それはきっと紫の、優しい花の色だから。

月庭一花

「まだだよ。三、二、一で目を開けてね」

 紫優しゆちゃんの声が聞こえて、わたしはもう一度しっかりと目を閉じた。でもさ、閉じた瞳でもぱちんという音がすれば、電気が消されたの丸解りなんだけど。

「まだ?」

「まだよ」

 今度はお母さんの声。そして、ごそごそとなにかを用意する音。それからマッチを擦るとき特有の燐の匂い。

「いい? 三、二、一……いいよ」

 お母さんと紫優ちゃんの声が唱和する。わたしは恐る恐る目を開けた。暗がりの中光っていたのは、ぼんやりと輝く十数本のロウソクの火。

「……うわっ」

 感嘆と共に、上擦った声でわたしは言った。それはわたしの想像を遥かに超えて立派だった。めちゃくちゃ立派だったのだ。

「すごい、すごいよ紫優ちゃんっ。ねぇねぇ、これ本当に紫優ちゃんが作ったの?」

「もちろん。一花いちかと約束したんだもの。ちゃんとわたしの手作りよ」

 カーテンを引いた暗い部屋の中、朧げに浮かび上がるのは、それはそれは見事な二段重ねのデコレーションケーキ。

 わたしが卒業式の予行練習で学校に行っているあいだにこんな物を用意してくれていたなんて。嬉しくてなんだか涙が出そうだった。お母さんの方が料理は上手だけれど、お菓子作りに関しては紫優ちゃんの方が上なのだ。

「なによ、わたしだって手伝ったんだからね。紫優だけの手柄じゃないわ。わたしにも感謝して欲しいんだけど」

 お母さんがぷくっと頬を膨らませてわたしを睨む。そんなお母さんの様子を紫優ちゃんは苦笑しながら見つめている。

 紫優ちゃんと一緒にいるときのお母さんは少し……いや、かなり子どもっぽくて、カスタードと生クリームを混ぜ合わせたディプロマットのような、そんなやわらかい甘い匂いがする。三人で暮らすこのアパートは、紫優ちゃんのラベンダーのような凛とした甘い匂いとお母さんのお菓子のような甘い匂いが絡み合ってできている。わたしはそこにどんなアクセントになっているんだろう、とふと考えてみて、この幸せな空間を形作るなにかの一つになっていられたらいいな、なんて思うのだ。

「あとこれ、誕生日のプレゼント兼高校入学のお祝い」

 そう言って紫優ちゃんが大きな包みをくれた。

「え、うそ? なにが入ってるの?」

「開けてみて。かすみと一緒に選んだの」

 風呂敷を開くと、そこに入っていたのはまっさらな白い道着と黒い袴、そして薄い抹茶色の正絹の帯と白い足袋。なんだか指で触れたら汚してしまいそうで、わたしはただ言葉もなく、じっと見つめていた。

「……紫優ちゃん、これって」

「高校に入る前からずっとやってみたいって言っていたでしょ? せっかく弓道部のある高校に入れたんだもの。まだまだこれを着られるようになるのは先だと思うけど、何事もまずは形からよね。受験も終わったんだもん。だから一花へのご褒美。あ、帯だけわたしのお古で申し訳ないんだけど。ね? かすみ?」

 紫優ちゃんがお母さんを見つめる。お母さんも紫優ちゃんにとろけるような笑顔を送る。

「一花。誕生日おめでとう」

 紫優ちゃんに向けていた笑顔をそのままわたしに向けて、お母さんは言った。

「ありがとう、お母さん。紫優ちゃん。大好きっ」

 わたしはぎゅっと紫優ちゃんとお母さんに抱きついて、そう言った。帯がお古で申し訳ないって紫優ちゃんは言っていたけれど、この帯って……確か紫優ちゃんが錬士の審査のときに使ってた大切な帯のはずだ。だからわたしは逆に、ものすごく嬉しかった。

「ねえ、着てみてもいい? 紫優ちゃん、ちょっと着付けて。お願い」

 顔の前で手を合わせてみせたわたしに、紫優ちゃんは苦笑しながら言った。

「ケーキ食べたらね。一花それ着たまま食事したいって言いそうだもの」

「えー、そんな事言わないもん」

「というか一花。早くロウソク消して欲しいな。せっかくの紫優のケーキに蝋が垂れちゃうわ」

 お母さんにやんわりとたしなめられて、わたしは首をすぼめて「はーい」と返事をした。

 大きく息を吸い込んで、ふうっと炎に吹きかける。ジジッという音ともに火が消えて、部屋が夕暮れの、暗がりの中に沈んだ。ロウソクからは幸福を知らせる狼煙のろしのように、ほのかな白い煙が立ち昇っている。

 ふたりの拍手と紫優ちゃんのおめでとうの声に、わたしの胸はじんわりと温かくなった。目頭まで熱を帯びてきて、あーなんだかもう、幸せすぎて死んじゃいそう。

 三月三日。……ひな祭りの今日この日、わたしは十五歳になったのだ。


 まず始めに、紫優ちゃんの話をしたいと思う。

 わたしは縮めて〝しゆちゃん〟と呼ぶけれど、本当は〝しゆう〟と伸ばすのが正しい。紫優ちゃん、月庭つきにわ紫優しゆうはお母さんより三つ年上の三十七歳の女性で、看護師をしている。身長173センチ、体重は……わたしがバラしたってバレたら殺されそうなのでここでは言えない。既に他界しているご両親がカトリックの信徒だったので、紫優ちゃん自身も幼児洗礼を受けているれっきとしたクリスチャンであるのだった。そういえばお休みの日曜日には教会にも行っているみたいだし、たぶん……紫優ちゃんの中で神様が見えなくなってしまう事はないのだろう。

 趣味は古い映画を観る事と弓道で、弓道に関しては五段錬士という途轍もない免状を持っている。映画はマイケル・カーティスやヘンリー・キングを好み、一番好きなのはイングマール・ベルイマンなのだけれど……『処女の泉』だけは絶対に観なかった。機嫌がいいのは甘いものを食べているとき。不機嫌なのは眠いときとお腹が空いているとき。背中に大きなやけどの痕があるのを気にしていて、いつもは絶対に人には見せない。紫優ちゃんは火事でご両親を亡くしたのだが、そのとき一緒に紫優ちゃんも大きなやけどを負ってしまったのだとわたしは紫優ちゃん本人から聞いていた。そして一番重要な、なによりも大切な事。それは紫優ちゃんがわたしのお母さんの恋人であるという事。わたしはこの小さな箱庭みたいなアパートで、お母さんと紫優ちゃんと三人で暮らしている。

 紫優ちゃんとお母さんの馴れ初めをわたしは知らない。どんな理由から子持ちの女と看護師の女が……同性同士が恋に落ちたのか興味が尽きないところではあるけれど、お母さんも紫優ちゃんもその事については決して話してくれない。物心ついた頃から紫優ちゃんはうちにいて、お母さんの傍にいて、わたしたちの保護者でいてくれた。だからうちが世間一般でいうところの家族の姿とはちょっと違っているという事に、わたしはずっと気付かずに生きてきた。

 それを思い知らされたのは小学生になってから。

 父親がいない事を、母親がふたりいるような奇妙な——わたしに言わせれば全然奇妙でもなんでもないんだけど——状況をクラスメイトの男の子に馬鹿にされたのが切っ掛けだった。

 そういえば幼稚園の頃にだって父の日にお父さんにプレゼントを作りましょう、的ななにかがあったと思うのだけれど、今考えてみてもそのイベントを幼い頃のわたしがどう乗り越えたのかまったく思い出せない。きっと紙粘土かなにかで作ったものや似顔絵を紫優ちゃんにプレゼントしたと思うのだが。

 お母さんは生まれたときからお母さんで、紫優ちゃんはわたしがその存在を他者として認識しだした頃からずっと紫優ちゃんだった。わたしにとって紫優ちゃんは家族以外の何者でもなかったのだ。

 その事件が起きたとき。わたしは小学一年生で、事の発端はやっぱり父の日がらみだった。

 父の日に向けてお父さんに宛てた手紙を書きましょうという題材で作文の宿題が出たのである。シングルマザーの多い昨今ではこんな手紙自体学校では書かせないのかもしれない。それはまあ、どうでもいいんだけど。ただ、子どもだったわたしは真っ白な作文用紙を前にして、なにを書いたらいいのか解らなくて頭を抱えていた。

 友達の家に大人の男の人がいて、その人がお父さんと呼ばれている存在なのは既に知っていた。

 またある友達の家ではお母さんしかいなくて、離婚してお父さんは別に暮らしている、という話も聞いた事があった。

 わたしはませていたからある程度の事情は解っているつもりだったし、訊いちゃいけない事が世の中にあるって事もちゃんと理解できていた。

 けれどもそこでわたしははたと考えてしまったのだ。

 紫優ちゃんて、わたしにとっていったい何者なのだろう、と。わたしを産んでくれたのはお母さんだ。なら……一緒に住んでいるお母さんじゃない女の人って、なに?

 考えてみれば三人で手をつないで買い物にも行くし、お母さんとふたり仲良く洗濯物を畳んでいる事もあるし、紫優ちゃんが仕事に出かけるときにはお母さんと行ってきますのちゅーもする。それはわたしにしてくれるようなほっぺへのちゅーじゃなくて、お口とお口のちゅーなのだ。

 わたしはそれまでずっと、女の人同士がちゅーするのは当たり前の事だと思っていた。そういう環境で育ってきたんだもの。それにお口とお口でちゅーしたら子どもができる、なんて事をなかば本気で信じていたから、わたしは紫優ちゃんとお母さんの子どもだと確信していたのだった。ははん。男の人じゃないからお父さんと呼ばないだけなんだ……と。したり顔で解ったつもりになっていた。

 だから得意げにお馬鹿な持論をそのまま作文に書いて発表してしまい、それがちょっとした事件になって、男の子たちから馬鹿にされた為……わたしは学校から帰ってきてから、紫優ちゃんに思いっきり八つ当たりした。

 なんで紫優ちゃんはわたしのお父さんじゃないの? なんで女の人なのにお母さんとちゅーするの? と。

 きょとんとしていた紫優ちゃんは、後で学校から呼び出されたお母さんから事の次第を聞かされたみたいだった。夕食前にわたしを目の前に座らせると、自分もきちんと正座をして、静かに話し始めた。弓道をやっている紫優ちゃんの正座はピンと背筋が伸びていて、そんなシチュエーションではあまりにも場違いなのかもしれないけれど、とてもかっこ良かったのを今でもはっきりと覚えている。

 わたしは女の人が好きな女の人なの。

 紫優ちゃんはまず、ゆっくりとそう言った。

 この世の中にはそういう人がいっぱいいるの。一花はかすみ……お母さんとわたしとのあいだに生まれた子どもじゃないの。女の人と女の人のあいだに子どもは生まれないから。だからね、わたしには解らないけれど……一花のお父さんは今もどこかにいるんだと思う。

 紫優ちゃんはじっとわたしを見つめていた。

 でもね、お母さんはわたしを好きになってくれた。だからわたしたちは今こうして一緒にいる。好きな人同士がちゅーするのは……悪い事かな?

 悪くないと思う。わたしはちょっと考えたあと、そう答えた。

 わたしはお父さんにはなれないけれど、かすみも一花も大好きよ。心の底から大好きなの。なによりも、誰よりも大切にしたいと思っている。嘘じゃないわ。わたしにとってかすみも一花も大切な家族なんだもの……そんな答えじゃ納得できないかしら。

 お母さんが台所から、包丁を握りしめたまま、真剣な目付きでわたしたちを見つめていた。ここで変な事を言ったらあれで刺されたりするのかな、なんて思ったわけじゃなく、わたしには小学一年生の子どもに対して真剣に話をしようとしてくれている紫優ちゃんの本気が痛いほど伝わってきた。だから、二人の大人を全面的に信用する事にしたのだった。

 家族。

 そうだ、わたしたちは家族。それだけでいいじゃないか、と。

 それ以来、おおっぴらにお母さんと紫優ちゃんとの関係を吹聴するような真似は慎むようにした。仲のよい友達に訊かれればそれとなく答えるし、別に隠したりもしていないけれど、面白半分に訊いてくるような輩には……特に男子には鉄拳を見舞う事にした。そんなわけでわたしは少し男の子が嫌いになった。進学先を地元の女子校に決めたのもそんなエピソードが元になっていたかもしれない。

 もっとも、その女子校に弓道部があるというのも大きな理由の一つだったんだけど。

 とにかく、このお話は弓道と恋愛の物語であると同時に、わたしとお母さんと紫優ちゃんとで構成される家族の物語でもある。ラベンダーのように優しい紫色の、甘い匂いのする、わたしの大切な家族の物語なのだ。


 高校の入学式にはお母さんと紫優ちゃんの両方が来てくれた。最初はわたしひとりで入学式と墨書された、花で彩られた看板の前で写真を撮り、次に家族揃って同じ看板の前で写真を撮った。つまり、わたしと紫優ちゃんとお母さんとが仲良く並んでいる写真。一緒にクラス表を見に行くと、わたしの花村はなむら一花いちかという名前は一年二組のところに貼り出されていた。

「お母さん、紫優ちゃん、わたし二組だった。すごくない?」

「……別に成績順じゃないじゃないの。なんでそこでそんなにはしゃぐのか意味が解んないけど。まあ、でも、うらやましい。わたしも一花の歳に戻りたい。ここって……女子校ってやっぱりいいよね。若い女の子がいっぱいいて楽しそうだもの」

 苦笑しながら紫優ちゃんが言うと、お母さんは紫優ちゃんの手をきゅっと握って。

「なに懐かしがってるのよ。わたしだけじゃ不足なの? 若くたってちっとも偉くないんだから」

 とよく解らない理由でむくれていた。紫優ちゃんはお母さんのほっぺを突ついて、ちょっとだけ笑った。

「わたしが好きなのは、かすみだけだよ」

 ……熱々なのは別に構わないけどさ、学校ではやめて欲しいなぁ。

「わたし、一旦教室に行ってから講堂に集まるみたいなの。紫優ちゃんとお母さんは先に行っててね」

「また迷子にならないようにね」

 お母さんが笑った。

「むー。なるわけないじゃん、馬鹿」

 ……小学校の入学式で迷子になって大泣きしたのを未だにお母さんは覚えていて、中学の入学式でも同じ事を言われた。もしかしたら大学の入学式にも同じ台詞でからかわれたりするんだろうか、と思うとさすがにちょっとうんざりする。

「じゃあね」と紫優ちゃんが手を振った。

「またね」とわたしも答えた。

 この学校は地元で百年の歴史がある伝統的な女子校という事で、校風は至ってのんびりしたものだと聞いていた。制服は昔のままの野暮ったいセーラー服でちょっとダサいし、校舎だってかなり古びているけれど、その中に流れている時間や空気は手沢を帯びていて、なかなか悪くなかった。

 教室では名前の順番に机にネームプレートが置いてあり、そこに各自が座るようになっていた。ただ少し変わった順番になっていて、廊下側の一番前の席があ行の最初で芦田あしださん。その列の最後が木島きじまさんで次の栗川くりかわさんがその横の席になり、更に次の小林こばやしさんが栗川さんの前の席……というように、蛇行したような形で一本の線で名前の順が結ばれている。

 わたしの名前、花村一花は三列目の最後の席で、廊下側の隣が髪の短いボーイッシュな関口せきぐちつかささん。窓側の隣が眼鏡をかけた三好みよし久美くみさんという可愛らしい女の子だった。ちなみにわたしの前の席はちょっとおっとりした雰囲気の仲本なかもと由貴ゆきさん。手の甲なんかがすごくぷにぷにしてて思わず触りたくなっちゃう、抱き心地の良さそうな子だった。

 お互いに声をかける切っ掛けがなかなか見つからなくて、最初は前後左右隣同士、みんな探り探りでぎこちなかった。けれどもわたしは入学式当日という事でテンションも高く、好奇心だけは人一倍あったから。そんな空気はなるべく無視してしまう事にした。前の人、左右の人に最高の笑顔を送ったのだ。

 そしてわたしから積極的に訊くと中学が四人とも別々で、みんながみんな誰とも面識がなかったけれど、でも出身中学の話や入っていた部活の話で盛り上がったりして、ホームルームが始まるまでには旧知の仲と言っていいくらい和気あいあいとした空気が四人のあいだで流れていた。そんなグループがあちらこちらに出来ているのを見ると、新しい生活が始まったんだな、という気分になって、なんだか無性に嬉しくなる。

「ところでもう部活決めた?」とわたしは訊いた。司さんが「わたしは陸上部かな。中学で高飛びやってたから。高校でも続けたいんだよね」と言った。

「わたし、文化祭の見学にきたときに聴いた演奏ですごい感動しちゃって。だからマンドリン演奏部、いいかなって思ってるんだ」

 そう答えたのは眼鏡の久美さん。この高校には吹奏楽部がなくて、校歌斉唱するときに伴奏してくれるのが代々マンドリン演奏部のお役目になっているのだ。だから今日もこのあとの入学式で、あのイチジクみたいな楽器を全校生徒の前で演奏する事になっているみたい。

「元々音楽好きだし。あぁ、あのトレモロ……素敵だったなぁ」

 トレモロってなんだろ? 曲名かしら?

 不思議に思って首を傾げていると、前の席の由貴さんが小さな声で言った。

「わたしは……弓道部って決めているの」

「え、うそ? わたしもわたしもっ」

 意外にも中学で文芸部だったという由貴さんが弓道部の名前を挙げたから、わたしも鼻息を荒くして由貴さんの手を両手でしっかりと握りしめた。やっぱり見た目通りぷにぷにしてて気持ちのいい手だ。

「弓道部いいよね」

「ねー」

「わたしはああいう静かなのはちょっと苦手」

 しっかりと手を握りしめ合うわたしたちをあきれた目で見ていたのは司さん。

「礼儀作法とかうるさそうだし、良さが解んない」

「わたしも運動部はちょっと」

 と久美さんも少し渋い顔をしてみせた。

「でも姿勢よくなるしおっぱいも大きくなるらしいよ? 弓道やってるうちの家の人に聞いたから間違いないと思う」

「おっぱい?」

「……むー」

 じっと自分の胸元を見つめる司さんも久美さんも実に微笑ましい。そろって慎ましい胸元は、もしかしたらふたりのコンプレックスなのかしら。まあ、……わたしも人の事を言えるような胸じゃないけどさ。

 おっぱいが大きくなるから一緒に弓引かない? と紫優ちゃんがずっと昔にお母さんを誘っていたのをわたしは知っていて、事実なんだと思い込んでいた。だからみんなにもそう吹聴したんだけど……。

 結局お母さんは頑として首を縦に振らなかったし、真偽のほどは今のところよく解んない。

 あのときは確か……わたしは弓を引くあなたを見ているのが好きなの。それだけでいいの。一緒にあの場所に立つのは嫌よ。わたしと紫優の世界は違うもの……って。お母さんはそう言っていた。そんなふうに言われたら紫優ちゃんも黙るしかなかったみたいで。そのあとお母さんを誘っている姿は見ていない。ちなみに大見得切った紫優ちゃんは張りのある立派なDカップ。お母さんはAでわたしがBだった。なるほど、この結果だけを見れば確かに説得力はあるのかもしれないが……。

「あ、先生来たわ」司さんが廊下の方を見ながら言った。「とりあえず魅力的な副産物ではあるね。検討させてもらうわ」

「そうね。うん」と久美さんも頷いてみせた。

 わたしと由貴さんはそんなふたりの様子を見て、目配せしながら笑みを浮かべたのだった。


 わたしが弓道にあこがれを抱くようになったのは、なんと言ってもやはり紫優ちゃんの影響である。昇段審査の張りつめた空気の中、長身の紫優ちゃんが大前で、正絹の着物に襷掛けをして弓を引く姿があまりにも凛々しくて、美しくて。そしてそれを見つめるお母さんの顔が今まで見た事がないくらいとても綺麗だったから。好きな人にこんな顔をさせてあげられる紫優ちゃんに、弓道に。わたしは惹かれたのだ。

 思い立ったがなんとやらのわたしはその日さっそく自分も弓道がやってみたい、と紫優ちゃんとお母さんに申し出てみた。わたしの性格は熱しやすくて冷めやすい、とお母さんには思われていたので——実際そうかも知んないけど——さてどうしたものかしらね、と紫優ちゃんに判断を一任されてしまった。

 紫優ちゃんは着物姿のまま、

 うちの道場って基本的に社会人対象なの。それに小さな個人の道場だから、無闇矢鱈に連れて行くわけにもいかないわ。だから一花が高校生になるまで今の情熱を持ち続けていられたら、そのときは一緒に弓を学びましょう。

 と言った。

 それなら高校生になるまでのあいだ紫優ちゃんが教えてくれたらいいのに、とわたしは更に懇願した。けれども紫優ちゃんは首を縦に振らなかった。

 わたしが教えて変な癖がついたら取り返しがつかなくなるわ。一度ついた癖はなかなか元には戻らないの。だから今は駄目。わたしももっと教えられるくらいになるまで、勉強するから。ねえ一花、意地悪してるんじゃないのは解ってくれる? わたしの癖が一花を駄目にしてしまうかもしれないの。

 ……うん。

 わたしは渋々頷いた。紫優ちゃんはわたしに意地悪するような人じゃないもの。そんなの今更言われなくたって充分解ってる。

 でもね、わたしは紫優ちゃんの弓がいいの。紫優ちゃんの弓だから惹かれたの。それはいけない事なのかな? 紫優ちゃんが見ているものを見てみたいと思うのは……駄目なの?

 そう訊いたわたしに、紫優ちゃんはにっこりと笑って言った。

 本当にわたしの弓がいいというのなら、わたしをいつも見ていて。その上でわたしの姿に感じるものがあるのなら、それをずっと覚えていて。それがあなたの形の……よい影響になるように。

 それから紫優ちゃんは、射会に参加するときには必ずわたしを連れて行ってくれるようになった。もっとも紫優ちゃんの参加する射会は神社の奉納射会みたいな、あまり順位を競わなくていい、小さなものがほとんどだったけど。

 それでも……紫優ちゃんの弓を引く姿はいつも際立って美しかった。わたしは他の誰でもなく、ただ紫優ちゃんの姿だけを目に焼き付けようとした。そもそも紫優ちゃんの姿しか目に入らなかった。だからその当時の紫優ちゃんがどれだけ周囲に心を配っていたのか……わたしは知らなかった。

 わたしはいつもじっと紫優ちゃんを見つめていた。将来それがわたしの形になるように。それだけを強く心に思いながら。いつまでも弓を引く紫優ちゃんを見続けていた。


 仮入部の初日。

 弓道場に現れた一年はわたしと由貴さん、三組の飯田いいださくらさん、五組の吉永よしなが真琴まことさんの計四人だった。司さんと久美さんにも最初が肝心だよ、と声をかけてみたのだけれど、それなら尚更第一希望をなおざりにできないじゃん、と言い返されてしまったのだった。ま、確かにその通りではあるんだけど。

 わたしと由貴さんが所在無さげに道場の周りをうろうろしていると、おかっぱ頭に白いカチューシャをした先輩が中に案内してくれた。道場では既に二人の生徒が道着姿の先輩方と相対するように正座をしていた。それが桜さんと真琴さんだった。わたしと由貴さんも目配せしながらその隣にちょこんと同じように正座をした。

 ふと気になってちらりと道場の中を見回すと、上座の壁の部分に額が納められていて、中には一本の白羽の矢が飾られていた。

「そろそろ時間ね。では一年生の皆さん。……今日は仮入部初日だし、そんなに緊張しないで欲しいな。えっと、初めまして……だよね? わたしは弓道部主将、三年の早野はやの朋美ともみです。よろしくね」

「よ、よろしくお願いしますっ」

 ひとり立ち上がった主将がにっこりと笑って挨拶をすると、一年生四人の緊張した声が唱和した。ぱりっとした白い道着姿できちんと正座してる諸先輩方を目の前にして、緊張するなというのが土台無理な話だ。

 早野先輩は長い黒髪をポニーテイルにまとめていて、前髪をピンでしっかりと留めていた。もしかしたら弓を引くときに髪を払わないようにそうしているのかもしれない。

「うちは今三年生が五人、二年生が六人の計十一人なの。運動部の中では人数が少ない方だからっていうのもあるんだけど、みんな仲良くやっているわ。今日は一年生が四人だけなんてちょっと寂しいけど。今度はお友達も連れてきてね」

「朋美。それじゃ怪しい勧誘みたいだよ。警戒して余計来てくれなくなるじゃん」

 男前な色黒のショートカットの先輩がそう茶々を入れると、道場が笑いに包まれた。

「今わたしの邪魔をしたのが副部長の河原木かわらぎ聡子さとこね。男っぽいから女子校なのにあれって思ったかもしれないけど、安心して。ちゃんと女の子だから」

「ひっどい。なんて紹介すんのよ」

 またどっと笑いが起こった。楽しい。まるで漫才の掛け合いのようだと思いながら、わたしたち一年はやっと肩の力が抜けてきている事に気づいた。

「あ、よかった。一年生も笑ってくれたわ。みんな表情が引きつっているんだもん。どうしようかと思っちゃった。弓は楽しくなくちゃ続かないからね。もちろん、練習は厳しいし覚えてもらわなきゃならない事もいっぱいあるけど、わたしたちにだってそれを乗り越えられたんだもん。大丈夫。無茶な事は絶対に言わないから。じゃあ、まずはランニングでグラウンド100周、行ってみようか!」

 聞き間違えたのかと思って茫然としていると、

「ちょ、ちょっと、なんでそこみんな突っ込んでくれないのよっ」

 早野先輩が後ろを振り返ってそう叫んだ。

「……いや、マジなのかと思って」

「んなわけないじゃんっ」

 両手をパタパタと振る。

「もう先輩。ここ弓道部なんですから。そろそろ漫才止めましょうよ」

 苦笑しながらおかっぱの髪をカチューシャでまとめた……さっきわたしたちを案内してくれた先輩がそう言った。そしてすっくと立ち上がると、改めてぺこりと頭を下げる。

「一年生の皆さん、こんにちわ。二年の篠原しのはら瑞希みずきです。不束者ですが、今年度の新入部員指導係になりました。よろしくお願いしますね。では早速なんですが、今日体操服を持ってきている人は着替えてきてください。制服の人は、今日は見取り稽古、つまり見学になります。明日からは体操服で来てくださいね。なにか質問があれば、どうぞ」

 わたしたちはお互いの顔を見合わせて、そのうちのひとりがおずおずと手を上げた。

「はい、ええと……」

「一年三組、飯田桜です。不躾な質問で恐縮なのですが、実際に弓を引けるようになるまでにはどのくらい時間がかかるものなのでしょうか」

「そうですね。あなたは経験者?」

「いえ、弓は初めてです」

「うーん。それなら最初は弓道場のしきたりとかお辞儀の仕方、ええと体配というのですけど、まずは立ち方、座り方、歩き方を学んでもらいます。弓は一歩間違えれば人を傷つけたり、殺してしまうものだから。最初にしっかりとした知識とルールを知ってもらう必要があるんです。そのあとで射法八節と言われる弓の引き方をまずは徒手で、そのあとゴム弓と呼ばれる道具で練習ですね。そのあいだにも一年生のあいだは体力作りの為のランニングや体幹を鍛える為の筋力トレーニングを続けていきます。それから素引き。つまり矢を番えないで弓を引く練習をします。そして巻き藁、的前となるんですが……それだけじゃなくて、弦輪の作り方や道具の使い方、弓や矢のメンテナンスの仕方なんかも学んでもらいます。たぶん一年生のみなさんが思い描く的に向かって矢を射るというところまでいくには少なくとも二ヶ月から三ヶ月、あるいはそれ以上と思ってください」

 長々とした説明に、誰かがごくん、とつばを飲み込む音がした。

 三ヶ月以上かかるなら……一学期いっぱい的前に立つ事さえ出来ないかもしれない、という事なのだ。

 わたしは紫優ちゃんに口が酸っぱくなるほど言われていたから、もうその覚悟はできていたけれど。でも、そんな人ばかりじゃないわけで。

「瑞希、いきなりそんな話したら一年生がやる気なくしちゃうじゃん」

「河原木先輩、こういうのは最初が肝要なんです。伝えなければいけない事を隠して入部してもらっても一年生が可哀想なだけです」

 そう言うと、篠原先輩はまたぺこりと頭を下げた。

「一年生の皆さん、ごめんなさい。わたしってこういう話し方しかできなくて。でも、やる気があるのなら、しっかりと弓が引けるようになるまで指導させて頂きます。うちは顧問の先生が弓をなさった経験がない方だから、外部から週に何度か教えてくださる先生をお招きしています。だからわたしだけじゃ至らないところもあると思いますが、どうかついてきてくれたら……嬉しいな」

 篠原先輩はそう言ってにっこりと笑った。笑うと右の頬にえくぼができて、とても可愛らしい。

「では改めて。一年生の皆さん、体操服に着替えてきてくださいね。ちなみに、正式に入部となったら弓道場の更衣室を使ってもらいますから。それまではちょっと我慢してください。ロッカーの数とか色々と調整が必要なんですよ」

「なんだかおいしいところ全部篠原に持っていかれちゃったわ。ま、いいや。というわけで一年生の見学者はそのまま待機。着替えられる人は十分後までに戻ってきて。戻ったら篠原と一緒に筋トレとストレッチ。今日はそのあとは一緒に見学ね。じゃあ二年と三年は準備体操始めるわ。立って」

 早野先輩のかけ声と共に、ハイ、っと言う凛とした声が響いた。一気にぴりっとした空気に変わった道場がとても清々しく思えた。

 さて、わたしも着替えてこなきゃ。そう思って由貴さんに目配せして静かに立ち上がった。慣れない正座をしていたので少しだけ足がしびれていた。

 道場を出る際に一礼して。わたしは音を立てないようにそっと靴を履いた。

「あ、それすごくいいですね」

「え?」

 道場の入り口から篠原先輩に声をかけられて、わたしは振り返った。

「他の一年生も道場に入る際と出る際は必ず一礼してください。礼に始まり礼に終わる弓道の所作の大切な決まり事ですから。あと靴もきちんと揃えてくださいね」

 わたしの隣で慌ててぺこっと頭を下げた由貴さんの姿を、篠原先輩はにっこり笑って見つめていた。


 家に帰ると深夜明けの紫優ちゃんがお母さんと一緒に夕ご飯の仕度をしていた。

 髪がぼさぼさで寝癖がついたままなのは、きっとずっと寝ていたからなのだろう。精神科の救急病棟で働く紫優ちゃんのところには昼も夜も関係なく病状の悪い患者が運び込まれてくる。中には病気のせいで大暴れしてしまう患者さんもいるそうで、夜勤中は常に気が抜けない、と紫優ちゃんは以前話してくれた事があった。

「わ、いい匂い。今日カレーなんだ?」

 わたしは鼻をひくひくさせながらそう訊ねた。

「うん。もうね、勤務してるときからカレーが食べたくて食べたくて仕方なかったの。一花も一緒がいいと思ってお昼はカレーじゃなくしたんだよ?」

「なに恩着せがましい事言ってるの。お昼なんてわたしが起こそうとしたら不機嫌になっちゃって。ちっとも起きなかったくせに」

「だって、夜間に入院が二件もあったんだもの。全然仮眠だって取れなかったんだから。疲れたの。眠ったっていいじゃん」

 むーっとほっぺを膨らませる紫優ちゃんの頬に、お母さんは少しだけ背伸びをして。ご苦労様って言いながらキスをした。

「元気でた?」

「うん」

「……そういう背中が痒くなるような事、よく平気でできるよね」

 顔を赤らめながら抗議をしてみたが、ふたりともくすくす笑っているだけで全然聞いちゃいない。まったくもうっ。なんでこれだけずっと一緒にいてラブラブで居続ける事ができるんだか。わたしにはよく解んないわ。

「あ、そうそう。一花さ、今日から仮入部だって言ってたけど、どうだった? 弓道部楽しかった?」

「うん。まだ見学だけだったけど楽しかったよ。部の雰囲気も良かったし」

「そっか。そう言えばあそこの子で去年インターハイに出た生徒がいたわよね。確か今三年生だったと思うけど」

「ヘー、誰だろ。主将の早野先輩かな」

「あー、名前まではちょっと覚えてないわ。でも、みんな優秀だそうよ。学校のSNSで見たもの。団体でもインターハイとか狙えたりするのかしら」

「うーん、どうなんだろうね。あ、そうだ、聞いて聞いて紫優ちゃん。あのね」

「……もうっ。弓道談義はあとにして。一花、着替えてらっしゃい。紫優もお皿出すの手伝って」

 お母さんがちょっとむっとしたような声でそう言った。娘が自分の恋人と共通の話題で盛り上がっているのが面白くないらしい。

 わたしは苦笑しながらはーいと返事をして、自分の部屋に戻る事にした。ちらりと振り返ると紫優ちゃんがお母さんを背中から抱きしめていて。わたしに向かってそっとウインクを送ってくれた。お母さんのほっぺが桜色に染まっていたのは、言うまでもないね。

 わたしはセーラー服を脱いでハンガーに掛けながら、そういえば紫優ちゃんが弓を引いている姿って、射会でしか見た事がないな、と改めて思った。練習で弓を引いてるのを……わたしは見た事があっただろうか。

 あとで訊いてみようかな、なんて思いつつ、わたしはもそもそと私服に着替えたのだった。


 仮入部二日目が終わった。やっぱり司さんは陸上部、久美さんはマンドリン演奏部の練習に顔を出している。

 二日目も一年生は昨日と同じメンバーで、わたしと由貴さんと桜さん、真琴さんの四人だった。

 今日はランニングと筋トレ、ストレッチがメインだったので、昨日よりも疲弊した。特に中学で文芸部に所属していた由貴さんはついていくのがやっとだったみたいで。ランニングのあとはなかなか立ち上がる事ができないでいた。そのあとは弓道の教本を読んで正座の仕方、お辞儀をしたときの手の起き方、立ち方や歩き方、そして最後に射法八節の流れをざっと確認したりした。へとへとだった。

 部活が終わってさて帰ろうという段になったとき、不意に真琴さんが言った。

「ねえ、みんな。このあとちょっと時間あるかしら?」

「ひまだけど?」と首を傾げたのは桜さん。

「わたしもひま。でもどうかしたの? なにかするの?」

 わたしも由貴さんと目配せしながら訊き返す。

「うん。あのね、折角知り合えたんだし、ちょっとお茶でもして帰らない? LINEとかメアドの交換もしたいし」

 真琴さんがほんのりと顔を赤らめながら言った。

「どっかの喫茶店でいいの? わたしは大丈夫だけど由貴さんは?」

「わたしも平気」

「じゃあ一緒に行こう。桜さんも行ける?」

「うん」

「決まりね」と言って。真琴さんはにっこりと笑った。「あーよかった。駄目って言われたらどうしようって思って、少しドキドキしちゃった」

 三つ編みの髪をゆらして照れ隠しなのかぴょこぴょこ跳ねるように歩く真琴さんは、ものすごく可愛い。

「急いで着替えてくるから。昇降口で待ち合わせ、ね?」

「うん、いいよ。由貴さん、行こ?」

「うん」

 わたしは由貴さんを連れて急ぎ足で教室に戻った。せかせかと着替え終わったわたしと対照的に、由貴さんはのんびりとスカーフを結わえていて。

「一花さん。スカーフ曲がっているよ。いてもいい事なんてないんだから」

 と苦笑していた。

「だって、待たせたら悪いと思うじゃない」

「大丈夫よ」

 と、由貴さんはそれでもやっぱりのんびりとした声で答える。

「……遅い」

 昇降口には既に桜さんと真琴さんが待っていた。案の定真琴さんからじろりと睨まれた。わたしはごめんね、と苦笑しながら、顔の前で手を合わせてみせる。

「じゃあどこにしようか? マックでいいかな?」

「駅前の? うん。じゃ、そこにしようか。自転車の人いる?」

「わたしチャリ通」

「わたしも」

 桜さんと由貴さんが手を挙げる。

「鞄お願いできる?」

 わたしがそうお願いすると、桜さんが唇の端をあげて苦笑いした。

「いいよ。ちょっと待ってて。チャリンコ取ってくるから」

 自転車置き場に桜さんと由貴さんが自転車を取りに行っているあいだ、真琴さんがわたしに話しかけてきた。

「ねえ、えっと……花村さん? 花村さんて中学のときなにか武道とかしてたの?」

「武道? 剣道とか柔道とかって事?」

「うん。だって、正座の姿勢がすごく綺麗だったから」

 わたしは褒められてまんざらでもない気分で、

「そう言う真琴さんも綺麗な正座だったわ」

 と返した。

「わたしは中学のときは茶道部だったから。正座には慣れてるもの。でもね、武道をしてた人の正座って少しだけ違うのよね。花村さんの正座にはそんな匂いがしたの。あと飯田さん。あの人の正座もちょっと男っぽいけど凛々しくて良かった」

「うーん」

 わたしは考え込んだ。

「あ、あれかな。うちの中に弓道やってる人がいて、その人の正座が綺麗だから、つい真似ちゃってたんだと思うわ。わたし、中学では料理部だったんだもん」

「へえ、そうなんだ。でも今日のランニングでも全然ばててないみたいに見えた。体力あるのね」

「桜さんが一番早かったけどね。でも真琴さんも足早かったじゃない? わたし、昔から駆けっこだけは早いのが自慢だったのに」

「わたしんとこはお兄ちゃんが陸上部でね、時々一緒に走るの。ま、わたしは自転車で伴走の方が多いんだけど」

 そんな話をしていると、由貴さんと桜さんが自転車を押して戻ってきた。

「ふたりで盛り上がってたようだけど。なんの話?」

「中学のときの部活の話とか。ねえ、桜さんは中学の部活でなにかスポーツしてた?」

「部活には入ってなかった」

 桜さんは独特のぽそっとした喋り方で言った。けれどもその声は少しだけ硬質な感じがする。

「え、中学って全員どこかしらの部活に入るもんじゃないの?」

「空手の道場に通ってた。だから免除されてたんだけど……試合中に左目を怪我しちゃってね。こっちの目、ほとんど見えないんだ」

 そう言って桜さんは自分の左目を指差し、寂しそうに笑った。

「あの、ごめんね」

「ううん。大丈夫。まだ完全に吹っ切れていないのは自分でも解ってるけど。でも……新しいなにかを始める切っ掛けにもなったから。弓を選んだのは、どうしても武道から離れたくなかったからだよ。心配なのは的がちゃんと見定められるのかどうか、だけど……」

「うーん。どうなんだろ。まだわたしたち全然そこまでいってないもんねぇ」

 まだ二日目ともあって、基礎練習の最初の最初。礼法を少しだけかじっただけで、まだ弓道部らしい事はなにひとつしていないような気がする。精々教本をちょこっと読んだくらいだ。

「ねえ、立ち話しててもなんだから、そろそろ行きましょう」

 そう言いながら由貴さんが笑った。

「自転車の前籠に鞄入れていいよ」

「やった。サンキュー」

「わたしのもお願い」

「や、ちょっと、なんでふたりともわたしの方に入れるの。三つも鞄入れちゃ駄目だってば。一つは桜さんの方にお願い」

 急に重心が変わってハンドルを取られてしまった由貴さんが、慌ててそんな抗議の声を上げる。

「もー」

「ねえ、そう言えば仲本さんてなんで弓道部に入ろうと思ったの?」

 真琴さんが笑いながら鞄を桜さんの自転車に移し、そう訊ねた。

「わたし? わたしは……」

 そう言ったまま口籠ってしまった由貴さんを、わたしたちは不思議そうに、そろって見つめていた。

「あの、えーと……三年の仲本先輩。わたしの姉なの。その影響もあって、その」

「え?」ちょっとびっくりした。

「へー。そう」桜さんは全然驚いていないようだった。

「すごいすごい。いいなぁ」一番反応したのは真琴さんだった。「じゃあ、色々教えてもらえていいね? あ、そう言えばさ、花村さんもご家族の人が弓道やってるって、さっき言ってたよね? お姉さん? それともお兄さん?」

「一花でいいよ。名字で呼ばれるより名前の方が好きなの」

 わたしは内心ドキドキしながらそう言った。まさかこの話題でこっちに話がふられるなんて、思ってなかった。

「わたし一人っ子だから、きょうだいはいないよ」

「じゃあ、お父さんかお母さん?」

「お父さんは元々いないの。お母さんも弓道はしてない」

「あ、解った。おじいちゃんだ?」

「お母さんの恋人」

「……え?」

「わたしが弓を始めたのは、お母さんの恋人の影響なの」

 しーんとした空気が流れて、誰も口を開かなかった。あーあ、やっちゃった、と思ったけど。でも……今更どうしようもない。

「ま、色々あるさ。行こうか」

「う、うん」

 桜さんの声につられるように、わたしたちは校門に向かった。

 だって、紫優ちゃんの事なんて説明したらいいか解んなかったんだもん。……しょうがないじゃない。


 その日の夜。夕食の準備をしているとき、そう言えば、と前置きをして、紫優ちゃんに訊いてみた。

「ねえ、紫優ちゃん」

「ん? どうかしたの?」

「あのさ、弓引いてるとおっぱい大きくなるって、あれ本当?」

「え? なにそれ。そんな話、聞いた事ないよ?」

「……へ?」

 わたしは以前、紫優ちゃんがお母さんにそう言っていたのを確かに覚えていたから、改めてその話を持ち出して確認した。紫優ちゃんも思い出したみたいで、あーそんな事言ったっけ、なんて暢気な声を出していた。

「嘘に決まってるじゃない。そんなの。あ、なに? 本気にしちゃったの?」

 開いた口が塞がらなくて茫然と紫優ちゃんの顔を眺めていると、お母さんが台所からつかつかと寄ってきて、紫優ちゃんの後頭部を思いっきり引っ叩いた。

「紫優」

「な、なんでぶつの?」

「謝んなさい」

「え?」

「一花にちゃんと謝んなさい。あとわたしにも謝って。まったく、自分でも覚えていないようなつまんない嘘をつくんじゃないの」

「う、嘘じゃないよ? 胸の筋肉がつけば多少は大きく」

「……紫優っ」

 背の小さなお母さんが座ったままの紫優ちゃんを見おろしている。その姿はいつものふたりの立ち位置とまるっきり逆になっていて、下から見上げるお母さんの顔は……それはそれは迫力があるのだった。

「ごめんなさい……。一花、ごめんね」

「いや、まあ……わたしは別にいいんだけどさ。その話、クラスメイトにしちゃったんだよねぇ」

「え、そうなの? どうしよう、その子たちも弓を始めるって?」

「いや、結局別の部活に入りそうだけど。でもそっか。明日謝んなきゃ」

 わたしがやれやれとため息をつくと、紫優ちゃんはもう一度、ごめんね、と小さな消え入りそうな声で言った。

「ねえ、紫優ちゃん」

「……今度はなんだろ。まだわたし、嘘ついてたっけ」

 紫優ちゃんはしょんぼりした声で。なんだか泣きそうだった。

 嘘をついた自覚もないのならそれはそれで重症だと思うんだけど。

 お母さんが椅子に座ったままの紫優ちゃんの首に腕を絡ませて、そっと紫優ちゃんのほっぺに自分の頬を寄せる。

「なにしてるのお母さん」

「馬鹿な子ほど可愛いのよ」

「ば、馬鹿じゃないやい」

「もうその言い方が馬鹿っぽいよ、紫優ちゃん」わたしは苦笑しながら言った。「あのね、紫優ちゃん。訊きたい事があったの。なんで紫優ちゃんはあんまり弓の練習しないの? わたしが覚えてる限りだと、小さな射会とか昇段審査でしか紫優ちゃんが弓を引いている姿、見た事ないんだけど。いつ練習してるの?」

 ちょっと考えていた様子の紫優ちゃんは、じゃあこれから出かける? と訊いた。

「どこに?」

「わたしがお世話になっている道場」

「夕ご飯食べてからにして」

 お母さんがちょっとむっとした声でそう言って、紫優ちゃんの首に絡ませていた腕に力を込めた。頸動脈をさりげなくきゅっと絞めあげたのだ。

 目を白黒させてお母さんの腕をぱんぱんとタップしている紫優ちゃんを見つめながら、そう言われてみると、紫優ちゃんの通う道場に連れて行ってもらうのはこれが初めてかもしれない、なんて思っていた。

 夕ご飯のあといそいそと出かける準備をしている紫優ちゃんをお母さんはちょっとつまらなそうな目で見つめていた。それに気付いた紫優ちゃんは、大丈夫だよ、とかなんとか言いながら、お母さんのほっぺにちゅーをした。

 ……なにが大丈夫なのかわたしにはまったく意味不明なんだけど。お母さんはそれで納得したみたい。気をつけてね、先生によろしくって伝えておいて、って。

 紫優ちゃんの通う道場は個人が持っている弓道場で、アパートから車で二十分くらいのところにある。最初はただの大きな農家のお宅だと思っていたけれど、耳を澄ますとパンっという矢が的を射抜く聞き覚えのある音が響いていた。裏庭に建てられたその二人立ちの弓射場にはすでに三人の男女がいて、そのうちの二人が的前に立っている。暗がりの中、矢道を覆うように雑木の枝が張り出していた。

 靴を脱いで入り口で揃え、中に入ろうとしたわたしを紫優ちゃんは弓を持つ手と反対の手で肘を掴み、無言で止めた。紫優ちゃんを振り返ると、紫優ちゃんは真っ直ぐ道場の中を見つめていた。

 わたしも慌ててもう一度中を振り返った。作務衣を着た老人が無言で手のひらをこちらに向け、来るな、と意思表示をしている。

 見ると、中年の男性が大三から引分けに入って会の姿勢を取る。ギリギリと音がして男性の腕に筋肉の筋が浮かび上がった。それに合わせて手前に立っていた女性が物見をして、ゆっくりと打ち起こしを始めた。

 わたしと紫優ちゃんは道場の入り口から息を詰めてその動作を見つめていた。白い道着と黒い袴姿の二人はまるで天井から一本の線でつながっているようにとても凛々しい立ち姿をしている。

 男性が離れを行い、少し遅れてパンと的を射た音が響いた。

 残心。そしてゆっくり弓倒しをして、物見を返す。

 今度は奥の女性が大きく引分けて会の姿勢に入る。彼女の腕にも筋肉の筋が浮かび、少しだけ弓を引く手首が震えていた。

「肘の張り。もうちょっと張れ。手首で手繰るな」

 後ろから作務衣姿の老人が声をかける。女性は無言のまま妻手の位置を少しだけ修正する。そして離れ。残心。矢は少しだけ的の左側の安土に突き刺さっていた。

「入っていいよ」

 大前の男性が声をかけてくれ、わたしと紫優ちゃんは一礼して道場に入る。正面に祀ってある神前に向かって、もう一度礼をする。

「ご無沙汰してます、先生」

「紫優か。おう、随分と久しぶりじゃねえか。どうしたんだ今日はそんな若いのつれて。ははん、浮気か?」

 作務衣の老人がわたしたちを見ながらにやりと笑う。

「お父さん、馬鹿な事言わないの。まったく下品なんだから。こんばんは、久しぶりね紫優。あら、……あなたとはどこかで会った事があったかしら? ええと……」

「あ、あの。こんばんは。わたし一花と言います。紫優ちゃんと一緒に暮らしている……花村の娘です」

 わたしはわたしを見つめている紫優ちゃんと同い年くらいの女性に向かってそう言って頭を下げた。

「そっか、どおりで射会のときに紫優にくっついているのを見た事があったなって思ったのよ。かすみさんのね。でも、うそ、もうこんなに大きくなっちゃったんだ。わたしも歳取るわけねぇ。ま、いっか。わたし今村いまむら果穂かほです。よろしくね」

「で、向こうの男の人がマスオさんだよ」

 紫優ちゃんがにやっと笑いながら言った。

「あ、どうも初めまして。花村一花です」

「今村修一しゅういちです。言っとくけどマスオじゃないからね。ちょっと紫優さん、婿養子だからってそのあだ名で呼ぶの止めてくれって前から言ってるでしょ」

 苦笑しながら修一さんは愚痴をこぼした。

「わたしと紫優は高校の弓道部で一緒だったの。それからずっと腐れ縁」

「彼女はわたしの元恋人。で、こっちの痛風のおじいちゃんが洪大こうだい|先生ね」

 さっきからなんて紹介をしてくれるんだろう。返答に困るような事言うの止めて欲しいんだけど。

「ふん。好きなものも食えねえ人生なんてまっぴらごめんだね。おい紫優、お前看護師なんだからちゃちゃっと治せよ」

「医者でも無理です。それにわたし、精神科のナースですもん。身体は弱いんです」

 紫優ちゃんは苦笑した。

「それに前から言ってるじゃないですか。お薬や治療よりも大切なのは節度のある食事と運動。それだけですよ。あとお酒と煙草も控えてください」

「けっ。藪医者とおんなじ事言いやがって」

「口が悪くてごめんね。あ、それとわたしと紫優は恋人でも元恋人でもなんでもないからね。ああやって夫婦仲に波風立てるのが好きなだけなのよ」

 果穂さんがやれやれといった感じで言った。

「大丈夫です。紫優ちゃんの性格は解ってますから。それになんかあったらお母さんにちくります。ぶん殴ってもらえば目も覚めると思うんで」

 わたしがそう言うと、紫優ちゃんは慌ててわたしの肩を掴んでゆさぶった。

「え、ちょっと待って。うそ、みんな嘘だから。ごめん、ごめんなさい。かすみには言わないでっ」

「ね? お母さんには頭が上がらないんです」

「……ひどい」

 紫優ちゃんがむっとした声で答えた。修一さんと果穂さんはお腹を抱えて笑っていた。

「ったく。途端にうるさくなりやがった。それで今日はどうしたんだ? くっちゃべりにきたわけじゃねえんだろ?」

 道場の一段高くなった畳敷きの場所にどっかりと腰を下ろしながら。洪大先生が紫優ちゃんに声をかけた。

「わたしが弓を引く姿をもっと近くで一花に見せたくて。……着替えは持ってきてます」

「じゃあ、早く着替えてこい。おい、そこのちんちくりん」

「え? あ、わたし?」

 ……ちんちくりんて。

「お前ぇ以外の誰がいる。お前も弓を引くのか」

「はい。まだ部活に入って二日目なので……右も左も解りませんけど」

「ふーん。なら精進しな。弓は遊びだ。楽しくなきゃ続かねえからな。楽しいと思えりゃ弓はお前自身になってくれる」

「はい。ありがとうございます」

 わたしはぺこっと頭を下げた。

「ほう。なんだ、紫優よりいい子じゃねえか。肝も据わってるみてぇだし。なあ果穂?」

「なんていったってあのかすみさんの娘だもの。当然よね?」

 わたしは少しだけ違和感を覚えて、果穂さんに訊いた。

「あの、わたしのお母さんの事、皆さんはよくご存知なんですか?」

「ええ。だってあのとき、会場が騒然となっちゃって。それはもうすごかったんだから」

 ……あのとき?

「それって……」

「果穂っ」

 道場を出かけた紫優ちゃんが大きな声を出した。

「……余計な事は言わないで」

「はーい。あ—おっかない」

 てへっと舌を出してみせた果穂さんは、そう言って肩をすくめた。なんだかそれ以上訊ける雰囲気じゃなくなってしまった。

 わたしはあきらめて道場を見渡した。神棚と反対側に額が掲げてあり、『一射絶命いっしゃぜつめい』と書かれていたが、なんとなく恐い言葉だな、と思っただけで……意味はよく解らない。きっと、弓道の大切な教えの一つなのだろう。

「先生。鍵かかってるんですけど」

「おう、今開けてやる。ちょっと待ってろ」

 洪大先生は大声で答えると道場を出ていった。

「修一さん。矢取りお願いできる?」

「ん? いいよ」

 果穂さんに声をかけられて修一さんも矢道の端を的の方に向かって歩いて行った。わたしと果穂さんだけが弓射場に残された。

 ここにはわたしの知らなかった紫優ちゃんのもう一つの世界が存在していた。弓道に触れなければ、交わる事のなかったもう一つの世界が。

 所在無さげに佇んでいると春の風が吹いて、どこからか名残の桜がちらちらと矢道を舞った。照明に照らされてまるで雪のように舞う桜の花びらは、どこかしら紫優ちゃんの姿に似ているような気がする。

「……あなたってかすみさんに目元がよく似てるのね。そういう遠くを見ている目がそっくり」

 果穂さんが小さな声で続けた。

「ちょっと妬けるな」

「え?」

「なんでもない」

 妬ける? なんだろう、わたしの聞き違いだったのかしら。わたしは果穂さんを見つめながら、前々から疑問に思っていた事を訊ねてみた。

「果穂さん。どうして果穂さんは射会のときは紫優ちゃんと話したりしないんですか?」

「ん?」

「紫優ちゃん。射会のときにはいつもひとりぼっちで誰とも喋っていません。友達がいないのかと思って心配してたんです」

 紫優ちゃんと果穂さんの話し振りでは……ふたりとも仲のよい友達のはずなのに。

 わたしは射会の会場で誰とも目を合わせようとしない紫優ちゃんの姿を覚えている。そして、誰も紫優ちゃんには声を掛けようとしなかったのも。

果穂さんは不思議そうに首を傾げるわたしを見て、クスッと小さな声で笑った。

「紫優は……かすみさんが嫉妬しちゃうかもって思っているみたい。だから滅多に射会には出てこないの。それだけじゃないな。紫優はいつだって自分で自分の周りに壁を作ってしまうの。射会に出るようになったのだってここ最近の事だもの。それまではずっとそんな場所には興味を示さなかった。あの子の弓はよく言えば孤高、悪く言えば孤独なの。それも……高校の頃から変わってないわね」

 そう言って果穂さんは小さくため息をついた。

「紫優がその当時から間違った事を言っていたわけじゃないんだって、今なら少し解る。でもね、世の中ってさ、それだけですむわけがないじゃない? あの子の弓は協調性がなくて周りとは合わせられないの。ずっとそうだった。その事もあって部活をやっていた頃は……わたしとよく喧嘩もしたわね。だからってわけじゃないんだけど、わたし、そんな紫優を半分無理やり錬士まで受けさせたの。自戒を込めて、ね」

 そして果穂さんは照れたように、自分の頬を弓手の指先でさすった。

「……あなたにはまだ解らないかもしれないね。でもね、弓を引くだけが弓道なんじゃないのよ? ま、わたしにしたってこの歳になった今なら解るってやつなんだけどさ、礼節や協調性……そこには美しさがないといけない。……だからね、『もしもあなたが自分の娘に弓を教える日が来たとき、その子の弓が周りの見えない弓になってもいいのか』って。わたし、紫優を脅してやったの」

 ちらり、と果穂さんはわたしを見た。

 ……わたしの癖が一花を駄目にしてしまうかもしれないの。

 あのときの紫優ちゃんの言葉は……そういう意味だったのだろうか。

「あんな唯我独尊を地で行く彼女でも、自分の可愛い娘が同じような、協調性のない弓を引くかも知れないと思うと恐かったのね。それだけじゃなくて紫優はね、さっきも言ったように……誰かと仲良く笑っている姿を見せてかすみさんを心細くさせたり、ひとりぼっちにして悲しませたくないの。かすみさんには紫優しかいないから。でもね、元々紫優の弓には誰もいらないの。かすみさんでさえ入り込めない場所がある。それなのに誰かと楽しそうに笑っているのはかすみさんに対して嘘をつく事だと思っている。それを紫優はきっとどこかで心苦しく思っているのね。だからわたしも紫優も、外で会ってもできるだけ話しかけないようにしているのよ。……わたしたちの恋人としての関係はもうとっくに終わっちゃったとはいえ、そう考えてみると少し、寂しいものがあるわね」

「……ごめんなさい」

 紫優ちゃんと果穂さんは昔恋人同士だった。紫優ちゃんは嘘をついてなかったのだ。その事がなぜかとても悲しくて、切なかった。

 もう過去の事として割り切ってしまえているのかもしれない紫優ちゃんと、未だにそう思えない果穂さんの心の差が……わたしにはとても痛々しく、切なく思えた。

 なぜなんだろう。

 なぜ紫優ちゃんはお母さんを選んだんだろう。そしてどうしてわたしにまで心を砕いてくれるのだろう。ここは、この場所は、紫優ちゃんだけの大切な世界だったはずなのに。

 今更ながらになんでお母さんと紫優ちゃんが恋に落ちたのか、わたしはふたりの馴れ初めをいつか訊いてみたいと思った。それはこれまで感じた事のないくらい切実な想いだった。

「一花ちゃんが謝る事じゃないわ。今は今でそれなりに楽しくやってるもの。まあ……紫優が大人しくしてる理由はそれだけじゃないのかもしれないけど。きっと、まだわたしに対して負い目があるんだと思うのよね。……あ、かすみさんにはこの話、内緒にしていてね?」

「はい」

「紫優にもわたしが喋ったって言わないでいてくれるかな」

「はい」

「……女と女の約束」

 ゆがけを外した果穂さんはそう言って右手を差し出した。わたしはその手をしっかりと握りしめた。果穂さんの手はしっとりとしていて、春の宵のように温かい。

「なんだ? なんでお前ら握手なんかしてんだ」

 洪大先生がのっそりと道場に入ってきた。

「お父さん。紫優は?」

「あ? 着替えだろ? 修一は?」

「矢取り」

「この馬鹿ったれ。矢筋を見る為に自分の矢は自分で取ってこいっていつも言ってるじゃねえか」

 いやー的のふちに食い込んじゃっててなかなか抜けなかったよ、なんて言いながら矢を抱えて戻ってきた修一さんにも洪大先生は使いっ走りなんかしやがって、そんなんだから果穂に舐められるんだ、と大きな雷を落とした。今村夫婦はそろって首をすくめていた。

 同じ仕草で怒られているふたりの姿を、わたしは静かに見つめていた。果穂さんの傷は未だに血を流し続けているのかもしれない。修一さんの存在はその傷を癒すのだろうか。更に大きく広げてしまうのだろうか。わたしにはよく解らなかった。流れ続けた血はいつか痛みを麻痺させてくれる。ただ、それだけを信じて、わたしは胸の中で小さく願う。

「失礼します」

 その声に振り返ると、白い道着に着替えた紫優ちゃんが道場の入り口で一礼しているのが見えた。

 さっきまで馬鹿な事を口にしていた紫優ちゃんとはまるで雰囲気が違っていて、わたしは思わず息を飲む。

「先生、なに怒ってるんです?」

「なんでもねえよ。それよりさっさと弓弦を張っちまえ」

「はい」

 紫優ちゃんはそう返事をすると弓袋を解いて弓を取り出した。

 末弭うらはずを壁の弓受け板に当て、弓の本体を腿に乗せて左手を添える。弦の先端を口にくわえて体重をかけると艶やかな飴色の竹弓がゆっくりとたわむ。そして口にくわえていた弦の先を静かに弓にかける。親指を立てて当て、弦の高さを調べる。最後におへその位置に本弭もとはずを付けて弓の状態をじっと見つめる。ただそれだけの所作が、なぜだろう、紫優ちゃんの手にかかるととても美しいものに見えた。

 桜の矢筒を開けると。

 中には夜を切り取ったような色の羽根が五本。ひとつは巻藁矢まきわらやで、残りは甲矢はや乙矢おとやが二本ずつ。

「一花」

「なに?」

「正座」

「あ、うん」

 わたしは慌てて板の間に正座した。紫優ちゃんは軽くストレッチをしていた。

 そして。

 空気がぴんと張り詰める。

 軽く的にゆうをして三歩進み、左足を的に向け、紫優ちゃんは一足で足踏みを行う。足の向きが六十度に開かれる。

「今の足踏みは礼射のやり方」

 洪大先生がわたしに言った。

「はい」

「解ってねえだろ」

「……はい」

 胴造りで紫優ちゃんの番えた甲矢の竹矢は、濡れたように艶やかな漆黒の羽黒はぐろ

 弓構え、物見……打起こし、大三。

 引分け。

 会。

 ギリギリと弦のきしむ音がする。

 矢道に桜が舞う。

 紫優ちゃんが小さくなにかを呟くけれど、さわさわと雑木をゆする風の音がわたしにはひどく大きく聞こえて、紫優ちゃんの言葉は耳に届かない。

 そして……まるで笹に降り積もった雪が自然に落ちるように。

 離れ。

 弦音。弓返りの竹弓がしなる音。

 残心。

 矢筋を見なくても解る。きゃんと鳴る弦音に少しだけ遅れて矢が的を射た音が響いた。

 静かに乙矢を番える。

 紫優ちゃんはもう一度的を見る。わたしもその視線につられて静かに視線を移動させる。

 正鵠せいこくに真っ黒い羽根が突き刺さっている。

 ギリギリと音がして、わたしは慌てて紫優ちゃんに視線を戻す。

 さっきと変わらない大きな大三から会に。

 弓手が真っ直ぐに伸び、妻手が丁度こぶしを肩に背負うように引き延ばされる。横に。そして天に吊るされ地に根を下ろすように縦に。その会の姿が先程と同様に美しくて、なぜか儚くて。わたしは泣きそうになった。

 静かに時間が流れて道場の空気が張りつめていく。

 そして自然に妻手が弦から離れ、少しあとでパン、という音が響く。弦から離れていく矢が少しだけ震えているのが見えた。それはとてもゆっくりと、まるでスローモーションのように射られ、わたしの緊張を一瞬のうちに引き裂いた。

 残心。

 そのときぽたっと音がしたような気がして慌てて自分の膝頭を見おろすと、スカートに黒い、水滴かなにかが落ちたあとが見えた。

 のろのろと自分の頬に触れると温かくて、少しだけ頬がひりひりする。

 濡れている。

 そう思った。

 でも、それが自分の涙だなんてわたしは最初……気付きもしなかった。

 二手目も同様に矢を番えて紫優ちゃんは弓を射る。

 放たれる全ての矢が的を射抜いていて、わたしはその様子をぽろぽろと涙を流しながらじっと見つめていた。誰もなにも言わなかった。紫優ちゃんが弓を引く音、ギリギリと弦の鳴る音、葉擦れの音、矢が離れていくときの弦音、的を射たときの乾いた音、わたしの呼吸、紫優ちゃん深い息づかい、それが世界のすべてだった。

 色のないモノクロームの世界がどこまでも広がっていた。

 二手四射。四本の矢を全て射終えた紫優ちゃんは、弓を立てかけ、きちんと正座をして弽と下かけを取った。そしてまたゆっくりと立ち上がるとわたしを振り返って言った。

「一花、一緒に矢取りにいこう」

 と。

 静かな、とても優しい声で。

「うん」

 わたしは立ち上がりながら袖でごしごしと涙を拭った。

 紫優ちゃんが小さく苦笑して、わたしに向かってそっと手を差し出した。わたしは子どものようにその手に自分の手のひらを重ねながら、ゆっくりと歩き出した。


 帰りの車の中。

「あの場所はどうだった?」

 紫優ちゃんがちらりと助手席のわたしを見ながら言った。紫優ちゃんの言っている〝場所〟という言葉が道場の事なのか、それとも……別のなにかを言い表すものなのか、わたしには解らなかった。

「紫優ちゃんが連れて行ってくれた場所はとても綺麗だったよ」

 それでもわたしは、思ったままを伝えた。

 紫優ちゃんがあの瞬間、わたしだけに見せてくれた世界。それは……本当にこの世のものとは思えないくらい、美しかったから。

「ただね、……同じくらいとても儚かった。色のない、音だけの世界だったから。紫優ちゃん。……わたし、自分でも理由が解らないんだけど……紫優ちゃんが的に中てようとして弓を引いているんじゃないって事だけは……なぜだかすごくよく感じたの。ねえ、あの的は紫優ちゃんにとって一体なにを表しているの? 紫優ちゃん自身なの? それとも……もっと大きななにか?」

 紫優ちゃんは暫くなにも言わなかった。

 県道沿いのコンビニに車を止めて、温かな缶コーヒーをおごってくれた紫優ちゃんは、ゆっくりと口を開いた。

「聖書ってあるでしょ?」

「え、うん」

 聖書?

「新約聖書はね、元々は古いギリシャ語で書かれていたの。ねえ、一花は原罪って言葉を知っているかしら」

「聞いた事はあるけど……アダムとイブがエデンの園の林檎を食べたとかなんとかってやつでしょ?」

 不勉強なわたしの言葉を聞いて、紫優ちゃんはくすりと笑った。

「わたしはね、善悪を知る木の実を食べたその事自体が楽園を追われた罪なのではないと思うの。咎められたときに言い訳をした事で彼らは神に背いたのよ。アダムはイブのせいにして、イブは蛇のせいにした。……自分を顧みて、神様に謝ろうとはしなかったのね」

「それが……どうしたの?」

 わたしは訊いた。さっきの話にどのように繋がるのか見当もつかなかった。

 紫優ちゃんは自分の缶コーヒーを両手でしっかりと包み込み、飲み口にふうっと息を吹きかけた。

「古いギリシャ語で書かれている聖書の中の〝原罪〟という言葉はね、〝ハマルティア〟というのだけれど……元々は〝的外れ〟って意味だったらしいの。わたしたちは生まれながらにして神様の指し示す方向からずれてしまっている。それがわたしたちの罪。特にわたしのように異性を好きになれないような人は……同性愛者は神様の御心に逆らっているんだって、ずっとそう思ってた」

 紫優ちゃんはフロントガラス越しに店内の明かりを見つめている。小さな声で呟く。

「女の子しか好きになれない自分が変なんだって思って、思い詰めていたとき……わたしは高校で弓道に出会ったの。生まれながらに罪を持つわたしでも、的を見つめて矢を射る事ができるんだって、そう思うと嬉しかったの。でも高校の弓道部は的に中てる事が、試合に勝つ事がとても大事にされていてね、みんなどうしたらうまく的に中てられるのかって……そればっかりだった。わたしはそんな事には全然興味が持てなかった。心を静かにして弓が引ければそれでよかった。わたしは誰かと競る為に弓を引くのは嫌だったの。中てる為じゃなく、自分自身と向き合う為だけに弓を引きたかったのよ」

 紫優ちゃんは車のハンドルに体を預けながら、深く大きく息を吐いた。まるで胸のつかえを自分自身で取り去るように。

「洪大先生のところにお邪魔するようになったのも当時その事で悩んでいたから。果穂がわたしを先生に紹介してくれたの。果穂ったらその頃反抗期の真っ盛りでね、弓道部員だったのに、家に弓道の道場があって父親が……その当時はまだ教士だったな、そんな偉い先生がいるって誰にも言ってなかったんだけど、わたしにだけこっそり教えてくれたの」

 そう言うと紫優ちゃんはちょっとだけ笑って見せた。

「初めて先生にお会いしたとき、わたしはわたしの疑問を先生にぶつけてみたの。先生はね、それはある意味正しい、でもある意味では大きな間違いだって。どんな高僧でもたったひとりで悟りを得た人間はいないんだって、そう仰られたわ。そしてね、……先生が一冊の本を手渡してくれたの。わたしはその本を読んで、そこに書かれた言葉を知って……目の前の霧が晴れた思いがした。正しいとか正しくないとかじゃないの。もっと大切なものがあるって気付いたのよ。だから周りとは少し合わせられるようにもなったけど……本当は試合とか大会とか、今でもまったく興味がないの。小さいとはいえ、射会に出るようになったのだってわたしの姿を一花に見せたかったから。ただそれだけなの。わたしが弓を引くのはね、最初っからずっと変わらないわ。自分が的を外れた生き方をしている人間なんだって忘れない為。少しでも神様の指し示す方向を見定めたいと思うだけ。本当にただ、それだけなの。ねえ、一花。……あなたはどんなふうに弓を引きたいの?」

 わたしはぬるくなりかけた缶コーヒーを飲み干して、紫優ちゃんを見つめた。

 今まで道場に連れてきてくれなかった理由が少しだけ解った気がした。きっと紫優ちゃんは……あの道場で弓を引く姿を、わたしには見られたくなかったんだと思う。それは紫優ちゃんにとって、とても大切な、特別な事だから。祈りのようなものだから。そしてあの道場には、わたしたちが簡単に立ち入ってはいけない紫優ちゃんの大切な人が存在していたから。だから。

 紫優ちゃんはわたしに見せるとき、わざわざ外で弓を引いたんだ。

「難しい事は解んない。でもね、わたしはもう一度あの場所に行きたい。今度は自分の足で立ちたい。静かで、綺麗で、とても……涙が出るくらい儚く思えたあの場所に」

 紫優ちゃんには、たぶん、わたしの思いは伝わっているのだろうと、思った。わたしは自分の足で、自分の力で、あのモノクロームの世界に行きたいのだ。

「……そっか」紫優ちゃんはため息混じりにそう言った。「なら、ひとつだけアドバイスしてあげるね」

「うん」

「これから弓道を続けていれば一花もいつか的前に立つようになる。そのとき的に中らなくても、悲しまないようにしなさい。そして的に中っても喜ばないようにしなさい。的の前で喜びと悲しみで心を乱さないように。ただ、静かに祈るの。あなたの握る弓も、二十八メートル先のあの小さな的も……あなた自身、ただそのものなのだから」

「ねえ、紫優ちゃん」わたしは訊いた。「その言葉を体現できるまでにどのくらいの時間がかかったの?」

 紫優ちゃんは少し考えて、

「二十年近く経っても完全な一射にはまだ出会えていないかもしれない。でも、それでいいの」

 と答えた。

「本当は段位も称号もどうでもいいと思っているんだけどね。一緒に錬士になるって果穂と約束しちゃったから」

「果穂さん……」

 わたしは小さく呟いた。果穂さんが紫優ちゃんに錬士になってもらいたかった本当の理由を、……紫優ちゃんは知らないままなんだ。そう思うとちょっとだけ胸の奥が痛かった。

「ただね、弓を引いていると時々……かすみが愛おしくてたまらなくなるの」

 紫優ちゃんはちょっとだけ辛そうに、そう言った。

「お母さん?」

 わたしが訊ねると、紫優ちゃんは小さく頷いた。

「かすみは……わたしとは違う世界を見ているわ。だから時々切なくなっちゃって。わたしにはかすみが見ているものが見えないから、だからかすみの見ているものの大きさに嫉妬してしまうの。自分がいかにちっぽけで、ずるい人間なのかって、思い知らされるの。そんなふうに思わせてくれるかすみが愛おしくてたまらない。だから、わたしも同じ世界が見てみたくなるの。……かすみと一緒に弓を引けたらそれが叶うと思ったんだけどな、振られちゃった。おっぱいが大きくなるよ、なんて言わずにもっと本気で口説けば良かったかな」

「お母さんが見ている世界……?」

「いつかかすみが見ているものをわたしは知りたい。一花にも見せてあげたい」

 紫優ちゃんは言った。とても温かな声で。

「……紫優ちゃんて馬鹿ね。お母さんの見ている世界が紫優ちゃんの見ている世界と違うのは当たり前じゃない」

 わたしの頬をまた涙が伝って、そっと胸元に落ちていく。わたしの見える世界がゆっくりと滲んでいく。まるで、それはいつか消えてしまう夢か幻のように思えた。

「だって……お母さんが見ている世界にはいつも、紫優ちゃんが映っているんだよ?」わたしは静かな声で囁くように言った。「お母さんはいつでも……どんなときでも、ずっと紫優ちゃんを愛しているんだから。紫優ちゃんを見ているんだから。ねえ、お母さんはそういう人でしょ?」

 じっとコンビニの明かりを見つめていた紫優ちゃんの瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれた。手で顔を覆い、嗚咽をこらえながら。

 紫優ちゃんはいつまでも泣き続けていた。


 泣き腫らした兎みたいな目のわたしたちを見てもお母さんはなにも言わなかった。

 わたしの髪をくしゃくしゃっと撫でて、紫優ちゃんにやさしく口づけをしただけだった。

「もう遅いから早くお風呂に入って」

 お母さんはいつもと変わらない口調でそう言った。

「うん。ジャンケン?」

 わたしは握りこぶしを作って紫優ちゃんに訊いた。

「一花、先に入っていいよ。明日も学校でしょ?」

「紫優ちゃんは?」

「わたしは休み。だからいいよ」

「ほんと? ありがと。じゃ、先に入るね」

 ぱたぱたと脱衣所で服を脱ぎ、体を洗って急いで湯船に浸かった。思ったよりも緊張していたのかもしれない。お湯が自分の体に染みてくるような、疲労が溶け出していくような……そんな気がした。

 膝を抱えていつものようにその上に顎を乗せ、体育座りの要領で体を小さくさせる。

 道場の帰り際、果穂さんはまた会いましょうね、と言った。また道場に来てもいいという意味なのかと思って先生を見ると、

 紫優の娘なら俺の孫みたいなもんだ。いつでも遊びに来りゃいいさ。

 と言ってくれた。

 今度来るときは弓を引く人間だと思って対応してやる。ま、教本ぐらいは読んどけ。

 ぶっきらぼうなその言葉に、果穂さんと紫優ちゃんは目配せをしてくすくすと笑った。恋人同士の関係じゃなくなっても。たとえ片方が結婚しても。もう片方に新しい恋人ができても。きっとふたりの絆は永遠に続く。親友なのだから。そんな事を思いながら、わたしはやわらかな笑みを浮かべる二人を見つめていた。

 温かなお湯に浸かってぼんやりと思い出を反芻していると、不意に脱衣所の方からごそごそと物音がしだした。

「お母さん? それとも紫優ちゃん?」

「わたし」

 紫優ちゃんの声だった。

「やっぱりわたしも一緒に入る」

「え、あ、ちょっと待ってよ。もうすぐ出るからっ」

 慌てて湯船から出ようとすると、

「もう脱いじゃったもん」

 がらり、と浴室の戸を開けて、素っ裸の紫優ちゃんが入ってきた。

「もう、狭いのに」

 わたしは恥ずかしくなって座り込み、湯船の中で更に体を小さくさせた。紫優ちゃんの背中にはまるで赤黒い鴉が羽を広げているような姿で、ケロイドになったやけどが広がっている。紫優ちゃんは気にする様子もなく、シャワーを浴び始める。

「……なに?」

 わしゃわしゃと頭を洗っている紫優ちゃんはわたしの視線に気付いて顔を上げた。

「相変わらずおっぱいおっきいなぁって思って」

「弓道やってるからね」

「ばーか。もう騙されたりしないんだから」

 紫優ちゃんが笑った。

 わたしもつられて笑った。

 お母さんがいて、紫優ちゃんがいて、わたしのいるこの世界がずっと平和のうちに続きますように。

 もう誰も、いなくなったりしませんように。

 そっと目をつむって。

 わたしは胸の中で小さく祈った。

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