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目が覚めて学校に行っても校舎は爆破されていないし、戦争が始まっていて、銃弾やミサイルが撃ち込まれたという形跡も痕跡もない。
窓ガラス一枚割られる事なく日常は緩やかに昨日の続きをなぞり、明日に向かって穏やかに流れていく。もしかしたら、平和というのは、退屈と同義なのかもしれない。わたしは授業中に窓の外に浮かぶ雲を眺めながら、そんなことを思っていた。そして、休み時間になれば司さんと久美さん、由貴さんと一緒にお菓子を広げ、それぞれの部活の事や昨日見たテレビの事なんかで盛り上がる。歌番組やお笑い芸人の話。ちょっとお硬く最近のニュースまで。周りを見るとバッサバッサとスカートで扇いでいるせいでパンツ丸見えになってしまっている子が目に入り、ああ、わたしは女子校にいるんだなー、なんて、改めて実感したりした。
「あ、そう言えばね。わたし、謝らなきゃならない事があって」
お昼休み。教室で机を四つくっつけてみんなでお弁当を食べてるとき、わたしはふと思い出してぽつりと言った。
「ん?」
唐揚げをもぐもぐさせながら司さんが首を傾げてみせる。
「ほら、前にうちの家の人が弓道始めたらおっぱい大きくなるって話してたって、そう言ったでしょ?」
「あ、うん」
「そういえばそんな事言ってたね」
「あれね、どうやら嘘だったみたいでさ。自分が弓やってて、おっぱいDカップでおっきいからって、からかわれたみたいなの。だから……ごめんね?」
「そっかぁ。いや、今日辺り弓道部覗いてみようかと思ったのに、それは残念」
「うん。ほんとほんと」
司さんと久美さんが白々しくうんうんと頷いているのをわたしはじとっとした目で見つめた。
「嘘でしょ」
「わたしやっぱり高飛びが好きだもの。そう簡単に誘惑されないよ」
「うん。わたしもマンドリンの魅力にメロメロです」
「あんだけ食いついたのに」
わたしが言うとふたりはたはは、と苦笑してみせた。由貴さんだけがぼんやりと考え事をしていて、箸を持ったままお弁当箱の中身の、ちょっと上を見つめている。
「由貴さん? どうかした?」
久美さんが訊ねる。
「由貴さんくらい胸があればそりゃ誘惑されないよね」
司さんがうんうんと頷く。
「……え? 胸? うん。胸……そうよね」
いつも少しおっとりしたところのある由貴さんだったけど、今回はなんだかちょっと様子が変だった。
「ところで由貴さんて何カップあるの?」
久美さんが眼鏡をキランと光らせながら訊ねた。
「あの、えっと……この前きちんと計ってもらったら……Eだった」
「は? E? なにそれちょっと触らせてっ」
「あ、わたしもっ」
「え? や、あんっ。ちょっ、ばかばかやめて。ふたりともやめてってばっ」
久美さんと司さんにわしゃわしゃと胸を揉みしだかれて、由貴さんはちょっと涙目になっていた。
「やわらかかった」
「うん。やわらかかったね」
二人は手をニギニギさせながら、実感のこもった声で言う。
「もうっ、信じられない。久美さんと司さんのばか、ばかっ」
「……大丈夫?」
わたしが苦笑しながら訊ねると、由貴さんははぁはぁと息を荒げながら、それでもわたしにはなんとか笑顔を作って、うん、大丈夫、と答えてくれた。まったくもう、なにしてんだか。
そんなこんなで放課後になり、弓道部の練習場に行こうと荷物をまとめているときだった。
「一花さん。一緒に行こ」
先に体操服に着替えた由貴さんがわたしに声をかけてくれる。
「うん」
けれど先に声をかけてくれたのに、並んで歩いているあいだ、由貴さんはずっと黙ったままだった。いつもなら他愛のない話とかするのに。わたしから話しかけてもどこか上の空で。もしかしたら本当に具合が悪いんじゃないかと心配になってきた。
「由貴さん、具合悪いの?」
「ううん。大丈夫」
「そう? あ、お手洗い、いい?」
わたしが訊くと、由貴さんは小さく頷いた。個室で別れ、用を足してからまた一緒に並んで手を洗っていると、不意に由貴さんが言った。
「こんな事を訊いたら一花さんが気を悪くするかもしれないなって思ってたんだけど、いいかしら」
「なに?」
「あのね」
「うん」
「一花さんのお母さんの恋人って、女の人なの?」
「……え」
驚いて顔を上げると鏡越しに由貴さんの視線が絡まる。わたしはハンカチを口にくわえたまま、固まってしまった。
「初めから少し変だなって思っていたの。一花さんは入学式の日、司さんたちを弓道部に誘ったでしょ。でも、そのときにうちの家の人が……って言い方をしたのを覚えてる? 今日もそう言っていたし。それでね、わたしはきっと結婚してない従姉妹のお姉さんか誰かが同居してるんだと思ってたの。一花さんがその人を家族だって紹介しなかったから。女の人だと思ったのはね、男の人がおっぱい大きくなるよ、なんて……普通言わないと思ったから」
「…………」
なにも言えなかった。
わたしは、紫優ちゃんをうちの家の人、って、無意識にそう呼んでいたのだろうか。そんな他人行儀な説明の仕方を、したのだろうか。
「一花さんはお母さんの恋人の影響で弓を始めたって言っていたよね。だからあれ、変だなーって思ってた。あるいは男の人でもからかっておっぱい大きくなるよ、なんて言う事もあるのかしらって。でもね、今日のクラスの会話でね、一花さんのお母さんの恋人は女の人なのかなって……思ったの。だって……おっぱいの大きな男の人なんていないわ」
……確かに、その通りだった。そのときそのときでうまく説明できず、口先だけで取り繕ってしまっていたわたしがいけなかったんだ。ごまかそうとしてしまったわたしが悪いんだ。
紫優ちゃんとお母さんの事は別にやましくもなんともないし、隠すようなものじゃない……。そう自分では思っているつもりだった。
でも、結果的には隠しているのと同じだった。やましいと感じているのと同じ事だった。それをこんなふうに他人から指摘されてしまったのが恥ずかしくて、悔しくて。自分自身が許せなかった。心の奥底では紫優ちゃんを他人だと思っていたのかもしれない自分が……許せなくて。
唇が震えて、口にくわえていたハンカチがぱさりと床に落ちた。
「……ごめんね、あんまり深く訊かない方がよかったかな」
由貴さんがハンカチを拾ってくれながら申し訳なさそうに言った。わたしはふるふると首を横に振った。廊下を生徒が歩く騒がしい声がするけれど、今、お手洗いの中はわたしと由貴さんのふたりだけだった。
「確かに……わたしのお母さんの恋人は女の人よ」
わたしは静かな、小さな声で言った。
「でも、それをわたしは変だと思ったり、恥ずかしいと思った事は一度もないわ。それだけは嘘じゃない。ただね、その人の事をうまく説明できなかったの。誤解なく解ってもらえるのは無理だと思ったから。ううん、違うね。それだって言い訳だわ」
ぎゅっとハンカチを握りしめた。指先が白くなって、微かに震えた。
「でもね、これだけは言わせて。わたしは三人そろってはじめてわたしの家族だと思っているし、お母さんも紫優ちゃん……彼女の名前ね、も。きっとそう思ってくれているわ。だって、わたしたちはそういうひとつの家族なんだもの」
わたしは自分自身に言い聞かすように、はっきりとそう言った。
「うん」由貴さんも小さな声で頷いた。
「由貴さんはそういうの、どう思う? 変だと思う? き、……気持ち悪い?」
わたしは震える手でハンカチを弄びながら……由貴さんに訊ねた。
変な目で見られるのも、気持ち悪がられるのも……仕方のないことなんだって解ってる。理解している。世間一般ではまだまだ同性愛者は受け入れられているとは言い難いのだから。
けど、せっかく仲良くなった由貴さんにまで、……そんな目で見られるかと思うと。
切なくて。
……涙が出そうだった。
「どうって言われても……想像がつかないからなにを言っても嘘になると思う、って答えるしかないかな。一花さんはお母さんの彼女さん、好き?」
「好き。大好きよ」
「なら……わたしがどう言おうとどう思おうと関係ないと思うな。世の中にはそういう事に嫌悪感を抱く人がいるのも解るけど。でも……人が人を好きになるは仕方のない事だし、止められないわ。わたしだって……そのくらいの事、解るから」
由貴さんはにっこりと笑った。
「ねえ、一花さん。誰かに恋をするのは素敵な事だわ。ごめんね。一花さんにばかり秘密を打ち明けさせてごめんなさい。だから、ってわけでないのだけど。わたしも秘密をひとつ、一花さんに打ち明けてもいい?」
「うん。……なに?」
由貴さんの邪気のないその横顔に。わたしは少しだけドキドキしながら訊ね返す。
「わたし、お付き合いさせてもらってる男の子がいるの」
わたしはぽかんと口を開けたまま、ちょっとはにかんで頬を染める由貴さんを、見つめていた。
「同じ中学の同級生なんだけどね。子どもの頃から近所でずっと仲良しで。告白されたのは卒業式の日だったな。もう、ね。知っていたら一緒の高校に通う事だってできたのにね。ほんとに男の子って馬鹿なの。気付かなかったわたしもわたしだけど。うん。でね、彼も今年から弓道部に入部するって聞いて……わたしの入部の動機は、本当はそこにあるの。だから実は……姉さんが弓道部なのとは全然関係ないんだ」
「……なんというか。由貴さん、ものすごいのぶっこんでくれるのね。どう返したらいいか解んないわ」
「うふふ。おあいこ」
「う、うーん。おあいこ、って事でいいのかな?」
わたしは唖然としながら苦笑を浮かべた。
「もちろん。じゃ、そろそろ練習場に行きましょう」そう言うと由貴さんは大きく背伸びをした。すると丸みを帯びた胸が美しく強調された。お昼休みに久美さんと司さんに散々揉みしだかれていた、とってもやわらかそうなふたつのおっぱいが、「一花さん。……どこ見てるの?」
「え? いや、おっきいなぁって思って」
「もう、みんなしてエッチなんだから」
じろりとわたしを睨んでから、由貴さんはちょっとだけほっぺを膨らませた。みんな。みんな、か。そのエッチな人の中に……彼氏は含まれてたりするのかしら?
「あのね。わたし……昨日の練習でバテバテだったから。彼と一緒にランニングを始める事にしたんだ。訊いたら彼の高校の弓道部は筋トレもランニングもしてないよって言われてうらやましいなぁって思ったんだけど。でもがんばらなきゃ……あれ? 一花さん?」
へなへなと力が抜けて肩を落としたわたしを見て、由貴さんは可愛らしく首を傾げている。
「もう、なにそれ。好きな人と一緒にランニングって、そのシチュうらやましすぎるんですけど」
わたしはため息をつきながら恨めしげにそう呟いた。由貴さんはそんなわたしを見てくすくすと笑っていた。
「なら、一花さんも早く……恋人作っちゃえばいいんじゃないかな」
練習場の空気が昨日よりもぴりぴりしているのに気付いて、わたしは先に着いていた真琴さんと桜さんに目配せした。けれども二人ともその理由は解らないみたいで、そろって首を傾げてみせるだけだった。
先輩も今日はみんな体操服姿だった。
はて、一体なにが始まるっていうのかしら。わたしと由貴さんは遅くなりました、と声をかけながら、真琴さんの横に正座した。
「みんな集まった?」
ひとり上座に正座している主将の早野先輩が、部員を見つめながら座ったままの姿勢で言った。他の部員は下座に正座していて、一年生はそれを真横から見えるすみの方の場所に、邪魔にならないように並んで正座している。
「仮入部中の一年生も聞いてもらいたいんだけど。あのね、……今まで外部からいらっしゃっていたコーチの
はい、という返事の代わりに、ざわざわした不安そうな声がみんなの口から漏れ出た。きっと、いずれこうなるとは部員全員が理解していたんだとしても。たぶん、その柚木先生という方がお辞めになったのはあまりに急な事だったのに違いない。それに……。
「で? 今日はみんな道着を着ちゃいけないっていうのはどういう事なのかしら。体操服で弓射場に集合って連絡があったのは聞いてるけれど、理由を説明してくれる?」
猫みたいにやわらかそうな癖っ毛の髪を肩の先まで伸ばした三年生の先輩が、少し険のある口調で早野主将に声をかけた。その先輩の左手の手首に黄色いシュシュが巻いてあるのが見えた。昨日一昨日とそのシュシュで髪をひとつにまとめて的前に立っていたのを、わたしは覚えていた。彼女の独特な射形がとても美しかった事も。
「ゆかり。わたしもなにも聞かされてないのよ。新しい先生から初めてお会いするときは体操服で、ってお話があったって事くらいで。理由までは聞いてない」
「ちょっと早野。そんなので納得しろっていうの? 今までずっと、弓射場で的前に立つときにはきちんと道着に着替える。そういう決まりになっていたじゃない」
「目くじら立てるなよ。先生からのお達しなんだから仕方ないじゃん」
「河原木、あなたは黙ってて」
隣に座っていた真琴さんが、あの人がインターハイに出場した
わたしはもう一度不機嫌そうな声の主を見つめた。目つきが鋭くて、まるで人に慣れていない長毛種の猫みたい。……美しい人だけれど、なんとなく取っ付きにくそうだな、と思ったのがわたしの第一印象だった。でも、あのやわらかそうな髪は魅力的で。どうしたら触れる事ができるかな、なんて思ったりもした。
暫くは主将と香坂先輩、そして河原木副部長のイライラとした口調での遣り取りが続いた。
するとそのときだった。人の気配がして、慌ててみんなが口をつぐんだ。そして、顧問の今泉先生に伴われてひとりの女性が弓巻きに包まれたままの弓と矢筒を持って、入ってきた。
わたしは白い道着姿のその人を見て、瞬間的にハッと息を飲んだ。というか……開いた口が塞がらなくなった。自分でもよく咄嗟に声を出さなかったと感心してしまうくらいだった。
だって。
そこにいたのは。
「みなさん、集まってる? 紹介しますね。今日から新しくご指導してくださる事になりました今村果穂先生です。先生はこの学校の卒業生で、以前この弓道部の主将をなさっておられたとお聞きしています。弓道五段で錬士……でよろしかったですか?」
「はい」
果穂さんがにっこり笑って頷いた。そこにいたのは紛れもなく、昨日会って別れたたばかりの、果穂さんだった。
「みんな、初めまして。こんにちは。今村果穂です。よろしくね?」
今ちらりと、でも確かに果穂さんはわたしを見てそう挨拶をしたのだった。
えーと。
……冗談だよね?
家に帰ってただいまもそこそこに、わたしはキョロキョロと家の中を見回した。いない。どこにもいない。……どこにいったのよ、まったくもうっ。
「どうしたの? 忙しないわね」
お母さんがジャガイモの皮を剥きながら、ちらりとわたしを見つめた。
「お母さん、紫優ちゃんは?」
「まだ仕事じゃないの? 帰ってきてないもの」
「じゃあ、いつ帰ってくるの?」
わたしはむっとしながら更に言い募った。
「いつもと一緒でしょう? ……なにをそんなに怒ってるの?」
「ちょっと聞いてよ、お母さん。あのね、紫優ちゃん、わたしの高校のOGだったんだよ。信じられる? それにさ」
わたしは一瞬口籠った。
果穂さんの事はお母さんにうまく説明できそうにないし、今はまだ言わない方がいいのかもしれない、と思ったのだ。
「とにかく、わたしに内緒ってひどくない?」
「そういえば一花には言ってなかったわね」
お母さんは手元を動かしながらなんでもないような口調でそう言った。
「なっ? お母さんも知ってたの? わたしの通ってる高校が紫優ちゃんの母校だったって」
「うん」
お母さんがあまりにあっさり頷くから、わたしは力が抜けて喋れなくなって、はーって長い溜息をついた。それから居間のカーペットの上にぺたりとお尻を付けて座り込んで、じっと上目遣いにお母さんを睨んだ。
……信じらんない。
「なに睨んでるのよ、馬鹿な子ね。だいたいね、ここら辺って別にわたしの地元じゃないし、紫優がどこの高校に通ってたかなんて興味ないもの。それにね、一花が高校を選ぶとき、一花の考えだけで高校を選んで欲しいって。ふたりで話し合って決めたの。でも紫優は喜んでたわ。一花が自分の通っていた女子校を選んだ事を。本当に、本当に嬉しそうだった」
「……ずるい」わたしは言った。
「なにが?」お母さんがまたちらりとわたしを見て訊ねた。
「そんなふうに言われたらもう、怒れないじゃん」
「馬鹿。最初から怒る理由なんてないじゃない。いつまで経っても子どもみたいなんだから。ほら、制服しわになっちゃうから早く着替えておいで」
子どもみたい、って。なんなのよ、もう。わたしはお母さんの子どもじゃん。
わたしは「はーい」と気のない返事をしながら、そう言えば、ともうひとつ質問してみた。
「ねえ、お母さんの地元ってどこなの?」
包丁を持つ手が止まった。
「……お母さん?」
「北海道」
「うそ? いいないいなっ。わたしも行ってみたいなぁ。わたし北海道なんて行った事ないもん。ねえ、いつかみんなで」
「嫌っ」
お母さんが鋭い声で叫んだ。顔が蒼白になっていた。
「あんな街、……死んでも嫌」
「お母さん?」
恐る恐る呼んでみたけれど、お母さんはわたしを見てくれなかった。お母さんの目は何も映していなかった。蛍光灯の明かりを受けて、包丁が冷たく光っていた。それは遠い昔、どこかで見た光と同じものだった。
「え、と。あ、ごめん、着替えてくる。……あの」
「…………」
「……ごめんね」
わたしはのろのろと立ち上がって、自分の部屋に向かおうとした。心臓の音がうるさいくらい、動悸がいつまでも治まらなかった。のどがからからで目の焦点も合わなかった。お母さんのあんな声、あんな顔……今まで聞いた事も見た事もなかったと思う。
そのとき。
かちゃん、と玄関の鍵が開く音がして、紫優ちゃんが仕事から帰ってきた。春色のパーカーにコットンのロングスカートというラフな格好で。
「ただいまー。いやぁ、今日も疲れたわ。ナースコールひっきりなしだし……って、どうしたのふたりとも? 喧嘩でもしたの?」
お母さんは下を向いたまま返事をしなかった。わたしはしどろもどろになりながら。
「あ、違う。あの、えっとね、わたしがお母さんの地元どこって、訊いたら、あの……ごめんね。きっと訊いちゃいけない事だったんだよね。ごめんなさい。……お母さん、ごめんね?」
わたしは少し泣きそうになりながら、お母さんに向けてなのか紫優ちゃんに向けてなのか解らないまま、喋り続けた。きっと、お母さんのタブーに触れてしまったんだ。そう思うと……とても悲しくなる。
紫優ちゃんはそっと台所にいくと、お母さんの手から包丁を取り上げて、後ろからぎゅっとお母さんを抱きしめた。紫優ちゃんの顔は苦悶の表情を浮かべている。
「……かすみ」
お母さんは返事をしない。
「一花。ごめん、ちょっとふたりで出かけてくるね。大丈夫。一花は心配しなくていいから。いい子で留守番してて。ね?」
「……うん」
紫優ちゃんがお母さんの手を引いてアパートを出ていく。お母さんは誰とも目を合わせない。わたしは一歩も動けなくて、なにもできなくて。気付いたらぽろぽろと涙をこぼしていた。まるで。
捨てられてしまった子どもみたいに。
果穂さんの指導は少し、というよりもだいぶ変わっていたみたい。わたしにはよく解らなかったけれど、先輩たちの混乱ぶりから、そう判断する事ができた。
早野主将がご挨拶したあと、
練習内容は柚木先生から引き継ぎを受けているわ。でもね、ちょっとわたしなりにアレンジしてもいいかしら。
いたずらっ子のような笑みを浮かべて。果穂さんはそう言った。
早速だけどみんな校庭走っておいで。軽く三周でいいから。
二年、三年の部員は全員、不思議そうに首を傾げている。
ランニングは一年生の体力作りの為、基礎メニューになっているんだから校庭を走る事自体は別に構わない。でも二年と三年は免除になっているはずなのに。しかもたったの三周だなんて。それじゃアップにもならないと思う。
あの、三周って、ちょっと短くないですか?
そう訊ねたのは副部長の河原木先輩。やっぱり先輩もその距離の短さを疑問に思ったのだろう。果穂さん自身も言っていた通り当然前任の柚木先生とは情報交換しているはずだし、わたしなんて昨日、その五倍は走らされたのに。それなのに初日から練習メニューをいきなり変えちゃうなんて。ちょっとアレンジどころの話じゃない。きっと前代未聞の事だったのだ。
あ、短くていいの。その代わり、ファイトーみたいな声出しとかそんなのはいいから、ゆっくりとお腹で息をするのを心がけて。丹田っていうのがあるのは知ってるでしょう、そこを意識するの。そして、誰が横を走っているのか、誰が前を走っているのか、よく見ながら走って欲しいの。だから特に三年生が前とか決めないで走ってちょうだい。戻ってきたら各自ストレッチね。上半身だけじゃなく下半身もきちんとほぐさなきゃね。さ、早く行っておいで。
わたしたちは狐に抓まれたような表情のまま、果穂さんに言われた通りお腹で呼吸をするのを意識しながらゆっくりと校庭を三周回った。わたしの両隣には真琴さんと早野主将がいて、前を走っているのは香坂先輩だった。バラバラに走っていると思わず距離感がつかめなくなってしまって、何度か香坂先輩にぶつかりそうになってしまった。いったい……このランニングにどんな意味があるっていうんだろう。
はい、じゃあランニングから戻ったらすぐにストレッチ。ひとりずつのが終わったらふたり一組になって上半身を伸ばしてね。これも一年二年三年の区別なくペアになって。ひとりのときには声を出さなくていいけど、ふたりのときには呼吸を合わせてやってみてちょうだい。
果穂さんはランニングから戻ったわたしたちに向かってそう言うと、軽く微笑んで見せた。
わたしは自分自身のストレッチが一通り終わると、すぐ近くにいた香坂先輩に声をかけてみた。最初少しだけ驚いて、そしてちょっとだけ仕方なさそうな顔で、香坂先輩はわたしの手を取ってくれた。
その指先はわたしが想像していたのとは違って、ざらざらしていた。まるで猫の舌(ラング・ド・シャ)のように。不思議に思ってつないだ手を見つめていると、途端に香坂先輩が不機嫌そうな顔をしたから。わたしは慌てて視線をそらした。香坂先輩の指はもっと、白魚のようだと思っていたんだけど。
そのまま周りを見ると、色々なところで様々なペアが生まれていた。そのあいだ果穂さんはなにも言わずにじっと生徒たちを見つめていた。
終わった? じゃあ二年生と三年生は着替えてきて。一年生はちょっと待っててね。
あの、わたし新入部員教育係の篠原といいます。一年生には筋力トレーニングのメニューがあるんですけれど……。それはどうしたらよいでしょうか?
カチューシャをつけたおかっぱの髪が小さくゆれた。篠原先輩はわたしたち一年生の方をちらりと見て、少し心配そうに訊ねた。
いいよ、やらなくて。
けれども果穂さんは、あっさりとそう言った。
やらなくて、いい……?
うん。弓を引く筋肉は普段使わない筋肉だから。実際に弓を引いて鍛えた方がいいの。さ、あなたも早く着替えてきて。
先輩たちが首を傾げながらも素直に着替えにいくと、弓道場には果穂さんと一年生だけが残った。
すると先輩方がいなくなったのを見計らって、
一花ちゃん、ちょっとおいで。
そう言ってわたしを手招きする果穂さんを、他の一年生三人がびっくりした目で見つめていた。わたしは胸のドキドキが顔に出ないように気をつけながら、呼ばれちゃったからちょっと行ってくるね、なんて言い訳して、道場の端っこの方に小走りで近づいていった。
……急に名前で呼ばないでくださいよ。それにどういう事なんですか。昨日はコーチの話なんてしてなかったじゃないですか。
わたしは背後が気になって、少しむっとしながら小声で果穂さんに訊ねた。
びっくりした?
しましたよ、もう。紫優ちゃんは果穂さんがコーチになったの知ってるの?
あ、どうだろ。知らないんじゃないかな。それともう紫優からは聞いているのかしら。紫優もね、ここの出身なのよ。一花がわたしたちの高校に入学したんだよって、それはそれは嬉しそうにメールしてくれてね。それでわたしもコーチの話を引き受ける気になったんだけど。ふふふっ、紫優が知ったら悔しがるんじゃない? 一花ちゃんと母校で一緒に弓が引けてずるいって。
そう言ってくすくす笑っている果穂さんをわたしは信じられない思いで見つめていた。昨日高校からの付き合いだって言っていたからまさかとは思っていたんだけど、自分の通う高校が紫優ちゃんの母校だなんてわたしは全然知らなくて、そんな重大な事を家族以外の別の誰かから知らされた事に……少なからずショックを受けていた。でも、今それを口にしたら果穂さんを余計喜ばせてしまいそうで。癪だと思って言えなかった。
……紫優ちゃんにちくりますからね。
どうぞどうそ。
わたしの心を知っているのかいないのか、果穂さんはにこにこと笑っている。
そんな遣り取りをしていると、失礼します、と声をかけながら先輩たちが次々と戻ってきた。
みんな着替え終わったかな?
果穂さんが道場の入り口に向かって大きな声でそう言った。
その声を合図にわたしはそそくさと自分が座っていた場所に戻った。座ると同時に真琴さんに肘で突つかれ、あとで説明してよね、と小声で囁かれる事になったんだけど、わたしにだってどう説明したらいいのか解んない。こんな事になるなんて思ってもみなかったんだから。
あなたとあなたは残っていいわ。あなた、それから……あなたもやり直し。道着と袴くらいちゃんと着付けてらっしゃい。
果穂さんは優しい口調でそう言った。でも、まさか道着の着付けに駄目出しを貰うとは思ってなかった先輩たちは、慌てて更衣室に戻っていく。結局十一人中すんなりOKを貰えたのは早野主将と香坂先輩、由貴さんのお姉さんの仲本
そして全員の着替えが終わっても、まだ誰も弓に触らせてもらえずにいた。
きちんと道着が着られているかどうか、これからはお互いに意識して欲しいの。ホームルームで遅れたからってバタバタと着替えたりしないように。今日綺麗に着られていた四人は率先してあとの子を見てあげてね。じゃあ、次。体配ね。最初だから弓は持たなくていいわ。ええと、三歩進んで揖、立った状態から正座、跪坐、立ち上がり。跪坐のときには坐射でするときのように、一度膝を生かしてみてね。じゃあ、ひとりずつ。あ、さっきのえーと篠原さん? あなたからやってみせてくれるかしら。
体配? なんで今更そんな事をやらされなきゃいけないの? 大会前でも段審査前でもないのに。……そんな無言の不平不満が聞こえてくるようだった。いつもならとっくに全員が二手は矢を射ているはずで。先輩たちの焦りというか不満というか、そんなもやもやが伝わってきてとっても居心地が悪い。でも、そんなのどこ吹く風で、果穂さん自身は涼しい顔をしている。
篠原先輩がまずは全員の前で滑らせるように足を運び、軽く上体を倒して揖をする。それからきちんとつま先同士を付けて立った状態から下座側の右足を半足後方に下げ、ゆっくりと腰を落としていく。そして右膝を床に付けつつ左足の膝をその右膝に摺り合わせるようにくっつける。不思議だけどとても美しい座り方をして、篠原先輩はふうっと息を吐いた。そしてつま先立ちになって跪坐。左足の膝を少し浮かせ、もう一度元に戻る。そこから腰を切り、左足を右足の膝より前に出ないくらいまで立たせ、呼吸とともにゆっくりと立ち上がる。
いいわ。すごく良かった。若干歩くときに上半身がぶれるから注意して。あ、そういえばあなた、たしか今年の指導係だって言ってたわね?
はい。
篠原先輩が小さく頷く。
なら、一年生の指導をお願い。弓射場の外でさっきの一連の流れを教えてあげてほしいの。あとで見に行くから。一年生は篠原さんについて行って。さ、続きやるわよ。次は……。
待ってください先生。いつまでこんな事させるんですか?
そう声を上げたのは香坂先輩だった。
いつまでって、そうね、とりあえず今日は全員の体配を見せて欲しいの。体配の動きは射法にも現れるからね。弓道は的に中てればなんでもいいって競技じゃないんだから。道着もしっかり着られない、体配もできてない人にどうして正しい射が行えると思う? これからは基本的に立射じゃなくて坐射を中心にして練習してもらうわ。レギュラーだからって体配を疎かにするような人は試合には出さないから。そのつもりでいてね。じゃ、いいわ。次はあなたやって。ま、試験ってわけじゃないんだから気楽にやってみせてよ。体配を一通り見せてもらったら、今日はもう的前に立っていいから。えーと、名前は……。
香坂です。
ふうん。
果穂さんは小さく、あなたが、と呟いた。
香坂さん、せっかくだからあなたは弓を持って体配を……ううん、もうそのまま坐射をやってみてくれるかしら。インターハイ出場のお手並みを見せてもらおうかしら。じゃあ弽をつけたら早速始めて。あ、ほら、一年生は向こうで篠原さんと練習でしょ。早く行きなさい。
わたしとしては果穂さんと香坂先輩の遣り取りに興味があったのだが、追い出されるような形で道場の外に出されてしまった。外とは言っても屋根だってある場所である。そこはみんなで筋トレができるくらいの広い板張りのスペースになっていて、巻き藁が置かれていたり予備の的が壁にかけられたりしている。道場の外からはガラスの扉越しに中の様子が窺えるようになっていた。
気になると思うけど、今はこっちに集中してくださいね。
篠原先輩にそう声をかけられて、わたしは慌てて先輩の方へ向き直った。
なんだか変な具合になっちゃってごめんなさい。まずはわたしがもう一度やってみせるので見ていてください。
そう言うと篠原先輩はさっき自分で行った一連の動きをひとつひとつ説明しながら行っていった。
歩くときは上体を崩さず、膝を曲げず、足の裏を見せないように。大体四メートル先の床を見るようにして、腰を中心にして腰で動くようにします。
立ち止まって揖。
軽く上半身を十度くらい曲げて。お願いします、ありがとうございました、という気持ちを込めて。
次は正座の仕方。
息を吸いながら半歩足を……かかとがあがらないように引きます。そして息を吐く。吸う息で腰を沈め、引いた方の足の膝頭が床に着いたら、腰で押すようにしてずらすんです。そうすると自然に両膝がそろいます。片方ずつ足首を伸ばして、正座ですね。
つま先だけを立てて跪坐。
弓を持っていれば左足の膝を生かします。生かすというのはええと……腰を吊り上げるようにちょっと浮かすんです。これって結構きついんですよね。でも、大切な所作なので頑張ってくださいね。
次は立ち方。
呼吸にあわせて腰を切ります。切るというのは伸ばす事ですね。下座側……基本左足からになるのですが、左足のつま先を右足の膝を出ないように出して、その状態から立ち上がります。
篠原先輩の説明はとても解りやすい。ただ、だからと言ってそれがすぐに身につけられるかと言えばそんなわけもなく。わたしは雌雄ちゃんの動きを思い出しながら、ぎこちなくその動作を真似た。右隣を見るとさすが元茶道部、真琴さんはなんでもない顔をして、さらりさらりと流れるように所作を行っていく。その隣では桜さんが正座のときには膝と膝をつけるように、立つときもつま先を付けてくださいね、とアドバイスを受けていた。わたしは左隣の由貴さんと顔を見合わせ、結構難しいね、と苦笑し合ったのだった。
お母さんと紫優ちゃんが戻ってきたのは夜の十時を過ぎてからだった。いつまで経っても連絡もないし、まさかこのまま帰ってこないんじゃないかと心配になりながら、わたしはお母さんが作りかけていた肉じゃがを作り、豆腐とわかめのみそ汁と、簡単なサラダ、鶏肉としめじの炊き込み御飯を作った。そしていつふたりが帰ってきてもいいように、お風呂の用意をした。
それだけの事をしてしまうともう、時間を持て余してしまった。テレビをつける気にもなれず、ひとりで先にお風呂に入り、居間のテーブルに突っ伏して、じっとお母さんの様子を思い出していた。
本当は思い出すと悲しくなってしまうのだけれど、思い返さないわけには、考えないわけにはいかなかった。
北海道で昔、なにがあったんだろう。
その思いだけがぐるぐると頭の中を巡っていた。
そこは、お母さんの産まれた場所。その街でどんな嫌な事があったんだろう。
紫優ちゃんはきっとその事を知っている。きっと……わたしだけが知らないなにかがその場所であったのだ。
改めて考えてみると、わたしのお母さんは少し不思議な人だった。
身長146センチ。買い物に行く意外ではほとんど家から出ないから、わたしはずっとお母さんは出不精なんだと思い込んでいた。年齢は三十四歳。つまり……わたしを産んだのが十九の頃になる計算で、そんなに早くに子どもを身籠るというのは、あるいはなにか理由があっての事だったのかもしれない、と今更ながらに思うのだった。
わたしは自分のお父さんを知らない。
お父さんの話を一度も聞いた事がない。小さな頃は、わたしは紫優ちゃんとお母さんの子どもなんだと思い込んでいた。でも、それは間違いだったと小学生の頃に思い知らされた。紫優ちゃんからわたしたちは三人でひとつの家族なんだよ、ってそんな説明をしてもらっても、わたしの父への疑念が晴れたわけじゃない。
突っ伏していたテーブルからのっそりと体を起こすと、わたしは押し入れにしまってある古いアルバムを取り出して、そっと開いてみた。
わたしの産まれたときの写真にはしわくちゃのわたしとちょっと泣きそうなお母さんの笑顔が写っていた。
この写真を撮ったのは、誰なんだろう。あるいはそれがわたしのお父さんだったりするのだろうか。
でも、次の写真には……紫優ちゃんに抱かれるわたしの姿が写っていた。赤ちゃんのわたしと、まだ若いお母さんと紫優ちゃんと三人の写真もあった。お父さんの写真は一枚もない。そして。○○市立病院にて。そんなキャプションのつけられた写真は、わたしの産まれた場所がこの町だったのだと端的に示していた。産まれたばかりのわたしと一緒に写っているというのなら。それは紫優ちゃんがお母さんに出逢ったのが……お母さんの妊娠中、という事になるのだろうか。それともそれより前からの知り合いだったのだろうか。
もしもそうなら……自分の好きな人が誰かの子どもを身籠ってしまったという現実を、紫優ちゃんはどんな風に受け止めたんだろう。
……わたしのお父さんは今でもどこかに……たとえば北海道に、いるのだろうか。
わたしの家族じゃないもう一人の家族。血のつながった他人。そんな存在の人間がいるという事実に、わたしの心は少しだけ寒々としてくるのだった。
「ただいま」
紫優ちゃんがお母さんを連れて帰ってきた。
お母さんの目がまるで兎みたいに真っ赤で。泣いて帰ってきたのが一目瞭然で、わたしはおかえりなさいの言葉さえ口にできなかった。
「一花、ごめんね。遅くなっちゃって。……アルバム見てたんだ?」
紫優ちゃんがわたしに向かって声をかけてくれた。紫優ちゃんの目は、まるで夜の湖の底みたいに冷たく澄んでいた。魚もなにもいない、静かな湖の目だった。
「うん。あの……」
「ごめんね」
そのとき。不意にお母さんがわたしをぎゅっと強く抱きしめて、震える、小さな声で言った。
「嫌な思いをさせてごめん。一花はなんにも悪くないのに。……ごめんなさい。お母さんを許して」
「ううん。謝らないで。わたしの方こそごめんなさい。変な事訊いて、嫌な事を思い出させてごめんね。お母さん……お母さんっ」
気付いたら、ぽろぽろと涙が溢れてきて止まらなくなった。お母さんからは夜の草花の匂いがした。夜の湖の岸辺に咲くラベンダーの匂いだった。優しい甘い匂いだった。それは紫優ちゃんの匂いそのものでもあった。
わたしはその匂いに胸がいっぱいになりながら、声を詰まらせて泣き続ける。
「ご飯作っててくれたんだね。一花は偉いね。ほら、かすみ。もう遅いから、先にお風呂に入っておいで」
「ええ。……紫優は?」
「わたしは最後でいいよ。どうせ明日夜勤だし。ゆっくりお湯もらうから」
「ありがとう。一花はもう入った?」
「うん」
わたしは鼻を啜りながら頷いた。
「じゃあ、お風呂入ってくるね。一花」
「……なに?」
「お母さん、一花を愛しているからね」
いつも紫優ちゃんにするように。わたしの唇にそっと口づけをして。するりと立ち上がったお母さんはわたしに向かって小さく微笑んでくれた。
わたしも涙と鼻でぐしゃぐしゃの顔のまま笑ってみせた。ぱたぱたと足音が遠くなって、やがてシャワーを使う音が聞こえてきた。
「懐かしい写真ね」
紫優ちゃんがわたしの隣に座って、ぽつりと呟いた。
「産まれたての一花って、ものすごくちっちゃくて可愛くてね。もう、この世界にこの子ほど大切なものはないって、ふたりしてそう思ったの。だから、わたしたちで大切に育てよう、目一杯愛してあげようって、ふたりで誓ったの」
紫優ちゃんの指先がそっと、写真の中のわたしを撫でる。
「……だから、過去の事には目を向けないでいてあげて。未来の事だけを、ただそれだけを見ていて。……お願い」
わたしはこっくりと頷いた。
「ひとつだけ、訊いてもいい? お母さんには絶対に訊いたりしないから」
「……いいよ」
「わたしのお父さんは、どうしてるの? どこかに……北海道にいるの?」
「死んだわ」
そう答えた紫優ちゃんの声はとても冷たかった。
「死んだのよ」
紫優ちゃんの表情から。そして子どもの頃に聞いた話と食い違っていたから。それが咄嗟についた嘘だと気付いたけれど。
「その質問はもう二度としないでね。……お願いだから」
その声があまりにも痛々しくて。辛そうで。
……わたしはそれ以上、なにも訊けなかった。
お母さんがお風呂からあがって夕ご飯を食べ終え、三人で洗い物を済ませると、おやすみなさいと言いながらお母さんだけが早々に寝室に行ってしまった。
お母さんは大体において夜が早い。いつもならとっくにベッドに入っている時間で、早いときにはもう寝ちゃっている時間なのだ。だから家の中で夜遅くまでだらだらと過ごすのは、わたしか紫優ちゃんと相場が決まっているのだった。
「さて、わたしもお風呂入っちゃおうかな。一花はもう寝たら? 明日学校じゃないの?」
「明日第二土曜日だよ。うちの学校が土曜日隔週休みなのはずっと昔から変わってないんでしょ? 卒業生なのにそんな事も忘れちゃったの?」
ちらり、と厭味ったらしく紫優ちゃんを睨むと、
「なんだ、かすみが喋ったの?」
と呟いて、紫優ちゃんは苦笑した。
「ううん。果穂さんから聞いたの」
「……は? 果穂? なんで果穂の名前が出てくるの?」
紫優ちゃんは怪訝そうな顔でそう訊ねた。
「果穂さん、今度うちの弓道部のコーチになったんだよ? 今日早速練習見に来てくれたの。紫優ちゃんによろしくって言ってたような、言ってなかったような」
「な、なによそれっ? 聞いてない、わたしそんな話聞いてないんだけどっ。え? うそでしょ? 冗談だよね?」
わたしは傍らに置いてあったスマホのカメラ機能をオンにして、紫優ちゃんの顔をカシャリと写した。そしてそのままメール送信。
「ちょ、なにしてんの? 一花?」
「……果穂さんにメール送ったの。部活の帰り際にね、紫優ちゃんの驚いた顔の写メ送ってって果穂さんにお願いされちゃって。いやー、やっぱり部活のコーチのお願いじゃ断りきれないよね?」
紫優ちゃんはしばらくのあいだ何も言えず、口をあわあわと動かしていた。
「し、信じらんないっ。あいつどこまで性格悪いのよっ。あーもう、最悪っ。最悪だわっ」
そして、吠えた。
「信じらんないのはわたしも一緒。他の部員の前で一花ちゃん、なんて呼ぶからあとで釈明すんの大変だったんだから。あの人ちょっと変だよね」
「消してっ。今すぐ写メ消してよっ」
「もう送っちゃったってば。……静かにしないとお母さん起きちゃうよ?」
紫優ちゃんは無言で冷蔵庫から缶ビールを取り出してくると、立ったままぐびぐびと飲み干してしまった。
「お風呂あがってから飲めばいいのに」
「うっさい。一花の馬鹿っ」
「……なんでも秘密にしてるとしっぺ返しが来るよって、そういう教訓なんじゃないかな」
わたしは真剣な目をして紫優ちゃんを見つめた。
「秘密があるのなら、絶対に漏らしたりしないで。お墓まで持っていって。その覚悟もないのなら、嘘なんかつかないで。わたしたち……家族なんでしょ?」
「……解ったわ」
紫優ちゃんも再びわたしの横に座りながら、真剣な目をして頷いた。
「紫優ちゃんたちがそうしてくれるのなら、わたしはもう過去の事なんて訊いたりしない。詮索してお母さんや紫優ちゃんを悲しませたりしないから。じゃあ……約束」
わたしは右手の小指を差し出して、紫優ちゃんの小指と絡めた。
「指切りげんまんうそついたら針千本飲ーます。……女と女の約束だからね?」
「女と女の約束、ね。果穂の口癖だったんだよね、それ。ところでさ、果穂って生徒にどんな練習させているの?」
わたしは果穂さんが二年生、三年生もランニングに参加させた事、着付けや体配をとても大切にしていた事、そのあとで一年生の体配を見てくれて、射法八節を教えてくれた事、先輩たちの射癖の修正に熱心だった事……をひとつずつ紫優ちゃんに話して聞かせた。徒手練習のときにわたしが泣いてしまったのは、……恥ずかしいから黙っていた。
「たぶん、だけどね。果穂さんは仲間を身近に感じて意識する大切さや距離感、そして実際に矢を的に中てるだけが弓を引く目的じゃないんだよって事をわたしたちに体で教えたかったんじゃないかなって、今思い返すとそう感じるの。だからこれからは二年生も三年生も一緒にランニングするし、道着がきちんと着られているか、弽は緩んでないか、部員同士でチェックするようにもなったわ。あとね、体配なんだけど、揖、立位から正座、跪坐、立ち上がりを部員全員、毎日やれって。あれ結構きついよね」
「そうだねぇ。下手な筋トレよりきついかもしれないね」
一息で飲んでしまったビールで少し酔いが回ったのか、ほんのりと赤い顔で紫優ちゃんは頷いた。
「うん。今日だけで足がぱんぱんになっちゃったわ。でね、初めて射法八節を自分でやって、果穂さんに見てもらったの」
「どうだった?」
期待のこもった紫優ちゃんの目をわたしはじっと見つめた。あの夜、確かに共有していたなにかが、まだそこにあるのをわたしは紫優ちゃんの瞳の中に映るわたし自身の姿として……しっかりと見つける事ができた。
だから。
わたしのあのときの涙は。絶対に……間違ってなんかいない。
「……紫優ちゃんそっくりだって果穂さんに笑われちゃった。でも仕方ないよね? だって、わたしが憧れたのは……紫優ちゃんの姿なんだもの」
わたしがそう言うと、紫優ちゃんはくすぐったそうに笑って、わたしの髪をくしゃくしゃと撫でた。
「お風呂入ってくるね。明日学校なくてももう寝なさい。夜更かしは美容にだって悪いんだから」
「看護師で夜勤バリバリにこなす紫優ちゃんが言うと説得力あるなぁ。そう言えば最近小じわ増えたりしてるもんね?」
「一花っ」
「あはは、おやすみなさいっ」
わたしは紫優ちゃんにぶたれる前にそそくさと自分の部屋に戻った。
今日は色々あり過ぎて疲れた。部活の事も、家での事も。紫優ちゃんとお母さんがアパートを出ていってしまったときには、まさかまたこんなふうに笑ったりできるだなんて……思いもしなかった。
ふとんの中で冷たいシーツに包まれながら。わたしは眠りにつくまで、そんな事をつらつらと思っていた。
一年生が一通り体配の所作を行えるようになった頃、果穂さんはどんな感じ? と訊ねながらわたしたちの前に現れた。
今年の一年生はみんな筋がいいですよ。特に吉永さんは体配の流れがスムーズで綺麗です。
そう篠原先輩に褒められて、真琴さんはまんざらでもない表情を浮かべていたけれど、
いえ、たまたま中学の頃茶道部だったので、それで多少心得があるだけです。
と謙遜するのも忘れなかった。実に如才ない。全員の体配の所作を見て果穂さんは少しずつ修正を加えていった。
だいぶいいんじゃないかな? 篠原さんの言うようにみんな筋がいいわ。きちんとした歩き方は……今度にしようか。じゃ、次は射法八節の徒手練習をしてみましょう。もう射法の練習って始めているの?
いえ、今日からの予定だったので。
申し訳なさそうに篠原先輩が弁明すると、
ちょうどいいわ。変に癖がつく前に指導できればわたしも気持ちいいもの。
果穂さんが笑った。
じゃあ、わたしが代わるから。篠原さんは的前に立っていいわ。あとで二年生と三年生の指導に入るから。それまでは今までと同じように立射で引いていてちょうだい。たぶん、場所の取り決めとか順番とか……決まってるんだよね?
はい。三年生のレギュラー上位から大前って決まりになってます。もっとも……香坂先輩だけはその中でも特別ですけどね。
そう言うと篠原先輩は小さく苦笑した。
あ、すいません。余計なことを言ってしまって。それではこの子たちをよろしくお願いします。
そして、さらさらの髪をゆらしながら篠原先輩は弓射場の中に入っていった。はて。香坂先輩だけが特別……というのはどういう意味だろう。インターハイ個人入賞という成績を収めているから優遇されているのかしら?
さーて。じゃあ一花ちゃんからやってもらおうかな。
わたしがぼんやり考え事をしていると、にんまり笑いながら果穂さんが言った。この人、どこまで人が悪いんだろう。
先生からまだ習ってませんが。
わたしはむっとしながらそう言い返した。
けれど、
昨日も紫優の射をずっと見ていたでしょ?
と更に果穂さんに言い返されてしまう。
果穂さんはにやにや笑っている。
……まったくもうっ。さっきの事といい、きょとんとしている他のみんなにどんなふうに申し開きしたらいいのか解んないじゃんっ。果穂さんの馬鹿っ。
あの、先生と花村さんはどのようなご関係なんですか?
真琴さんが不思議そうに、そして興味深げに訊ねる。
そりゃやっぱり気になるよね、と思いながら、わたしがしどろもどろになって、それはね、ええとわたしの家族のその、とか呟いていると。
一花ちゃんのお母さんとお友達なの。と果穂さんが笑った。でも特別扱いするつもりはないからね。今日はね、わたしが教える前に一花ちゃんの射の形を見ときたかっただけなのよ。
って。説明になっているんだかいないんだかよく解んない事を果穂さんは述べたのだった。ただ、でも……紫優ちゃんをお母さんと呼ぶのは少し、違うと思うんだけど。
わたしは一瞬果穂さんを軽く睨んでからゆっくりと目を閉じて、大きく息を吐いた。しょうがない。こうなったらもう、やるしかない。
わたしは昨日の、道場での紫優ちゃんの姿をまぶたの裏に思い浮かべた。
そして腰の骨の位置に軽く手を握って親指を当て、執弓(とりゆみ)の姿勢を取った。
目を開けて左足から三歩前に足を滑らせるように進め、揖。的に向かって半歩足を踏み開き、一度右足を左足に揃える。そしてそのまま吐く息と共に左右の足の角度が六十度になるよう一息で足を広げる。矢束いっぱいになるように。そして重心が足の親指の付け根に来るように。
弓を持っていないから右手をそのまま前に回し出して胴造り。矢番えがないから左手を回し出して弓構え。胸の前に空気でできたなにかを抱いているように、肘を張って腕全体に丸みを持たせる。
ううん。
なにも手にしていないわけじゃない。わたしは空想の弓を握り、空想の矢を妻手の中に見る。
弓手の手のひらの虎口で弓を押せるように人差し指は軽く湾曲させて伸ばし、空想の握に指を這わせていく。天紋筋に外竹の角が当たるイメージで。親指を伸ばし、丸めた中指の爪に添わせる。弦には漆黒の矢が番えられているのを想像した。そしてその筈の部分を見つめる。空想の矢の先をゆっくりと追うと、弓射場の中で先輩たちが的前に立っているのが見えた。
物見。
そのとき、ちょうど振り返った香坂先輩が驚いた顔でわたしを見ていて。一瞬で視線が絡み合う。
わたしは香坂先輩の目を見つめながらゆっくりと息を吸い、見えない弓を打起こしていく。四十五度の角度になったところで大きく息を吐く。自然に肩が下がり、気持ちがしんと静まっていく。
そして大三。
ゆっくりと息を吸いながら矢が水平に動くのを意識して。弓を右手の掌心で押せるようにしっかり、手の内を崩さないように弓の形を整えていく。
会。
紫優ちゃんの美しい姿が目に浮かぶ。
詰合い。幾つもの十文字が体の必要な場所に重なるイメージ。
伸合い。それはきっと……紫優ちゃんなら切望するような祈りに違いないと思うから。
わたしは誰にも聞こえないように、小さな声で呟く。
〝主よ、憐れみたまえ(キリエ・エレイソン)〟
離れ。
そして……残心。
わたしの耳は自分自身を射抜く音を聞き、わたしの目は、空想の的がわたし自身であるのを見る。あるいは……それが紫優ちゃんの求めるなにかである事を。そう無理やりにでもイメージする。
でも、実際に見えているのは香坂先輩の戸惑いの表情を浮かべる、美しい猫のような瞳。わたしは……今、香坂先輩に向けて矢を射ってしまったのだ。
……自分の罪を知り、それでも神様がわたしを許してくださるように祈りながら。
神様の指し示す指先を見つめる事ができるように。
神様から差し出される手を、いつか掴む事ができるように。
矢はその為に差し出さなければならないわたしの罪深い心、そのものなのだから。
……紫優ちゃんならきっとそう言うんじゃないかな、とわたしは思っている。わたしもきっと……そうなんだ。でも。
……紫優ちゃんの罪。
それって……本当に紫優ちゃんが同性愛者だという……ただそれだけなのだろうか。もしかしたらそれ以外のなにかが……わたしの知らないなにかがあるのではないだろうか。わたしはそんな取り留めのない気持ちを抱えながら、静かに香坂先輩から視線を外す。
弓倒ししたあと静かに物見を返して、呼吸とともに足を閉じる。
すると確かにそこにあったはずの想いが、
わたし自身の願いが、
紫優ちゃんの祈りが、
神様の指し示すなにかが解らなくなる。
一瞬理解できたと思えた紫優ちゃんの心が見えなくなって、慌てて弓射場を見ても、もう……香坂先輩の姿も見えなくて。それが悲しくて、切なくて。……なんでこんなに胸が苦しいんだろう。
気付いたら涙がわたしの頬を伝っていた。
一花ちゃんの射は紫優そっくりね。
見ると果穂さんが寂しそうに苦笑していた。
大丈夫よ。泣かなくていいの。もう、……馬鹿ね。
自分でもなんで涙が流れているのかよく解らないのに。泣くなって、そんな事言われたって……困るんだけど。
果穂さんがわたしをぎゅっと抱きしめてくれた。そしてしばらくのあいだ、その胸の中で、……わたしは泣いた。
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