その日は朝からお母さんの機嫌が良かった。紫優ちゃんは日勤で、今日は病棟管理会議があるから遅くなるって言っていた。いつもなら紫優ちゃんが遅くなるときにはちょっと不機嫌そうなのに、はて、どうしたんだろう。

 わたしの夏休みも残りわずか。部活も今日はお休みだったから、お母さんが鼻歌なんかを歌っているのを尻目に、居間で最後の夏休みの宿題に手をつけ始めていた。

「ねえ、一花」

 お母さんが歌うように言った。

「なに?」

「一花は今ひま?」

「……宿題やってるでしょうに」

「変な子。なら自分の部屋でやればいいじゃない」

「だって、居間でやれば冷房使うの一部屋で足りるでしょ? 無駄な事はしないの。それよりもさ、お母さん、なんでそんなに機嫌いいの? ちょっと気持ち悪いんだけど」

「ひどい言われようね」

 お母さんは少しだけむすっとして、でも、苦笑しながら、わたしが勉強に使用している居間のテーブルを、そっと撫でたりしている。

「あのね、いい事があったの」

「いい事? なによ?」

「ひみつ」

 お母さんはくすくす笑っている。

「ねえ、それよりも一緒に出かけない? たまにはふたりでショッピングしましょうよ」

 ショッピング。

 ……ショッピングねぇ。

 わたしは小さくため息をついて、お母さんと出かける用意を始めた。あるいはお母さんの機嫌がいい理由も解るかもしれないと思って。

 そんなふうにして……わたしたちは出かけたのだった。

 それは八月最後の暑い日で。蝉時雨が町を覆い尽くしていた。空はどこまでも青くて、青過ぎて。真上を仰ぎ見るとまるで紫色のようだと錯覚してしまうほどだった。

 うちの中でプーさんを運転できるのは紫優ちゃんだけで、そのプーさんも今は病院の駐車場だろう。わたしたちは突き刺さるような日差しの中、バス停まで日傘をさして歩いて行った。

「あっ」

 バス停でバスを待っているとき。

 わたしは小さな異変に気付いて、悲鳴を上げた。

「どうかした?」

 お母さんが怪訝そうにわたしの顔を覗き込む。

「あ、その……始まっちゃって。ちょっと家に帰って処理してきていい?」

「なによ。予備の持ってないの?」

「……お母さんは?」

「わたしのはいつものタンポンだけど、それでもいい?」

 そう言われてみればそうだった。ぐっと言葉に詰まってしまったわたしを見て、お母さんは苦笑を漏らした。

「慣れればナプキンよりも楽なのにね。まあいいわ。一旦帰りましょ。というかすぐそこのコンビニで買って、おトイレ借りちゃえばいいのに」

「い、嫌よ」

「なんで?」

「……恥ずかしいじゃん」

 わたしは顔を赤らめ、ちょっとむっとしながら言った。

 買ったばかりのそんなのを抱えてコンビニのトイレなんて借りたら……バレバレじゃないの。もうっ。

 お母さんはしょうがないわね、と。くすくす笑っている。

 わたしたちは元来た道を戻りながら、どうでもいいような話をした。そう、本当にどうでもいいような話を。部活の事とか、夏の特別ドラマの俳優さんの事とか、……あとなにを話したっけ。あれ……忘れちゃった。

 そこは見通しの悪い三叉路だった。あとちょっとでアパートが見えるところまで来て、早く処理しちゃいたいわたしは少しだけ足早になっていたのかもしれない。

「駄目っ!」

 不意に。

 ぎゅっと腕を掴まれて。

 思いっきり後ろに引っ張られた。

 わたしは転んでしまって、なにがどうなったのか解らない。

 風が吹いた気がした。

 わたしの目の前を真っ黒いなにかが猛スピードで駆け抜ける。

 そして、

 次の瞬間、

 激しいブレーキ音と、

 ぐしゃっという、

 とても大きな嫌な音がした。

 お母さんの姿がどこにもなくて。

 でも、

 潰れたトラックと崩れた民家の塀の隙間から。

 血だらけの腕がだらりと伸びていた。

 ぐちゃぐちゃになった日傘がアスファルトの上で真っ赤に染まっていた。

 わたしは、

 わたしは……。


 病院で紫優ちゃんに肩をゆすられて、わたしはのろのろと顔をあげた。

 紫優ちゃんは真っ青な顔をしていた。

「……紫優ちゃん?」

「一花。大丈夫? 怪我してない?」

「怪我?」

 わたしは不思議に思って訊ねた。

「怪我ってなに?」

「……覚えていないの?」

 紫優ちゃんの唇が震えている。その頬をつうっと涙がこぼれ落ちていったのを見て、わたしは、

 わたしはあの光景を思い出してしまった。

 あの、

 あの……血だらけの、お母さんの腕っ。

「っ! お、お母さんがっ、ねえ、紫優ちゃん。お母さんはどこっ、ねえ、ねえっ。無事だよね、お母さん、元気だよね?」

 紫優ちゃんは唇を噛み締めたまま、なにも答えない。

「……紫優ちゃん?」

 わたしの声も震えていて。

「う、嘘だよね。そんなの、ねえ、嘘だって、嘘だって言って。ねえ、紫優ちゃんっ」

「かすみはもう……駄目だったの」

 嗚咽をこらえながら。じっとわたしの目を見つめながら。紫優ちゃんは言った。

 さーっと血の気が引いていく。

 駄目ってなに?

 なんで?

 どうして?

「もう、かすみは……」

「うそだっ」

 わたしは叫んだ。

「そんなの……そんなの嘘だよ。だって、一緒に出かけるときね、お母さんとっても嬉しそうだったんだよ? いい事があったって、う……嬉しそうにしてたよ? ねえ、なんで? なんで……」


「死んじゃったの?」


 言っちゃいけない言葉を、わたしは自分で言ってしまった。

 そうしたらもう、駄目だった。

 目から涙が止めどなく溢れて。

 震える体がどうしようもなくて。

 紫優ちゃんが、

 わたしの体をぎゅっと、強く、思いっきり強く、抱きしめる。

 痛いくらいの、息もできないくらいの抱擁が……まるで紫優ちゃんの悲しみそのものみたいに思えた。

「ごめんなさい」

 わたしは泣きながら言った。

「ごめんなさい。わたしを、お母さんはわたしを助けてくれたの。わたしの腕を引っ張って。お母さんが助けてくれなかったらわたしが……わたし……。ごめんね、ごめんね、紫優ちゃん。……わたしが家に戻ろうなんて言わなければ、そうしたら……お母さんは死ななくてすんだのに。わたしが、わたしがお母さんを、お母さんを……殺しちゃった。わたしがっ」

「違うっ」

 紫優ちゃんが叫んだ。

「違うわっ。一花は悪くない。悪くないのっ。警察から事情は聞いている。でも、わたしがもしかすみでも、きっと同じ事をした。同じ事をしたわっ。わたしたちは母親だもの。あなたの母親だものっ。自分の子どもを助けたいに決まってるじゃないっ。だから、だから……一花のせいじゃないよ。そんな事言わないで。お願い。……かすみは……わたしは、一花が無事でよかった……って、思っているもの」

 お母さん。

 ……お母さんっ。

 ねえ、いい事ってなんだったの?

 なんであんなに嬉しそうだったの?

 どうして、

 どうして秘密だったの?

 教えて。

 教えてよ。

 もう一度笑って、わたしに言って。

 それはね、って。

 そうしたらさ、わたし、

 なんだそんな事だったのって、笑ってあげるから。

 だから。

 お願い。

 お願いだから……。

 ……もう一回、逢いにきて。

 そして紫優ちゃんに笑ってあげて。

 あんなに悲しそうにしてるんだよ?

 ねえ、いいの?

 ……紫優ちゃんが泣き虫なの、お母さんだって知ってるでしょ?

 

 お母さんのお葬式は仏式でもキリスト教式でもなくて、一般には花葬と呼ばれるスタイルのものだった。紫色の花が祭壇一面に飾られた。その中でも特に目立つのが……お母さんの好きなラベンダーの花。凛とした甘い匂いの紫の花。ラベンダーはお母さんが一番好きな花だった。だからいつも紫優ちゃんは……この花の匂いをさせていたのかな。

 ラベンダーは少し季節外れだったけれど、葬儀会社の人が一生懸命集めてくれた。写真の中のお母さんはちょっとだけ若くて、あの日みたいににっこり笑っていて。

 ああ、死んじゃったんだな、って。

 思った。

 通夜には真琴さんと桜さん、由貴さんが来てくれた。そして洪大先生と果穂さん、修一さん。あとは紫優ちゃんの病院の師長さん。わたしの担任の須藤すどう|先生。そして、ゆかりとその両親。それで全部。

 ゆかりが来ているのを知った桜さんと真琴さんは少し驚いた顔をしていたけれど、なにも言わなかった。ゆかりも三人の事はちらっと見ただけで……気にもしていない様子だった。

 ゆかりは紫優ちゃんに挨拶をしたあと、

「わたしに……できる事はあるかしら」

 と言って。そっとわたしの手を握ってくれた。

「ありがとう。でも、……まだ気持ちの整理がつかないの。ごめんね」

「ううん。仕方ないわ。ねえ、一花。明日も……あなたの傍にいていい? 迷惑?」

「……いいの?」

「もちろんよ」

 ぎゅっと抱きしめられると、条件反射みたいに涙がこぼれた。

 ゆかりのセーラー服を濡らしてしまうのが申し訳なくて、でもどうしようもなくて。

 わたしは……声を殺して泣いた。

 次の日の葬儀当日も、残暑の厳しい蒸し暑い日だった。今日来てくれたのは洪大先生と果穂さん、あとはゆかり。

 わたしは火葬場でお母さんがお骨になるのを待ちながら、ぼんやりとロビーのソファーに座っていた。すみの方の喫煙所で洪大先生が煙草を吸っているのが見えた。果穂さんが携帯電話で誰かと話していた。わたしの隣にはゆかりがずっと付き添っていてくれて、わたしの手をしっかりと握りしめてくれていた。

 ふと、そのときだった。

 その日の火葬場はお母さんしか使用していないはずなのに。見知らぬ喪服姿の老人が、肩を怒らせて入り口から入ってきた。

 あの人は誰だろう。

 そう思って見ていると、慌てた様子で紫優ちゃんがその老人に駆け寄った。

「……ご無沙汰しております。覚えてらっしゃいますか。あのとき、あの病院の看護師だった月庭紫優と申します。今までずっと……ご連絡できなかった事、どうか許してください」

 と言って頭を下げた。

「一花、こっちへ」

 わたしも名前を呼ばれて紫優ちゃんの傍に行った。

「この子が……かすみの娘です。一花と言います。今日はあの、奥様は……」

 わたしはぺこっと頭を下げ、その老人を見つめた。厳めしい顔を真っ赤にして、ものすごく……なんでだろう、怒っているように見えた。手をブルブルと震わせている。でも……眉の形がお母さんに似ている。

 そんな事を思っていた、そのとき。

 急にその老人は拳を振り上げて。

 紫優ちゃんを殴った。

「なっ、なにするんですかっ!」

 その光景を見ていたゆかりが叫んで、その声に驚いた洪大先生と果穂さんが慌てて走ってきてくれた。

「ちょ、紫優っ、大丈夫?」

 果穂さんが紫優ちゃんの体を支える。

「おい、火葬場で穏やかじゃねぇな」

 洪大先生が老人をぎろりと睨む。

「いいんです。わたしが悪いんです。……本当に、申し訳ありませんでした」

 洪大先生を押しとどめた紫優ちゃんは、その場で土下座をした。

 わたしはなにがどうなっているのか解らなくて、その場に立ち尽くしていた。

「家内は死んだっ」

 老人が叫んだ。紫優ちゃんは額を床からあげた。その目には驚愕の色が浮かんでいた。

「家内は、あいつは、ずっとかすみの身を案じていた。最後にもう一度娘に会いたいと、そう言いながら死んだ。お前が俺たちの、かすみの人生をめちゃくちゃにしたんだ。あの事件だって、かすみにあのまま堕胎させていたら……忘れられたかもしれんじゃないか。幸せになれたかもしれんじゃないかっ。どうして、どうしてかすみを連れて行った。お前に、……そんな権利があったのかっ!」

 ぼろぼろと涙を流しながら、紫優ちゃんを責め続ける老人を、わたしは茫然とした思いで見ていた。

 俺の……娘?

 事件?

 ……堕胎?

 この人は、

 この人はもしかして……。

「たった一通だけ来たかすみからの手紙には、『心配しないで、幸せに暮らしているから』って書かれていた。けれども住所はどこにも書かれていなかった。消印もこの町じゃなかった。それが、やっとかすみの居場所が解ったと思ったら……死んだ、だと? ふざけるなっ。それに俺はこんな孫なんて持った覚えはないぞっ。お前なんか……お前なんか生まれてこなければよかったんだっ」

 わたしは雷に打たれたように。

 その激しすぎる言葉を聞いた。

「娘の骨はどこだっ。俺が連れて帰る。もう、お前らの好きにさせんからなっ」

「待って、お願い、待ってくださいっ。かすみはこの子の母親なんです。そんな事しないで。お願いですから。子どもを……娘と離ればなれにさせないでくださいっ」

 紫優ちゃんが老人にすがりつく。

 はなせっ、と言いながらもう一度殴ろうとするその腕を、今度は洪大先生が止めた。

「いい加減にしろ、爺ぃ。紫優は俺の娘だ。そして一花は俺の孫だ。それ以上は俺が許さねえよ」

 わたしは、まるで悪い夢を見ているようで。

 もう、なにがなんだか解らなくて。

 気付いたら駆け出していた。

「一花っ」

 そう、わたしを呼んだのは誰だったんだろう。

 わたしは火葬場を出ると、近くを流れる小川まで走っていった。そこになにかがあると思ったわけじゃない。なにかがしたかったわけでもない。気付いたらスカートの裾まで水に浸かりながら、わたしは茫然と川縁に立ち尽くしていた。

「一花っ。なにしてるのっ?」

 のろのろと振り返ると、そこにはわたしの大切なふたりが、心配そうにわたしを見つめながら……駆け寄ってくるのが見えた。

「ゆかり……紫優ちゃん」

「馬鹿っ、帰りましょう。ほらっ」

 ばしゃばしゃと川の中に入ってきたゆかりが乱暴にわたしの手を握る。

 わたしはそれを振り払って、

 紫優ちゃんを睨んだ。

「教えて」

 わたしの声はとても冷たい。まるで、この川の水のように。

「あれは、なんなの。教えて」

「……一花」

 紫優ちゃんがゆっくりと川の中に入ってくる。

「教えてっ。あの人はわたしの誰なの? 事件ってなに? 堕胎ってどういう事? わたしは誰なの? ……わたしは」

 胸が詰まった。そんな言葉、言いたくなかった。紫優ちゃんに聞かせたくなかった。


「生まれてきちゃいけなかったの?」


 紫優ちゃんが足を止めて、辛そうな表情で俯いた。

 ゆかりが青ざめた顔で事の成り行きを見守っていた。

「全部、話すね」

 俯いたまま、硬い表情で。紫優ちゃんはそれだけを言うと、ぎゅっと目を閉じたのだった。

「ある日の夜、道に倒れていたかすみが運ばれてきたの。……わたしが北海道で看護師をしていた頃よ」

 そして長い沈黙のあと、紫優ちゃんは血を吐くようにそう言った。

「目を覆いたくなるくらい、ひどい状態だった。わたしはかすみをそんな目に遭わせた奴らが許せくて、処置をする手が震えて……目の前が真っ赤になった」

「……お母さんになにがあったの?」

 わたしは震える声で訊いた。

 紫優ちゃんはまた少し沈黙した。

「かすみはね……その日、デートの帰りだったらしいの。暗い夜道を一人で帰っているときだったって。急に、……見知らぬ車に無理やり押し込まれて、複数の人に何度も乱暴されたそうよ。抵抗できなくなるまで殴られて……どのくらいの時間、そうやって暴行を受けていたんだろう。運ばれてきたときのかすみは」

 紫優ちゃんが口を閉ざし、きつく目をつむった。ぎりぎりと歯を食いしばる音が聞こえてきそうだった。

「……本当に生きているのが不思議なくらいだった。そいつら、動かなくなったかすみを……道端にゴミみたいに捨てたのよっ!」

 ゆかりが小さな悲鳴を押し殺すように、両手で口を覆った。

「そのときにかすみのお腹の中に、一花が……誰の子かわからなくて、付き合っていた男性も、逃げちゃった、って」

「……ひどい」

 ぐっと拳を握りしめながら、わたしは叫んだ。

「ひどいよっ。どうしてっ。そんな事があったのにどうしてお母さんにわたしを産ませたりしたのっ? あの人の言ったように紫優ちゃんがお母さんになにかしたのっ? ねえ! ねえってばっ!」

 紫優ちゃんの喪服にすがりつきながら。

 なんでこんなに心の中が空っぽなんだろうって。不思議でしょうがなかった。わたしは誰なの? わたしは……どうして生まれてきちゃったの? ……そんな悲しい質問が、空っぽの心の中にぐるぐると渦巻いていた。

「違う」

 紫優ちゃんは小さな声で言った。

「産みたいって言ったのは、かすみだったわ」

「……え」

「かすみは入院中、誰とも言葉を交わさなかった。ドクターともナースとも、両親にさえ一言も喋らなかった。だからわたしたちは精神的な失語症だと思っていたの。そしてね、いつもかすみはじっと、ただ窓の外を見ていた。あるいは恋人が来るのを待っていたのかもしれない。でも、そいつは一度もこなかった。そのときは不実だと思ったけど、その人もどう受け止めていいか解んなかったのかもしれないね。わたしだってなにもできなかった。痛々しくて、話しかけることすらできなかった。毎日……時間だけが過ぎていった」

 紫優ちゃんがわたしを抱きしめて。そっと背中を撫でてくれる。

「その日、わたしは夜勤だった。かすみの痣が消えて、体の傷が癒えても……彼女の言葉は戻ってこなかった。そして……それはちょうど午前三時の見回りのときだった。まっ暗な病室の中でかすみがね、いつものように窓の外を眺めていたの。わたしはまだ新人だったから、なんて言葉をかけていいのか解らなかった」

 紫優ちゃんの独白が続く。墓場まで持っていくと約束した、お母さんの秘密。それを今紫優ちゃんがわたしに喋っている。

 冷たい川の流れがわたしの足の感覚を奪っていく。

 まるで……わたし自身を足元から消してしまうように。

「窓の外には漆黒の闇が広がっていた。星も街灯もなんにもない、本当の闇だった。そしてね、……そんな夜を見つめながら、『ねえ、正直に答えて』……って、かすみが言ったの。それは初めて聞く彼女の声だった。『わたしのお腹の中に……赤ちゃんがいるんでしょ?』、そう言ったかすみの声は震えていた。きっと恐かったんだと思う。わたしは一瞬言葉に詰まった。彼女が妊娠しているのは検査で既に解っていたの。言い訳するようになってしまうけれど、かすみが発見されるまで時間が経ち過ぎていたし……体の怪我を癒すのが先だったから。でもね、その件についてはご家族からもうこれ以上かすみを苦しめないでくれって、そう懇願されていたの。堕胎の為のオペの日取りも決まっていたから。だからなにも言えなかった。かすみがなにも知らないうちに、全部処理してしまう予定だったのよ。だから……だからわたしはね、精神的なショックで生理が遅れているだけですよって。咄嗟に嘘をついた」

「……紫優ちゃん」

 わたしの背中を撫でる手が、震えていた。

「わたしは、わたしたちはあなたを、一花を殺そうとしていたの。でも、かすみには解っていたのね。『嘘つき』、そう言ってかすみはわたしを睨んだわ。そしてね、言ったの。『自分の体の事だもの。解らないわけないじゃない』って。わたし……なにも言えなかった」

 わたしの髪に、ぽつり、ぽつりと水滴が落ちる。

 紫優ちゃんは泣いていた。

 それでもわたしの背中を、紫優ちゃんは撫で続けていた。

「かすみは言った。『あの……悪夢みたいな出来事は忘れたい。忘れてしまいたい。でも、このお腹の子の半分はわたしなんだもの。誰かの子じゃない、わたしの子なんだもの。わたしにはこの子を殺せない。殺す事なんてできない。わたしの両親はきっとこの子を殺してしまうと思う。許さないと思う。だから』……なにかに急き立てられるように喋り続ける彼女を遮って、わたしは訊いた。本気なの、って。だってまだ十九なんだもの。忘れてしまえば、忘れてしまえるなら、その方がいいに決まってるって……わたしだって思ったよ。でもね、かすみの目はどこまでも澄み切っていた。それは覚悟を決めた人間の目だった。そしてね、かすみは言ったの。『本気よ。わたしはひとりでも産むわ。だって、この子に罪はないもの。わたしは……もう、母親なんだもの』って。それがなんでわたしにだったのか、よく解らない。でもね、真夜中の病室で……かすみはわたしに、はっきりとそう言ったの」

 紫優ちゃんが震えるように、小さく息をついた。

「……あのときのかすみの顔を、一花に見せてあげたい。この世界に本当に聖なるものがあるのなら、あの夜のかすみは……間違いなくそれだった。それはまるで聖母のように、奇跡みたいに美しかった。……だからわたし、『ならわたしと一緒に逃げよう』って、そう言ったの。言ってしまったの。かすみはね、優しく笑ってくれたよ。今まで生きてきて、あんなに美しい笑顔を……わたしは見た事がなかった。わたしはその笑顔に一瞬で恋してしまった。してはいけない恋を……してしまったの」

 紫優ちゃんが声を殺して泣いていた。わたしも紫優ちゃんに抱きしめられ、背中を撫でられながら。ぽろぽろと涙をこぼしていた。

「わたし……わたしは生まれてきてよかったの? 必要とされていたの? 紫優ちゃん……紫優ちゃん。わたしを見ていてお母さんは悲しくなったりしなかった? 事件の事や付き合ってた人の事……思い出したりしなかった?」

 紫優ちゃんはなにも答えなかった。

 きっと、悪夢にうなされた夜だって、自分の選択に苦しんだ日だってあったはずだ。子育てだってそんなに生易しいものじゃなかったはずだ。全部忘れ去りたくて……わたしの首に手をかけた事だってあったかもしれない。でも、それでも。

「わたし……お母さんに……お母さんに愛してもらえてたと思う。それを疑った事なんて一度もないもの。でも……わたしは……それだけの、生きる価値のある人間なのかなぁ」

 そのとき。わたしは背中に、ゆかりの体温を感じた。その体が震えているのが解って。鼻をすする音が聞こえて。わたしの為に泣いてくれているのが嬉しくて、切なくて……。お母さんがわたしを産んでくれたから、だから大好きなゆかりと出逢えたんだと思って。思い知らされて。

 お母さんに、

 本当にありがとう……って。

 心からそう思ったの。

「ごめん、こんな事になるなんて。本当にごめんね。でも、かすみの両親に……かすみの死を知らせないでいるなんて、わたしにはどうしてもできなかったの。わたしがあの病院から連れて逃げてしまわなければ、きっと……かすみには違う人生があったかもしれない。素敵な人と出逢って、結婚して……そういう普通の幸せがあったのかもしれない。わたしはそれをあの人たちから全部奪ってしまったんだもの。わたしね、後悔はしてないわ。絶対に後悔なんてしない。わたしはかすみの事も、一花の事も、十六年ずっと変わらずに愛したんだもの。でも、……わたしは罰を受けなきゃいけないの」

 わたしは顔をあげて、紫優ちゃんを見つめた。その涙に濡れ、苦痛に歪んだ顔を、わたしはじっと見つめた。

「罰ならもう、紫優ちゃんは充分受けたよ」

 わたしは紫優ちゃんの頬の涙をぬぐった。それでも涙は後から後から溢れてきた。

「もう、いいんだよ。もう……。お母さんはね、紫優ちゃんを愛していたんだもの。だからね、それだけでいいよね? それだけで……もう、お母さんは許してくれると思うの」

 紫優ちゃんは少しだけためらって、それでも小さく頷いてくれた。目にいっぱい涙を溜めて、けれどもその瞳は……世界中の優しさを全部集めたくらい、穏やかだった。

「ゆかり」

 わたしは小さな声で訊ねた。

「……なに?」

 震える声が背中から聞こえた。

「ごめんね、こんなの。重たいよね。重たすぎるよね。わたしを許して。わたし……わたしの事、嫌いにならないで。……お願い」

「当たり前じゃないっ」

 ゆかりがわたしの背中を思いっきり叩いた。

「馬鹿っ、一花の馬鹿っ。わたしが好きなのは一花だけ、一花だけなんだからっ」

 そこから先は声にならなくて。

 ゆかりは体を震わせて泣き続けていた。

 わたしも、紫優ちゃんも、涙が枯れてしまうんじゃないかってくらいに泣いた。

 それでも涙はどんどん溢れてきて。夏の終わりの太陽がいつまでもわたしたちを照らしていた。蝉時雨、小川のせせらぎの音、熱を帯びたゆるい風。冷たい水の感触。温かい……大切な人の体温。涙。それが世界のすべてで。その世界の中で、わたしたちはたった三人だった。

 震える体を抱き合いながら、

「……戻らなきゃ」

 わたしは小さな声で言った。

 まだ、やらなきゃいけない事があるから。

 火葬場に戻ると、ロビーは騒然としたままだった。わたしは見兼ねて、口論を続けている洪大先生とおじいさんのあいだに、体を割り込ませた。

「おじいさん」

 わたしは言った。スカートからは川の水がぽたぽたとしたたり落ちていた。ロビーのカーペットに黒い染みが広がっていく。

 わたしは顔を上げた。おじいさんの顔を見つめた。

「お母さんの骨をお母さんの故郷に持ち帰りたいのなら、持っていってくださって構いません」

 洪大先生が、果穂さんが、驚いてくぐもった声をあげた。ゆかりと紫優ちゃんはわたしを静かに見守ってくれている。

「お母さんはわたしの中で……今も、これからも、ずっと生きていますから。お母さんは、わたしと一緒に、ここで、この町で一緒に生きていくんです。わたしと紫優ちゃんと、大切な人たちと一緒に。だから、……どうかお母さんをちゃんと供養してあげてください。今まで一緒にいられなかった分、お母さんに優しくしてあげてください。いっぱい話しかけてあげてください。その為に、来てくださったんでしょ? ……今日は遠くから……本当にありがとうございました」

 わたしはおじいさんに頭を下げた。

 おじいさんは泣いていた。頬を涙が伝い、顔の皺に沿って流れ落ちていった。どれだけの苦悩が、あの皺に刻まれているのだろう。そう思うと、ただ、切なかった。

 おじいさんはうな垂れ、そして言った。

「……すまない。すまなかった。……どうか、許してくれ」

「……いいんです。もうすぐの納骨の時間になるから、お母さんに再会できますよ。……喧嘩してたらお母さんに笑われちゃいます。だから、……ね?」

 わたしは笑った。

 きっと、お母さんなら。

 こんなときはいつもみたいに。

 ……笑ってくれると思ったから。

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