……紫優ちゃん。
自分をそんなに責めないで。
「好きよ」
あとからあとから溢れる涙を。
何度も何度も拭いながら。
紫優ちゃんがいつか自分を許せる日が来るように。
わたしは繰り返し繰り返し、紫優ちゃんに好きって……囁き続けた。
道場から家に帰ると、お母さんがあきれ顔でわたしと紫優ちゃんを出迎えた。随分遅くなってしまったから一度メールはしていたんだけど、それでもちょっとむっとした表情だった。
「ねえ、なんでふたりだと道場に行く度に泣いて帰ってくるの? 紫優も一花も。目が真っ赤じゃない」
わたしはちょこっと唇の端を持ち上げて苦笑いしただけだったけど。
でも、紫優ちゃんは。
……お母さんをぎゅうっと抱きしめて。
「かすみ。好き。世界で一番、あなたを愛している」
お母さんの耳元でそっと囁いたりしていた。
もう、玄関先でそんな事されたらわたし、家に入れないじゃんっ。
「……うん。知ってる」
お母さんの手が紫優ちゃんの背中に回る。身長差があるから、こうやって抱き合っていると本当に絵になる。お母さんの顔はものすごく幸せそうで。うらやましいな、なんて不覚にも思ってしまった。
「わたしも紫優が一番好きよ」
「じゃあ、わたしはどっちにとっても二番なわけね?」
わたしが少し茶化して、ちょっとだけむくれて訊くと、
「なに馬鹿な事言ってるの?」
お母さんは不思議そうな顔をした。
「一番とか二番とか、変な子ね。一花と紫優にそんなものあるわけないでしょ?」
「……ほらね?」
まるでチェシャ猫のように。にやりと笑った紫優ちゃんの顔があまりに憎たらしくて。お母さんのほっぺにキスする仕草がいかにも気障ったらしくて。わたしだって本当は解っていたはずなのに、イラっとしてしまった。
「ふん、だ。なによ、いい歳こいてバカップルなんだから。あーあ。わたしはさっさとシャワー浴びて寝ちゃうからいいもん。あ、この前の喧嘩の原因みたいな事するならわたしが寝てからしてよねっ」
お母さんが真っ赤な顔になっているのをざまあみろと思いながら。わたしはさっさと浴室に行き、洗濯機の中に乱暴に服を脱ぎ捨てていった。
お母さん、目なんかじゃなくてわたしの右耳、赤くなっていたのに……気付いてくれなかったのかな。一番とか二番とかは関係ないとしても、さ。
ちょっとだけ悲しい。もう少しくらいわたしの事も、見ていてくれたっていいのに。これじゃなんだか紫優ちゃんに負けたみたいで……悔しい。
……なんて思っていると。
「一花」
脱衣所の扉の外から声がかかった。お母さんの声だった。
「入るわね」
わたしの返事も待たずに入ってきて。下着姿のわたしの右の頬に、そっと手を当てた。
「あなた、右耳以外にはどこもなんともないの?」
「……え」
「え、じゃないわよ。耳、真っ赤じゃない。弓でやっちゃったんでしょ? 腕とか平気なの? 痣になっちゃってない?」
「うん。大丈夫、だけど……耳の事、紫優ちゃんから聞いたの?」
「なんで? 聞かなくたって見れば解るじゃない。わたしを誰だと思ってるの? あなたの母親よ?」
わたしが茫然としていると。
不意にわたしの頬は、お母さんの手によってむにゅりっとひねりあげられたのだった。
え?
あの、痛いんだけど?
「それからね、いくら苛々してたって、紫優に、親に向かってあんな事言ったらわたし、怒るからね。わたしはそんなふうにあなたを育てた覚えはないわ」
「いひゃい。いひゃいんらけど」
「痛くしてるの。……返事は?」
「……ごめんなさい」
「うん。じゃあ、お風呂入っちゃいなさい。そしたらきちんと中間テストの勉強するのよ。いいわね?」
「うん。……ねえ、お母さん」
わたしはひりひりする自分の頬を撫でながら、ちょっとだけ釈然としない気持ちを抱えて。脱衣所を出ていこうとするお母さんを呼び止めた。
「お母さんはさ、どうして自分がここにいるのかって、考えた事ある?」
一瞬きょとんとしたお母さんは、
「大好きな一花と紫優がいるからに決まってるじゃない」
にっこり笑ったのだった。
……道場では洪大先生と果穂さんが神妙な顔つきで待っていた。きっと、約束の時間を大幅に過ぎていた事もあるのだろうし、紫優ちゃんの目が真っ赤で、頬に涙の跡があったからでもあるんだと思う。
洪大先生も果穂さんも、紫優ちゃんの顔を見ても、その事についてはなにも触れなかったけれど。
「遅刻してきやがってまったく。ま、あーと、その早速で悪いんだがな、紫優、お前次の県南支部の大会によ、その……出ちゃくんねぇか」
暫く黙っていた洪大先生が口を開いたと思ったら、奥歯に物が挟まったように。言いにくそうにそんな事を言った。
「え? 嫌ですけど」
紫優ちゃんはしれっとそう返した。大会に出るのが嫌いだっていうのはたぶん、ふたりとも知っているはずで。洪大先生は口の中でもごもごとやっぱりそうだよな、ほれ見ろ馬鹿ったれと呟いただけだった。
「果穂、これは一体なんなの?」
訝しげに首を傾げてみせる紫優ちゃんに。果穂さんはパン、と顔の前で手を合わせて、ぺこりと頭を下げた。
「紫優、一生のお願い。わたしの代わりに勝負して」
「だから嫌だってば。勝負ってなによ、て言うか誰と勝負する事になってんの」
「わたしの高校の部活の子」
「……は?」
三人の遣り取りを聞いていたわたしは、全員からちらり、と視線を向けられて、どぎまぎしてしまった。
「わ、わたしじゃないよね? 果穂さん、わたしまだ矢を番えた事だってないんだけどっ」
「一花ちゃんのわけないでしょ。香坂さんよ、香坂ゆかり。あの子がわたしと勝負しましょう、って」
「してあげればいいじゃん。なんでわたしなのよ?」
香坂先輩の名前が出て、わたしは一瞬心臓が止まるかと思った。
香坂先輩と果穂さんの勝負……だなんて。
なんだか頭の中がぐるぐるしちゃって全然解ってないんだけど。でも、確かに紫優ちゃんの言い分は一理ある。そもそも……なんで香坂先輩と果穂さんが勝負する事になっちゃったんだろう?
わたしもそう思って果穂さんに訊ねると、事の発端は……果穂さんが香坂先輩の射に対して渋い顔を見せた事に始まるんだとか。確かにこの前も舌打ちしていたし、思いっきり顔に出ちゃってたんじゃないかな。
……先生。わたしになにか文句があるのなら、わたしに直接、はっきりとそう言ってくださいませんか。
部活が終わったあと、書類を片付けていた果穂さんに、香坂先輩はそんなふうに棘のある言い方をしたのだそうだ。
……文句? ないわよ。よく中たってるじゃない。
ほら、その言い方。なんなんですか。的に中てる事にこだわるのがそんなにいけない事なんですか? どうして先生はわたしの射をお嫌いになるんです? わたし、体配も道着の着付けも、先生に言われた通り疎かにしているつもりはありません。インターハイの予選も近いのに、先生の視線が気になって集中できないんです。
きっと睨む香坂先輩の姿に、果穂さんはちょっと気後れしてしまったのだという。なぜ自分にそんなに突っかかってくるのか、そのときは皆目見当もつかなかったから。
解りました、先生。それではわたしと勝負をしませんか?
……勝負?
香坂先輩のその言葉に、果穂さんは怪訝な表情で訊き返した。
ええ。先生はわたしの弓がお嫌いなのでしょ? なら、正々堂々勝負しましょうよ。わたしが勝ったら、もうわたしをそんな目で見るのは止めて頂きたいんです。それと一人の生徒だけ依怙贔屓して、コソコソと裏で話すのも。
依怙贔屓? なんの事?
……個人名を出さないと解らないのですか?
そういう事ね、解ったわ。
果穂さんがため息混じりにそう呟くのを、わたしはやすやすと想像する事が出来た。それにしても……香坂先輩からもわたしたちの事、そんな風に思われていたなんて。……悔しいのとは少しだけ違う感情が湧いて、なんだか胸が締め付けられるようだった。
その代わり、勝負の方法はわたしが決めるわよ。あなたが言い出したんだもの。……いいわよね?
構いません。それで?
七月の最初の日曜日、わたしの所属する道場が参加する県南支部大会っていう割と大きい大会があるの。あなたもうちの道場のメンバーとしてエントリーしてあげるから、それで個人優勝してごらん。ま、わたしは個人戦の方には出ないから直接的な勝負にはならないけどね。でもね、わたしの友人が必ずあなたの優勝を阻むわ。あなたがわたしの友達に勝てたら、誰にも負けなかったら。そのときは香坂さんを本当の意味で認めてあげる。それから、もうあなたの射については、勝負に関係なく、わたしはなにも言わない。顔にも出さないようにする。その大会で自分になにが欠けているのかを自分で悟りなさい。依怙贔屓云々の件に関しても、……そんなのあなたの勘違いだけど、自重するようにしましょう。そうね。その大会で優勝できるなら。高校のインターハイなんて楽勝なんじゃないかしら?
解りました。
そう言うと香坂先輩はきびすを返して、
……わたしはもう、誰にも負けませんから。
言い捨てて、静かに去っていったのだという。
その話をわたしと紫優ちゃんは茫然としながら聞いていた。香坂先輩も香坂先輩だけど、果穂さんも果穂さんだ。わたしの事があったとはいえ、格好のいい台詞(せりふ)を言っておきながら……その実、全部紫優ちゃんに丸投げしちゃうんだもの。
「まあ、事情は解ったけどさ。わたし、そういうの嫌よ。果穂だって解ってるでしょ? それに一花の事もあるなら……尚更だわ。元はと言えば全部、果穂が悪いんじゃないの」
紫優ちゃんは部内でのわたしの立場や状況はよく知らないはずだけれど……内心どう思っているんだろう。ちょっとひやりとした、冷たさを感じる声でそう言った。
「今までだって誰かと勝負しようとして弓を引いた事なんてないもの」
「解ってる。でもね、あの子もあのままじゃいけない気がするの。でも、……わたしじゃ駄目なのよ。紫優なら……わたしの言っている意味、解るんじゃないの」
「紫優ちゃん」
わたしはそっと、紫優ちゃんの袖を引いた。
「わたしからも……お願いできない、かな。香坂先輩の射はね、一目見たときからとても……綺麗だと思った。でもね、どこか無理しているような気もするの。それがなにか、わたしにはよく解らない。かたくなで、周りに壁を作っていて、誰も……先輩に話しかけないの。わたし、でも……紫優ちゃんなら、香坂先輩の心を解きほぐしてあげられるんじゃないかなって、そうも思えるの。本当は、本当はわたしにそれが出来たらいいんだけど。しなきゃいけないんだと思うんだけど。でも、きっと、今のわたしなんて……先輩になんにもしてあげられる事、ないから」
あれ?
わたし、なんでこんなに。
……悔しいんだろう。
鼻の奥がつんと痛くなって、目頭がじんわりと熱を帯びる。
涙がこぼれそうになって。
わたしは慌てて紫優ちゃんから視線を逸らした。
「……ひとつだけ、条件を付けてもいいかしら」紫優ちゃんは厳かな声で言った。「あの写メ消してくれたら。出てあげてもいい」
「うん。消す。……あーあ、せっかく待ち受け画面にしてたのに」
「なっ、ちょ、あんたそんな事してたの? 信じらんない。今すぐ消しなさいよ、馬鹿っ。次こんな事したら絶交だからねっ」
紫優ちゃんが果穂さんのほっぺを思いっきり抓っていた。痛い痛いと大騒ぎしながら、それでも果穂さんは嬉しそうだった。
その話のあと、わたしは生まれて初めて矢を番えて的前に立った。
果穂さんは「まだ的前に立つのは早いのかもしれないけど、今日はお父さんが見てくれるって言うから」と言って洪大先生をちらりと見た。
洪大先生はわたしを見て、小さく無言で頷いた。
わたしに道着を持ってこさせたのは、最初っからわたしの射を見てくれる為だったんだ、と思うと嬉しい反面……ちょっと他の一年生に対して抜け駆けするみたいで申し訳ない気持ちにもなる。でも紫優ちゃんも特に反対しなかったから。わたしは道場に置いてある一番弱い弓を借りて、そして……。
……一緒に更衣室——というか物置というか——で道着から私服に着替えているときに、紫優ちゃんの背中であの赤黒い鴉が踊っているように見えた。
「……もしかして笑ってるの?」
わたしが訊くと、鴉のダンスはより激しくなった。
「ひどい。紫優ちゃんの馬鹿」
「ごめん、だって。……だって」
くつくつと笑いをこらえながら、そっと紫優ちゃんは自分の目に浮かんだ涙を拭った。もう、泣くまで笑わなくてもいいじゃん。
「痛いのをじっと我慢してる一花が可愛かったんだもん。痛かったでしょ?」
「そりゃ、あれだけ思いっきり耳払ったら、痛いよ。涙が出そうだったわ。でも、それを顔に出したら失礼だと思ったんだもの」
素引きで引くのと矢番えして弓を引くのでは、……全然感覚が違った。矢こぼれしそうになって、その事ばかりに気がとられて、まったくといっていいほど手の内が作れていなかった。物見も浅かったんだと思う。バチン、という大きな音がしたな、と思った瞬間。耳がちぎれたのかと思うくらいの激痛が走って。キーンと甲高い大きな耳鳴りがした。
それでもわたしは、なんでもないふりをした。放った矢は無様に矢道を転がっていた。
「なんで今、耳を払ったか解るか?」
洪大先生がゆっくりとした声で訊いた。
「手の内がめちゃくちゃだったから、でしょうか」
わたしは痛みをこらえてそっと右耳に触れながら、答えた。
「それもある。けどな、弓がお前を認めてくれてねぇんだな。ほれ、ちょっと貸してみろ」
そう言うと洪大先生はわたしの持っていた弓を取り上げ、軽く肩入れしてからおもむろに矢を番え、簡単そうに……それは本当に簡単そうに見えた……的に向かって矢を射た。
パン、という音がして。
洪大先生の矢は的の中央付近に突き刺さっていた。
「これで少しは言う事聞くだろ。もう一回引いてみろ」
「あ、はい」
わたしは狐に抓まれたような表情のまま、もう一度矢を番え、的を見つめた。なぜだろう……さっきよりも弓が軽い。
矢を射るとき、普通は的を月に見立てる。弓から完全に出ていれば満月。少し弓にかかるように見れば半月。まったく弓に隠れるように狙いを定めれば、闇……といったように。大きさも本物そっくりで、本当に月に向かって矢を射ているかもしれない、と錯覚してしまう。わたしはよく解らない不思議な気分のまま、耳の痛みも忘れて会の姿勢に入った。
「口割りがまだ高い。もっと引け。それから狙いは上げろ。もうちょっと前を狙うんだよ。前って言ったら右だ、右。……そう。そこだ」
ふるふると震えながら。弓にかかる的は半月。
「離せ」
パスン、と情けない音がして。それでも矢は的に中たった。
「……残心も忘れるな。それにしてもなんだお前ぇ、紫優とそっくりの弓で可愛げがねぇな。子どもは親の背中を見て育つってのは本当なんだな。それにしちゃ果穂の射は俺に似てねぇけど。な?」
「果穂は修一さんの弓に惹かれたんだからいいんじゃないですか。それだけラブラブだって事ですよ。それに親離れできない子どもは可哀想ですもの」
「ふん。つまんねえ」
紫優ちゃんと洪大先生が笑い合っていて。果穂さんは顔を真っ赤にしていた。
「先生」
わたしは洪大先生に訊ねた。
「んあ?」
「先生が一度弓を引いてから、なんというか……弓が軽くなった気がしたんです。あれは、どうしてなんでしょうか」
「決まってんじゃねえか」
にやり、と笑って。
「魔法だよ」
洪大先生ははぐらかしたのだった。
先生の道場に行った帰り道。
わたしは紫優ちゃんの自宅があった場所で、果穂さんの秘密を知った。
でも。
……それはまた別のお話。
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