6
その日は果穂さんが急用の為にお休みで、わたしたちは新しく主将になった篠原先輩を中心にして、部活を行っていた。期末テストも終わってもうすぐ夏休み。篠原主将はみんなの気が緩まないように、しっかりと注意を払っていた。
篠原主将が部内をまとめる仕事で忙しくなった為、一年生の指導には根本先輩が就いてくださる事が多くなった。
今も由貴さんに、
「仲本さんは胸が大きいから、ちょっと胴造りの重心を前にして弓を引いた方がいいわ。そうしないと弓が照ってしまうから」
と指導している。
そばかすの残る頬に黒ぶちの眼鏡をかけた根本先輩は、にっこり笑うと八重歯がキラって光る。背が小さい事も相まって、とっても可愛い。篠原主将同様、教えるのが上手な素敵な先輩なのだった。
わたしはそのとき、一旦素引きを終えて手首のストレッチをしていた。弓射場の外で一年生は素引き中だったので、的前に立つ香坂先輩の後ろ姿がよく見えた。
香坂先輩は紫優ちゃんと勝負したあの日から明らかに不調になってしまった。いつもと変わらないように振る舞うし、いつもと同じようにわたしを誘って一緒にストレッチをしてくれる。でも、射の形が違う。的中率も落ちた。果穂さんはそんな香坂先輩をただ見つめているだけだった。わたしは何度も声を掛けようとして、けれど……結局どう話しかけたらいいのか解らなくて。ずっと先輩と話せずにいた。
その日の先輩はいつも以上に不調そうだった。弓を構えた上半身が一瞬、ぐらりとゆれた。そう言えばストレッチのときに握った手もしっとりと汗をかいていたし、もしかしたら本当に……体の調子が悪いのかもしれない。そう思った。そう思って目が離せなかった。
でも、次の瞬間。わたしは気付いてしまった。
足踏みの形も、手の内の形も、香坂先輩の射じゃない。
あれは、
あれは紫優ちゃんの射だ。
先輩が弓を引き分ける。
ギリギリと音がする。
危なくて見ていられなくて、
わたしは、
わたしは、
「駄目っ!」
思わず叫んでいた。
次の瞬間、
バチン、と音がして。
先輩が右手を押さえてうずくまった。見ると前腕に血が滲んでいる。……腕を払ってしまったんだ。
「花村さんっ、会に入った人間に声をかけるなんてあり得ないわっ。危ないじゃないのっ」
根本先輩がわたしの道着の袖を握って、わたしを叱りつけた。
「あ、……ごめんなさい」
わたしはしゅんとしながらも、その手を振り払い、慌てて香坂先輩の元に駆け寄った。額に珠のような汗を浮かべて、先輩は苦痛に顔を歪めていた。他の部員も何事かと集まってくる。
「香坂先輩、すみません。すみませんでした」
「……いいの。わたしが悪いんだから。篠原、ちょっと保健室に行ってきていいかしら」
「はい。でも、お一人で大丈夫ですか? 誰かご一緒させましょうか?」
「なら、花村を借りていっていい?」
わたしもびっくりしたけれど、篠原主将も驚いていた。
「あ、……構いませんけど。でも花村さんは」
「いいの。おいで、花村」
「はい」
わたしは自分のハンカチを差し出して、そっと傷口に当てがった。
「ありがとう。じゃあ、あとは頼んでいいかしら」
「解りました。お気をつけて行ってきてください。さあ、みんなは戻って」
篠原主将が部員に練習再開を告げる。わたしは香坂先輩の弽を取るのを手伝って、一緒に道場を出た。
時々先輩の体がゆらりとゆれた。わたしはすぐ横で体を支えながら保健室に急いだ。わたしは動揺していた。だから、気付かなかった。先輩の体に傷を付けてしまった事が……許せなかったから。
だから。
もっと大切な事に気付く事ができなかったのだ。
保健室の中には誰もいなくて。消毒薬の棚も鍵が閉まっていた。
「先輩、わたし保健の先生を捜してきます。……先輩?」
見ると、ベッドの端に腰かけた先輩の顔は真っ青で、指先が小刻みに震えていた。顔にも首筋にも、珠のような冷や汗が浮かんでいる。
「や、どっ……どうかしましたか? 先輩、先輩っ?」
「……
「え?」
「お願い」
ハアハアと荒い息をつく先輩の胸元に、わたしは失礼します、と言いながら手を差し入れた。やわらかな胸の感触に顔を赤らめながら、今はそんな場合じゃないって、自分を叱りつける。道着とアンダーウエアの隙間に小さなポケットが縫われていて……うすべったいなにかが指に触れた。慌てて取り出すと、それは銀色のパッケージだった。
それは……ブドウ糖、と書かれていた。
「これですか?」
「……開けて」
わたしは急いで封を切ると、先輩に手渡そうとした。でも、先輩の手は自分でも言う事を聞かないくらい震えていて、とても持てるような状態じゃなかった。
「これ、飲めばいいんですよね? 先輩、お願い、口を開けて」
もう、香坂先輩は座っている事も困難で。わたしはこぼさないように銀色のパッケージを持ったまま、先輩をベッドに横たえた。
「お願いです。先輩。口を開けてくださいっ」
目をぎゅっとつむって歯を食いしばっている先輩は、口を開ける事さえ難しい状態になってしまっていた。だから。
わたしは意を決して。
パッケージの中身を一気に自分の口の中に入れると、先輩の顔を両手で押さえ、……口づけした。
ゆっくりと唾液で溶かしながら、ブドウ糖を先輩の口の中に移していく。
少しずつ、少しずつ。
どのくらいそうやってキスしていたのか解らない。でも、そのうち先輩の体の強ばりが消え、口元から力が抜けた。舌先に先輩の前歯が当たる。やがて、……自分の舌にやわらかなものが触れて。それが先輩の舌なんだって解って、わたしは慌てて先輩から飛び退いた。
「あ、あの、わたし、ご、ごめんなさい。先輩、その、わたし」
「……恥ずかしいところ、見られちゃったわね」
顔を真っ赤にするわたしに、先輩は小さく苦笑して、そう言った。先輩の頬も……桜色に染まっている。
「……怒ってないんですか?」
「怒る? どうして? あなたはわたしの命の恩人なのに。なぜわたしがあなたを怒るの?」
「だって……」
先輩にキス、しちゃったんだもの。
「うん。そうね。……少し、びっくりしたわ。まさかあんなふうにされるなんて思わなかったから」そう言うと香坂先輩は少しだけ沈黙した。「今まで黙っててごめんなさい。わたしね、誰にも内緒にしていたのだけど……子どもの頃からずっと、糖尿病なの」
「え、糖尿病って、あの甘いもの食べ過ぎたりとかするとなる、あれですか?」
わたしは驚いて訊ね返した。
「ちがうわ。それは2型。わたしのは1型糖尿病と言ってね、それとは別物なの。だから……一生インスリン注射をし続けないと生きていけない体なの」
先輩は寂しそうにそう言った。
「そうだったんですか」
「うん。びっくりしたわよね。だから、ごめんね、大会の日、お弁当一緒に食べられなくて。急いで逃げるように行ってしまって。おトイレでインスリンの注射をした直後だったから。あんまり余裕がなかったの」
「……いいんです。わたしの方こそすみませんでした」
「ねえ、花村。……ちょっとお願いがあるんだけど、いい?」
「はい」
「わたしのロッカーから……あのポーチを持ってきてもらえるかしら」
「えっと、おトイレにいらっしゃったときに持ってた、あれ、ですよね」
「ええ、お願い」
「でも、お一人で大丈夫ですか? またさっきみたいな……」
一瞬ためらったわたしに、先輩はやさしく笑ってくれた。
「低血糖の症状は治まったから。もう大丈夫だわ。だから、ね?」
「解りました。すぐ戻ってきますから」
わたしは急いで保健室を出て、道着姿のまま廊下をパタパタと走っていった。廊下を歩いていた生徒が驚いて道を開けてくれる。
更衣室のロッカーの中には見慣れた先輩の鞄が入っていた。わたしは失礼します、と小さくもごもご言ってから。黒い大きめのポーチを取り出した。
再び保健室に戻ると、先輩はベッドの端に腰をかけて、左腕の傷をハンカチで押さえていた。
「ありがとう。急いでくれたのね。ハンカチごめんなさい。汚してしまったわ」
「いえ、わたしのせいで怪我をしてしまったんですから」
「それは違うわ」
先輩はきっぱりとした口調で言った。
「花村が声を掛けなくても、きっと腕を払っていたと思うわ。……あなたも気付いていたのでしょう? だから声をかけてくれたのではなくって?」
わたしは少しためらってから。小さくこくんと頷いた。
「ポーチ、いい?」
「あ、はい」
そっとポーチを差し出すと、先輩はジッパーを開け、中から四角いプラスチックの箱を取り出した。そして慣れた手つきで箱の中から細長いペンみたいなものと、ずんぐりした体温計みたいなものをテーブルの上に並べた。
「それは?」
「血糖を計る機械よ」
ペンの先にプラスチックの小さな器具を付け、測定器にも丸い小さな器具を付ける。やっぱりその手つきは手慣れていた。
ポーチからアルコール綿と針捨て用と書かれた小さな箱を取り出して、先輩は指の先を綺麗に消毒してから。おもむろにペン先を消毒したばかりの指先に当てた。
ぱちん、と小さな音がした。
ペンを当てていた場所に血の珠が、ぷっくりと浮かび上がった。あのペンは……指先に針を刺す道具だったのか。測定器をその血の珠に当てると、ピーッという音がした。
「……118か。もう大丈夫、かな」
香坂先輩は小声で呟いた。
「この病気のせいでね、わたしは色々……我慢しなきゃならない事が多かったわ。やりたい事もやれなかったりして。だから、弓道では……誰にも負けたくなかったの。やっと見つけた、こんなわたしにもできるたったひとつの大切なものだったから。誰にも負けないように、そのために古い書物もたくさん読んだわ。それこそ明治大正時代に書かれた弓術の本まで。……でもね、今思うとわたしほど熱心に弓に取り組んでいる人なんていないって、自惚れていただけだったのね」
「先輩」
「あーあ。やっぱり生理中はコントロールが難しいわね。朝の血糖値も268だったんだもの。最初は腕を払った動揺で手が震えているのかと思ったんだけどね、やっぱりインスリンの量を増やしすぎたみたい。低血糖だなんて。本当にもう、やってられないわ」
先輩はそう言って笑った。わたしは笑えなかった。先輩のがさがさの指先は、こんなふうにして作られてしまったんだ。そう思うと……やりきれなかった。
「……わたしね、遠い未来を見据えて弓を引くっていう今村先生の指導や仰っている意味が……解っていなかったわけじゃないの。でもわたしには将来なんてないかもしれない。今、この瞬間しかないかもしれないの。だから、つい、むきになちゃって。わたしね、今を、この瞬間を真摯に生きていない人間を心のどこかで憎んでいたわ。そして自分を認めない周りの人間を憎んで……ううん、違う。そうじゃなかったのね。その感情が僻みだったのを……わたし自身が誰よりもよく知っていた。そんな傲慢な考えしかできない自分自身に嫌気がさして、許せなくて、どうしようもなく苛々していたんだもの。どこかで変わらなくちゃって思いながら。それでも、……わたしには自分を変える事なんて出来なかった」
先輩はそう言って、ふうっとため息をついた。
「でも、なんだか思い知らされちゃった。世の中には……あんなにすごい人もいるのね」
「紫優ちゃん、ですか?」
「ええ。まるで教本そのままのような、そんな美しい射だった。朗らかで、分け隔てなくて優しくて。美しい人だった。自分は今までいったいなにをしていたんだろうって、そう思ってしまうくらいに美しい射を放つ人だった。……わたしには真似ようとしても真似できない」
先輩はそっとハンカチの血を確かめた。これは洗って返すね、と苦笑して。もう先輩の腕から血は流れていなかった。
「あんな人と一緒に生活が出来るなんて。花村がうらやましい」
わたしはきゅっと道着の袂を握りしめた。
「……わたしは紫優ちゃんがうらやましいです」
「え?」
香坂先輩が驚いた顔でわたしを見つめた。
「先輩にそんな顔をさせて、そんなふうに言ってもらえる紫優ちゃんがうらやましい。先輩の腕に傷をつけた紫優ちゃんが……うらやましいです。嫉妬しちゃいます」
わたしはそっと香坂先輩の腕を取った。
「無理に真似なんてしないで。先輩は先輩のままで美しいんですから。だから……どうかそのままの先輩でいてください。お願いです」
わたしは香坂先輩の前腕の傷に、そっと唇を寄せた。先輩の腕がピクンと震えた。
「……好きです」
血の乾いた傷に嫉妬の口づけをしながら。わたしは言った。先輩の傷口は熟れた果実のような匂いで。わたしの唇をほんの少しだけ朱に染める。
「先輩が好きなんです」
香坂先輩の濡れた瞳が、じっとわたしを見つめていた。
「……どうしてわたしなの?」
「人を好きになるのに、理由なんてないんです。ただ、しいてあげれば……先輩がいつもわたしをストレッチに誘ってくれたから。先輩の射が美しくて、わたしの視線の先にいつだって先輩がいたから。あとは……先輩が猫みたいだから、ですかね」
「猫? そう……。あなたも猫、好きなのね」
先輩がクスッと笑った。
「ねえ、花村。わたしのファーストキスを奪ったんだから。責任、取りなさいよね」
責任?
「あの、それは……?」
「言わないと解らないのかしら?」
先輩がそっと目をつむって。軽く顎をあげた。
「……いいえ」
わたしは猫のような長い髪を撫で、もう一度先輩の唇にキスをした。女の子の……香坂先輩の唇はとてもやわらかくて、まるで夢を見ているみたい。
唇が離れて。ふたり同時に小さく溜息を漏らして。わたしたちは微笑み合った。
「わたしも一花の事、好きかも」
名前を呼ばれた。それだけで顔が真っ赤になった。
「最初に今村先生が来られたあの日、わたしを見つめて徒手を行った一花の姿が忘れられなかった。あんなにドキドキした事は今までなかったわ。それにね、一花がわたしの指に触れても、見て見ぬふりをしてくれていたのが解ったから。だから、実はわたしも……一花が気になっていたの」
先輩は少しためらったあと、
「今村先生にずっと反発し続けていたのも……もしかしたら嫉妬があったのかもしれない。あなたは今村先生を果穂さんって呼ぶのよね。そして今村先生もあなたを一花ちゃんて呼ぶのをわたし、知っていたわ。あなたたちがあまりにも仲が良さそうだったから。だから……この感情は、たぶん……嫉妬なのだと思うの。あなたがさっき、紫優さんに嫉妬したように、ね」
そう言い終えて。しっとりとした重たいため息を最後に吐いた。
「喫茶店ではごめんなさいね、あなたに触れられるのが嫌だったんじゃないの。わたし……告白なんてされたの初めてで、どうしていいか解らなくて、それで……ずっと謝りたかった。保健室に来てもらったのも本当はそのためだったの。……一花、ごめんなさい」
わたしは感極まって、思わず泣きそうになってしまう。
「……香坂先輩、わたしも」
待って。そう……消え入りそうな声で囁きながら。わたしの髪に香坂先輩の指先が触れた。
「一花。わたし……名前で呼んで欲しい」
「あ、はい。では、あの……ゆかり先輩、とお呼びすればよろしいですか?」
「それじゃ嫌」
「え?」
先輩はそっと視線を逸らして、
更に小さな声で言った。
「呼び捨てにして」
「……ゆかり」
わたしも掠れるくらい小さな声で囁いた。
なんだか……すごく恥ずかしい。
ゆかりの顔も真っ赤で。でも、とても嬉しそうだった。
インターハイは東京で行われた。
ゆかりは個人3位という輝かしい成績を残した。インターハイでのゆかりの射がどんなに素敵だったのか、……言いたくない。どんなに言葉にしても、それがまだ、陳腐なものにしかならないから。
初めて口づけを交わしたあの日からインターハイの日まで、ゆかりがあんなに頑張ってきたのをわたしはいつも見ていたんだもの。ゆかりは自分自身の、美しい本当の射を見つける事ができたのだもの。それをずっと、彼女は一生懸命磨いてきたのだから。
それに実は……わたしにはインターハイの、あの日のゆかりをどうやって表現したらいいのか、思い出そうとすれば思い出そうとするほど、深い湖の底に沈んでくように……よく解らなくなってしまう。
的を見つめる鋭い瞳。緊張していても、わたしに向けるときは少しだけ微笑んでくれた彼女のぎこちない笑顔。誰もいない場所で握ったゆかりの震える指先。……いつか、それを全部繋げてひとつの言葉にする事ができるかもしれない。そうしたら、わたしは胸の中の思いを整理して……少しだけお見せする事ができるかもしれない。それまでゆかりとの弓の思い出は、全部まとめて独り占めしていたいのだ。わたしだけの秘密として。
それに、ね。
わたしたちの恋愛はにゃんこの恋みたいな秘密の恋愛だったから。誰かに打ち明ける事もできず、弓道部のみんなには付き合っているのを気付かれないようにしていたから。手をつないでいて、誰かの気配を感じてパッと手を離す事もしばしばで。そんな自分たちに嫌気がさしたり、喧嘩したりもした。この思いを他の誰かと共有できるだなんて、幼いわたしたちにはその当時、想像する事すらできなかったのだ。あの大会の思い出は、そんなほろ苦い気持ちともセットになっている。
だから、今はまだ、心の中にしまっておきたいのだ。
……閉会式が終わったあと。
「最後、惜しかったわね」
と慰めの声を掛けた果穂さんに、
「ううん、いいんです。さっぱりしました。それに、これが今のわたしの実力ですから」
とさらりと笑ってみせたゆかりはどこか余裕があって。なんだか嬉しそうだった。
「ゆかり、あなた少し見ないあいだに……随分と雰囲気変わったね」
早野先輩が不思議そうに首を傾げ、ちょっと驚いたみたいに声を掛けた。
「そう?」
「うん。なんかあったの? 試合で負けちゃったのに。それにそんなに嬉しそうに笑ってるゆかりを見るの、わたし初めてかも。なんだろう、人を寄せ付けない……バリアが消えたっていうかさ」
「相変わらず失礼な人ね。でも」
ゆかりはちらり、とわたしを見た。
「そうね、きっとあれだわ。わたしに好きな人ができたから、かしらね」
そしてはにかみながら、答えた。どきりとした。大会が終わって、ゆかりはちょっとほっとしたのだろう。にゃんこの恋も少しだけ解禁になったみたい。
「な、えっ? いつの間に? ずるいっ、わたしが受験勉強してるあいだにあんた、なに恋愛なんかしてんのよっ。あっ、じゃ、じゃあもしかして今日、会場に見に来てたりするの?」
「ええ」
ゆかりはにっこりと笑って。
「今日は一日中、わたしを見てくれていたわ」
他の部員もキャーキャー騒いでいる。お硬い篠原主将なんて耳まで真っ赤だ。
訳知り顔の果穂さんがにやっと笑ってわたしを見るから。わたしは素知らぬ顔で視線を逸らした。
「……そういう事だったの?」
由貴さんがわたしをちょんと突ついて囁いた。
「うん。そういう事だったの」
「そっか。全然気付かなかった。でも……よかったね」
「うん。ありがとね」
由貴さんと小声で囁き合っていると、
「なに? 内緒話なんてして。それより今の聞いてた? 香坂先輩、お付き合いしてる人がいたんだって。今日の弓もそうだけどさ、性格が丸くなったなーって思ってはいたんだよね。やっぱり好きな人ができると違うのかしら。あー、わたしも早く彼氏欲しいなぁ……って、なによ? なんで笑ってるの?」
きょとんとして問い返した真琴さんに、わたしは言った。
「ひみつ」
そして、由貴さんにウインクしてみせた。
「ね?」
「ねー」
「あ、またそうやってわたしの事除け者にするんだから。ちょっと桜、なんとか言ってよ」
「お前うるさい」
ぎゃーぎゃー文句を言い合う桜さんと真琴さんはとっても微笑ましい。
その日を最後に、ゆかりも弓道場から去っていった。受験生なのだし、三年生なのだから仕方ないんだけど、やっぱり寂しくて。時々ふっと、あの黄色いシュシュを捜している自分に気付いてしまう。
でも、秋の新人戦までは時々練習を見てくれる約束になっていたから。わたしはにっこり笑ってゆかりを見送った。彼女にはこれから受験という、これまた大きな戦いが待ってるんだもの。いつまでもわたしが引き止めていいはずがないのだ。
なんて、そんなふうに思っていると。
ある日の夜。突然わたしの携帯電話が鳴った。
ゆかりからだった。
「もしもし?」
「あ、一花?」
「うん。どうしたの?」
「明日なんだけどね。わたしの予定が急に潰れてしまったの。それでね……デート、しない?」
デート。
デート?
「もしかして都合が悪かったかしら。部活がお休みだって聞いていたから大丈夫かなって思っていたのだけど……ごめんなさい。急にこんな話されても困るわよね」
「ち、違うの。あの、嬉しくて。声が出なかっただけ。でも……いいの? 受験勉強とか忙しくない?」
わたしはさっきの一瞬の沈黙を誤解されないように、慌てて言った。携帯電話を持ち替えて、ぴったりと耳に押しつける。
「わたしだってたまには息抜きしたいもの。だから……一花の都合が付くなら。どこかに行きたいなって思ったの」
「だ、大丈夫、です。わたし、明日は予定なんてないですから。あっ……じゃなくて、そうだ、どこに行くの? もうゆかりの中ではルートが決まってるの?」
ふたりきりのときには敬語は使わないで、ってゆかりには言われているけれど。そんなのまだまだ慣れなくて。だからこんなとき、思わず不意に口をついてしまう。わたしはゆかりが機嫌を損ねちゃったら大変だ、って思って。慌てて話題を変えたのだった。
「うーん」
電話の向こうでちょっとだけ沈黙が続く。
「ひみつ。楽しみにしていて。じゃあ、朝の八時に……そうね、一花の最寄駅に集合でいいかしら?」
「は、はいっ」
「ふふっ。おやすみなさい。ああそうだ、言い忘れていたわ。ねえ一花」
「え? なに?」
「あなたが大好きよ」
ぷつっと通話が終わる。最後にチュって音がした気がしなくもない。あれは、えっと、つまり……そういうこと、だよね?
……ゆかりの反則的な攻撃に暫し茫然となっていたけれど、わたしは慌ててクローゼットをがちゃがちゃと引っ掻き回し始めた。
どうしよう、どうしようっ。明日なにを着ていけばいいんだろうっ。
あーもうっ、頭ん中がぐるぐるしてわけ解んないよっ。
「一花、どうしたの? 随分騒がしいんだけど」
部屋をノックして、お母さんと紫優ちゃんがそろって顔を覗かせた。
「なにしてんの? 服、そんなに引っ張り出して」
「あっ、紫優ちゃん。どうしよう」
「なにが?」
「明日デートなの。ねえ、なに着ていったらいいと思う?」
「……だって」
紫優ちゃんがちらり、とお母さんに微笑む。お母さんも少しあきれ顔で、くすくす笑っている。
「な、なによ。なんで笑うの?」
「いや、可愛いなぁって思って」
「うん。若いっていいわね」
お母さんはそっと紫優ちゃんの手を握った。紫優ちゃんもその手をきゅっと握り返したりしている。もう、なんなのよっ。
「だって、ゆかりと初デートなんだもん。あーっ、なんでこんな遅くになって電話してくるんだろっ」
学校帰りに伯父さまの喫茶店でお茶をして帰る事は時々あったけど。でも、外で待ち合わせしてのデートは……初めてなんだもん。いままで部活で忙しかったし、大会が終わるまでは、って。お互い我慢してたんだし、でも、まさかこんな日がこんなに急にやってくるなんて、いったい誰が想像するっていうの?
「そんな事言って。ほっぺゆるゆるじゃないの。暑くってやってらんないわ」
「ねー。見てるこっちまで暑くて汗かいちゃいそう」
「……ふたりとも更年期なんじゃないの?」
ぴきっとふたりの顔が同時に引きつった。
「……一花」
「せっかく臨時でお小遣いあげようと思ったのに。残念な子ね」
「あっ、うそうそっ、ごめんなさい。ごめん、お母さん、紫優ちゃんっ」
「バイバイ」
「もう知らないわ」
そう言ってぷいっと顔を背けて、ふたりとも出ていっちゃいそうになる。
「あんっ、もう、怒らないでよっ。ちょっと口が滑っただけじゃないっ」
「「余計悪いわよ。馬鹿っ」」
ふたりの声が唱和する。でも、その顔は笑っていた。その日の夜は遅くまで服を引っ張り出してはあーでもないこーでもないと騒いでいた。
次の日、眠い目を擦りながら駅に行くと、そこには既にゆかりが待っていた。ゆかりは通学路が反対の路線のはずなのに、わざわざわたしの最寄り駅で待っていてくれるなんて。どこに行くのかまだ解んないけど、でもやっぱりその気持ちだけでも嬉しくて。もう、顔がにやけちゃいそう。
ゆかりはわたしを見つけて小さく手を振ってくれた。わたしも手を振り返した。ゆかりの足元には夏の太陽に焼かれたように、真っ黒な影がアスファルトに落ちていた。うわんうわんと響く蝉の合唱に、途端に額に汗が滲む。
ゆかりを見るとふわりと裾の広がった白いサマードレスに薄手のカーディガン、そしてつばの大きな麦わら帽子を冠っていた。素足にミュールなのもすごく可愛い。そして、肩からは少し大きめの鞄が斜めにかけられていて、ゆかりの豊かな胸をしっかりと強調していた。
「ごめん、待たせちゃった?」
わたしが訊ねると、
「ううん。わたしも今着いたばかりだわ。一花も今日は可愛い格好ね」
「……可愛いかな。男の子っぽくない?」
「そんな事ないわ。とても可愛いわよ」
クスッと笑って、ゆかりは自分の帽子の位置を少しだけ直した。ちなみにわたしの今日の格好は、うぐいす色のタンクトップに胸元のボタンを大きく開けたオーガンジーの白のブラウス。ブラックのスリムジーンズにシルバーのバングルという、どっちかというと男の子っぽい格好。
コーディネートしてくれた紫優ちゃんに男っぽすぎない? と訊いたら、きっとゆかりちゃんはふわっとした格好だと思うわ、県南支部大会のときの私服もそんな感じだったから。一花はかすみと一緒でさらっさらの髪質のボブヘアだし、少しユニセックスな方が釣り合いが取れるんじゃない? と諭されてしまったのだ。
うーん。
紫優ちゃんの慧眼というかなんというか。伊達に長い事女の人と一緒にいるわけじゃないんだな、なんて思ってしまった。
「じゃあ、行きましょうか。ええとね、ここからバスに乗って、別の路線の電車に乗るの。ほら、あのバスよ。おいで」
ゆかりがわたしの手をきゅっと握りしめて。バスの停車場に引っ張って行く。
わたしもゆかりのざらつく指の感触に頬を緩めながら。足早についていった。
バスはお盆
「わたし、バスに乗るの久しぶりだわ。こんなに視線が高いとなんだか不思議な気分ね」
そう言って、ゆかりは外を眺めたまま。わたしの指に自分の指を絡めた。
「あ」
わたしはちょっとびっくりして。思わず声をあげてしまった。
「どうかした?」
「……ううん。ごめんね。なんか……幸せだなって思ったの。部活でゆかりが一緒にストレッチをしてくれるようになってから。ずっとゆかりと手をつなぐのが好きだった」わたしはそこまで言って、小さなあくびを漏らしてしてしまった。「ご、ごめんなさい。あの、実はね、昨日嬉しくて……あんまり眠れなかったの」
「馬鹿ね。ほら……肩貸してあげるから。少し眠っていいわよ」
「もう、そうやって子ども扱いするんだから。バスの中でなんて寝ないもん。でも、……肩は貸してもらってもいい?」
「うん。おいで」
わたしはそっとゆかりの肩に自分の頬を付けた。首筋からやわらかなフローラル系の匂いがして、もう……それだけで胸がいっぱいになっちゃって。なんだか泣きそうだった。
「……ねえ、ゆかり」
「なに?」
「なんだか恐い。こんなに幸せで……いつか取り返しのつかないなにかが起こるんじゃないかって。まるで幸せの先取りをしてるみたいで、怖いの」
「変な子。心配し過ぎだわ」
ゆかりはクスッと笑った。
わたしは絡め合った指先に、少しだけ力を込めた。
バスの終点で私鉄に乗り換え、ゆかりに連れられた先は水族館だった。『夏休み特別展示・世界のくらげ』という大きな看板が出ている。開園してまだそれほど時間が経っていないけれど、既に子ども連れの家族で入り口は混雑し始めていた。
「わ、水族館だ。わたし水族館なんて小学生の遠足で来たきりだわ。ゆかりは水族館、好きなの?」
「うん。好き。それに……実はね、伯父さまからチケットをもらっていたのを思い出したの。お互い学生だから、あんまりお金は使わない方がいいでしょ?」
そっか、そこまで気を使ってくれてたんだ。
「ありがと。今日はゆかりに誘ってもらえて……すごく嬉しい」
「わたしもよ。一花と一緒に来られてよかったわ。ほら、混み合わないうちに入りましょう?」
「うん」
わたしたちは手をつないだまま、入場ゲートをくぐった。水族館というくらいなのだから当たり前なんだけど、どこもかしこも水の匂いに満ちている。夏本番なのにひんやりと冷たい空気が流れている。
「熱帯魚って綺麗ね。あ、見て、この魚、確かアニメの主人公だったわ」
ゆかりが前屈みになって、鼻先をくっつけるようにしながら珊瑚のあいだを泳ぐカクレクマノミを見つめている。ゆかりのすぐ近くでも、小さな子どもたちが水槽をツンツンと突ついていた。
そのあとも色鮮やかなエビや変わった形の魚を見て回り、わたしたちは奥まった場所の特別展示スペースまでやってきた。水族館の入り口に掲げてあったのと同じ『世界のくらげ特別展』という看板に、わたしたちは目を輝かせた。
「一花はくらげ好き?」
「好き。ゆかりは?」
「好きよ。なんにも考えてなさそうなのがいいと思わない?」
ゆかりはタコクラゲの水槽の前で笑ってみせる。
「ねえ、ゆかり」
わたしは訊ねた。
「ゆかりは将来の事、どう考えているの?」
「ん? 将来? その質問がどんな職業に就きたいかって事なら、そうね。……わたしは看護師になりたい」
ゆかりは微笑みながら言った。
「だから県立大の看護科に進むわ。自分が病気だったから。その分……苦しむ人の気持ちが解ると思うの」
そんなふうに思えるゆかりが素敵だと思った。今までずっと、しなくてもいい苦労を重ねてきたゆかりだもの。きっと……素敵な看護師さんになれると思う。
「そっか。でも、看護師って大変だよ? 紫優ちゃんの様子見てたら……わたしには無理そうだな」
ゆかりがクスッと笑った。
「紫優さん、そう言えば看護師さんなのよね。あとでお話訊けたり、する?」
「うん。大丈夫だと思う。参考になるかどうかは解んないけど」
「ふふっ。ねえ、一花」
「なに?」
「一花は……将来なにになりたいの?」
わたしはちょっとだけ言葉に詰まって。水槽に目を向けた。
「一花?」
「わたしね、管理栄養士になりたいと思っているの」
視線をゆかりから逸らしたまま、わたしは言った。
「素敵じゃない」
「ううん。違うの。わたしね、料理するのが好きだから、いつかそっちの道に進めたらなって。思ってた。でもね……」
「でも?」
「こんな事言って、怒らないでね。わたし、……今日ね、ゆかりに食べてもらえるようなお弁当、作りたかったなって、思ったの。初デートなんだもの。わたしだって気合い入れたかったの。でも、ゆかりがどんなものなら食べていいのか解らなくて、それが気になっちゃって。なにも……作れなかった」
わたしはゆかりに視線を戻した。ゆかりは黙ってわたしを見つめている。
「それでね、気付いたの。わたしは今まで、自分が食べたいもの、作りたいものばっかり作っていたんだなって。もちろん、おいしいご飯を食べて欲しい、その人の好きな料理を作ってあげたいって気持ちはあったわ。でも、それだけじゃ駄目なんじゃないかって思ったの。好きな人の体の事まで考えて食事を作りたいって思ったの。だからわたしはもっと栄養の事や病気の人の為の食事がどういうものなのかをちゃんと知りたい。そしてそれを仕事にしたいって、そう思うようになったの」
「わたしの為に?」
「ゆかりの為っていうよりも……やっぱり自分の為、かな。自分が誰かの役に立ちたいって気持ちは、きっとゆかりと一緒だと思う」
わたしは小さな声で言った。
「……でもね、やっぱりゆかりにはわたしの手作りの料理を……いつか、食べて欲しいっていうもの本当……かな」
「まるでプロポーズの言葉みたいね」
「えっ?」
そんな事言われて、わたしの顔は真っ赤に染まった。
「いつかわたしに、一花がご飯を作ってね。毎日、おいしいご飯を。……楽しみにしているわ。そんな日が来るのを」
そっ、それこそプロポーズの言葉みたいじゃないっ。
俯いたまま、耳まで茹で蛸みたいになっているわたしの手を引いて、ゆかりはくらげの漂う海の底をゆっくりと歩いて行く。
「見て。一花すごいわ。くらげがこんなにいっぱいいるなんて」
不意に立ち止まったゆかりは、その光景を見て驚きの声を上げた。
それは、壁一面のミズクラゲのダンス。
ふんわりと傘を動かしながら。何十匹ものミズクラゲが青いライトに照らされて、ふわりふわりと水槽の中を漂っている。
「……綺麗」
「ええ。綺麗ね」
わたしはきゅっと、ゆかりの手を強く握った。ゆかりはそっと指と指とを絡めて。手のつなぎ方を恋人つなぎに変えてくれる。
わたしたちの後ろを人が流れていく。わたしたちが手をつなぎ合ってじっと水槽を見つめていても。誰も気にしない。わたしたちだって、もう……誰の目も気にしない。
目の前をくらげが漂っている。わたしたちに見られるのをまるで意に介していないように。その動きは永続的で、単調であるが故に美しい。
いつまでも、ずっと……ゆかりとこうしていたいな、と思った。ぶすっとしていて不機嫌だった頃のゆかりも好きだった。でも、わたしだけに微笑んでくれる今のゆかりはその百倍好き。百万倍大好き。だから、今。
この時間が止まればいいのに。
わたしたちは海の底に沈む、ふたつの小さな貝殻のように、いつまでもくらげの水槽の前で立ち止まっていた。
水族館を出ると、太陽はわたしたちのちょうど真上に差し掛かろうとしていた。蒸し暑い一日で、外に出ると途端にアスファルトの熱が肌を焼いた。
「これから、どうする? お昼、どこかで食べる?」
ゆかりは麦わら帽子を冠りながら。
「ううん。家に帰るわ」
と事も無げに言った。
「え?」
「だってわたし、外食嫌いだもの。外で食事をするとカロリー計算が面倒だし」
「そっか、そうだよね」
わたしはショックを隠しきれずに、しょんぼりした声で訊き返していた。思わずそれが顔にも出ちゃっていたんだろう。
「もう、なんて顔をしてるの。馬鹿ね、あなたも一緒よ。うちにいらっしゃい。あなたに紹介したい男の子がいるの」
と。くすくす笑いながらゆかりがわたしの耳元で囁いた。
でも。
紹介したい男の子?
それって……誰よ?
「え、と。ゆかりの弟か誰か? あれ? でもゆかり確か一人っ子じゃ……?」
「ひみつ。じゃあ帰りましょうか」
元来た私鉄の電車にゆられ、バスに乗り換えてわたしの最寄り駅に着き、そこからまた電車で学校を通り越して……ゆかりの家まで。着いたときには二時を少しだけ過ぎていた。そのあいだずっと、ゆかりは紹介したい男の子の事を教えてくれなかったから、わたしの胸の中には形容しがたい嫉妬の火がちろちろと燃え続けていたのだった。
さ、着いたわよ、というゆかりの声にわたしは足を止めた。
そして、目の前の
「ゆかりの家、すごく綺麗なのね。もしかして……ゆかりってお嬢様?」
「馬鹿。そんな事あるわけないじゃない。おいで。両親に紹介するわ」
り、両親っ?
「え、ちょっと、待って。わたしまだ心の準備が」
狼狽えるわたしに苦笑して。でもゆかりはわたしの手を引っ張って、美しい庭をすたすた歩いて行ってしまう。
わ、わっ。どうしよう、どうしようっ。
心臓がばくんばくん音を立てている。手汗をかいちゃう。きっと手をつないでいるゆかりにも汗ばんでいるのが知られていると思うと恥ずかしくて、わたしは本当にもう、どうしていいのか解らない。
「ただいま。今帰ったわ」
「あら、お帰りなさい」
七竃の透かしの入った絽の着物姿のお母様は、わたしとゆかりににっこりと微笑んだ。結い上げた髪がとても美しい。すらっとした綺麗な方だった。わたしは日常生活で着物を着ている人に出会った事がなかったので、それだけでもう緊張してしまう。
「あなたが一花さんね。初めまして。ゆかりの母です」
わたしは手をつないだままだったのを思い出してハッとしたけれど。ゆかりは手を離してくれなかった。わたしは少しだけいたたまれない気持ちのまま、お母様にご挨拶した。
「初めまして。弓道部の後輩で花村と申します。本日は急にお邪魔してしまって、あの、申し訳ありません」
「そんな、いいのよ。わたしが連れておいでってゆかりに言ったんですもの。お昼のお食事、これからなのでしょう? ゆかりも早く入りなさい」
「はい。お母様。わたしは着替えてくるから、そのあいだお母様が一花の相手をしていてくださる?」
「ええ、いいわよ。一花さん、今お茶を入れるわね」
ゆかりがやっと手を離してくれた。わたしは手の汗をジーンズのお尻でそっと拭きながら、やっぱりゆかりってお嬢様なのかもしれない、と感慨深く思っていた。
「そういえばお父様は?」
「急なお仕事ですって。残念がっていたわ、せっかく一花さんにお会いできる機会だったのにって」
「あの、すみません。お忙しいところ」
わたしが小さい声で呟くと、
「お父様が忙しいのはいつもの事だもの。一花のせいじゃないわよ」
とゆかりが笑った。
「きぃちゃんは?」
「あなたの部屋で寝ていたわ」
「あら、そうなの? じゃあ、お母様。お願いね」
「はい。もう準備してしまっていいのね?」
「ええ。注射もすませてくるわ。またね、一花」
ひらひらと手を振って、エントランスから伸びる階段でゆかりは二階にあがってしまった。きぃちゃん? きぃちゃんて誰? なんでゆかりの部屋で寝てるの?
なんとなく声を掛けそびれたままゆかりの後ろ姿を茫然と見送っていると、お母様がゆかりそっくりの仕草でくすくすと笑った。
「こちらにいらっしゃい、一花さん。そんなに緊張しないで欲しいわ。あのね、ゆかりが病気になってから、友達を連れてきたのはあなたが初めてなの。だから……嬉しくて」
「そうだったんですか」
「ええ。とりあえず応接室でいいかしら。今紅茶を淹れてくるから待っていて」
「はい、ありがとうございます」
そんな遣り取りのあと。思いもかけず
ひとりで待つにはあまりにも広すぎる部屋で、わたしはじろじろと室内を見回すのも
「お待たせ。アールグレイはお好きかしら?」
「えっと、はい。好きです」
「よかったわ。ちょうど香りのいい茶葉が入ったところなの」
ティーコゼーを掛けられたポットに、ジノリのティーカップ。それはゆかりの好きな白磁の。
「ねえ、一花さん」
砂時計を見つめながら。
お母様は言った。
「あなたは、ゆかりとお付き合いしているの?」
「え?」
「わたし、ゆかりからそう聞いたわ」
わたしはどう答えていいか解らなくて膝の上で重ねた手を、ぎゅっと握り合わせた。
「ごめんなさいね。わたしはあなたたちを責めたり、軽蔑したりしているのではないの。ただ、そうね。あんなに楽しそうに笑うゆかりを見るのは久しぶりだったから。嬉しい、かな。うん。嬉しいわ。あなたがあの子を選んでくれて。ゆかりを愛してくれて。かたくなだったあの子の心を解きほぐしてくれたのは……あなただもの。いつもなにかに苛々していて、まるで生き急ぐようなあの子の姿を見ているのはわたしたちも辛かったわ」
お母様はコゼーを取って。わたしのカップに紅茶を注いでくれた。濃い琥珀色の液体は、ベルガモットのいい匂いがする。
「わたしには同性同士の恋愛ってよく解らないけれど。あの子をよろしくね。一花さん」
「はい、お母様」
わたしはそっと涙を拭って、お母様に微笑みを返した。お母様の言葉が嬉しくて。拭う傍から涙が溢れてきてしまう。
「あらあら。泣かないでいいのよ。ゆかりの恋人なら、わたしたちにとっても娘みたいなものだもの。ね?」
「……ありがとうございます」
わたしは泣いているのをごまかしたくて、俯いたまま紅茶を一口飲んだ。
「お待たせ。……一花?」
薄い桃色のキャミソールにショートパンツという涼しげな格好で二階から下りてきたゆかりは、応接間の扉を開けて、わたしが俯いているのを見て、訝しげな声で訊ねた。
「どうして泣いているの?」
「ご、ごめんなさい。あの、紅茶が熱くて、それでびっくりして。涙が」
「……そうなの? 本当? お母様」
「ええ。それよりもあなた。そんな下着みたいな格好でお客様に恥ずかしいわ。もっと上級生らしくしゃんとなさい」
「あら。今はこういうのがはやりなんだもの。いいじゃない。ね? 一花」
「うん。似合ってる。可愛い」
わたしは瞳の端の涙を人差し指で拭って、ゆかりに笑ってみせた。
「ほら、言った通りじゃない。ねえ、お母様、それよりもお食事にしましょう? わたしも一花もお腹ぺこぺこだわ」
「ここで食べるなら運んでくるわよ?」
ゆかりはふんと鼻で息をついて、嫌よ、と言った。
「こんなところじゃ落ち着かないわ。一花だって緊張しちゃっているじゃない。おいで。ダイニングルームに行きましょう」
そう言うとゆかりはわたしの手を取って、そっとやわらかなソファーから立ち上がらせてくれた。相変わらずゆかりの指先はざらざらしていて。触れられているだけで落ち着く。……気持ちいい。
「ごめんなさい」
わたしの手を引きながら、前を向いたまま、ゆかりが呟くように言った。
「……え?」
「お母様とふたりきりにして。嫌な事、言われたの?」
「ううん。ゆかりをよろしくって。あなたもわたしたちの娘みたいな存在だって。そう言ってくれて、嬉しくて……わたし、すごく嬉しかったの」
「なんだ」
ちらり、とわたしを振り返って。
「心配して損しちゃったわ」
ゆかりは苦笑した。
食事の後、ゆかりは自分の部屋にわたしを招いてくれた。
女の子っぽいものはあまり多くないけれど、猫のぬいぐるみが幾つかベッドや机の上に置かれていた。それから大きな本棚があって、古い弓術に関する書物が何冊もその茶色く変色した背表紙を見せて並べられている。室内には中二階のようなロフトのフロアがあり、一緒に昇っていくとモスグリーンの毛足の長いカーペットが敷かれているのが見えた。
そしてその中央に、
丸まって眠っていたのは、
「……紹介するわね。わたしの
ゆかりがそっとその背中を撫でると、ごろんと転がりながら、その猫は大きく背伸びをした。
ら、ラグドールだっ。
わたしは声もでないまま、そのちょっと中心からずれたシールからチョコレートにグラデーションするバイカラーの顔を、息をひそめてじっと見つめていた。
きょるんとしたアーモンド型の瞳は、綺麗な南の海の色。ふわふわの毛並みがなんだかゆかりみたい。わたしはその小さな生き物から目が離せないでいた。
「綺麗な目の色でしょ? だから、綺麗な色で綺色って名付けたの。ね、きぃちゃん?」
うなー、と小さな声で鳴いて。
きぃちゃんはまた丸まってしまった。
「この時間は大概寝てるのよ。わたしの大切なお客様がお見えなのにね。失礼な子でごめんなさいね」
「……可愛い。わ、わっ、すごいっ。猫、猫だっ。この子ラグだよね? しっぽ、しっぽがふんわふわだわっ。わ、どうしようっ。ゆかり、ゆかりっ。触ってもいい?」
ゆかりの手をぎゅっと握りしめて、自分でもよく解らない事を口走りながら。わたしはゆかりの背中にぴったりとくっついていた。
「触っていいって訊くのになんでわたしにくっつくのよ」
ゆかりがちょっとあきれた顔をした。
「だ、だって。わたし猫、好きなんだもん」
「いや、理由になってないわよ、それ」ゆかりはくすくすと苦笑している。「触ってごらん。優しい子だから大丈夫よ」
わたしは恐る恐るその背中に触れた。しっとりとしていてやわらかな毛は、まるで上質な絹のようで。温かな、優しい生き物の感触がした。どうしよう。わたしの手の動きに合わせてゴロゴロと喉を鳴らすきぃちゃんは、とんでもなく可愛かった。
「小学四年の頃に病気が発症したあと、わたしの友達ってね、この子しかいなかったのよ」
ゆかりも一緒にきぃちゃんの背中を撫でながら、ぽつりと言った。
「この子が貰われてきたとき、わたしは中学二年生だったわ。それまでわたしは独りきりだったの。でもね、それからはずっと一緒。わたしが辛いとき、寂しいときにいつも一緒にいてくれた子なの。わたし、家族以外には誰にも病気の事は話したくなかったから。病気の事を知られるくらいなら友達なんていらないと思っていたから。でも、この子にだけは悩みを打ち明けられたの。今はあなたがいてくれるけれど。きぃちゃんがわたしの友達である事には変わらないわ。だからね、一花に紹介したかったのよ」
それに、と言いながら。
ゆかりは思い出したようにぷっと吹き出した。
「な、なに笑ってるの?」
「だって。一花がわたしの事、猫みたいで好きだって言ったのを思い出しちゃって。一花の事、信用してもいいのかな、って思ったのはね、……一花がわたしを猫みたいって言ったからなのよ?」
ゆかりはそう言うと、そっとわたしに口づけをした。わたしは目を閉じてゆかりの髪を撫でた。やっぱりその手触りは猫のよう。彼女の髪は……わたしの大好きな猫っぽいゆかりそのものだったから。思わずきぃちゃんと比べるみたいにして撫でてしまっていたのかもしれない。
だから少しだけ唇が離れたとき。
ゆかりに、拗ねたように言われてしまった。
「だからって、わたしよりきぃちゃんの事を好きになったりしたら、許さないからね」
「わたしが好きなのはゆかりだけよ。わたしがキスしたいのは、抱きしめたいと思うのは、ゆかりしかいないわ」
わたしは真剣な目をして言った。
「ゆかりが好きよ」
「……じゃあ、いつまでも撫でていたいのはどっち?」
そう訊ねられてちょっと考え込んでしまったわたしを、ゆかりはじとっとした目で見つめていた。
わたしは鼻と鼻とをくっつけながら、くすくすと笑った。
「ゆかりがもっと色々なところを撫でさせてくれるなら、即答できたんだけどな」
「……もう少し、一花が大人になったらね」
「あら、わたしはもう充分大人だわ。……試してみる?」
「馬鹿……」
真っ赤な顔をして、それでもなんでもなさそうな顔をして、ゆかりが囁く。
もう一度唇を合わせて。
そっと。
わたしとゆかりの、舌と舌とが触れあう。
んっ。という小さな喘ぎ声は、わたしの声だったのか、それともゆかりの声だったのか。
きぃちゃんがあきれて、てとてととロフトを降りていってしまっても。
わたしたちはモスグリーンのカーペットの上で。まるで夏の午後そのもののような、甘い、やわらかな口づけを交わし合っていた。
ぼんやりとカーペットの上で一緒に寝転びながら、わたしはゆかりと手をつないでいた。冷房は冷え過ぎないように注意して温度設定されていて、食後の眠気を誘うくらい……心地よかった。再びやってきたきぃちゃんは、わたしたちの足元の方で丸くなっていた。あるいはさっきはわたしたちに気を使ってくれたのかな、なんて思ってしまったりして。
「一花」
「……なに?」
「よかったらまた遊びに来て」
ゆかりは言った。
「今度はお父様にもあなたを紹介したいの」
「ねえゆかり」
わたしはゆかりに訊ねた。
「ゆかりはいつ両親にカムアウトしたの?」
ゆかりはわたしの目を見つめながら、
「あなたと付き合いだしてすぐよ」
と言った。
「……勇気があるんだね」
「勇気とは違うわよ」とゆかりは静かな声で言った。「嘘をついたり、言い訳したくなかっただけだわ。親に、っていうよりも、自分自身に。だから、はっきりと言ったわ。好きな人ができた、その子はわたしの後輩で女の子だって。あなただって、お母様と紫優さんにわたしたちの事、話しているのでしょう?」
「うん。でも、わたしのところとは環境が違うもの。わたしの家は親が同性愛者だから。なんていうのかしら、下地があるからわたしの事もすんなり認めてもらえたけれど。ゆかりのご両親は……違うでしょ? きっと、驚いたはずだわ」
そうじゃなければさっきみたいに、お母様とふたりきりにしてごめん、なんて……ゆかりは言わないはずだもの。
「違う事なんてなにもないわよ」ゆかりは少しだけあきれた口調でそう言った。「確かに最初は驚かれたし、今でも本当の意味で両親が認めてくれているのかどうか、自分でもよく解らないわ。それでもね、伝えない事にはなにも始まらないって気付いたのよ。それを教えてくれたのも、一花なのに。つまらない事訊くんじゃないの」
不機嫌そうなゆかりを見るのは久しぶり。わたしは嬉しくてつい、ゆかりの頬に自分の頬をぴたりと重ねた。
「不機嫌そうにしてるゆかりも好き。わたしが最初に見たあなたは、いつも不機嫌そうだったわ」
「……そんなの覚えていないでよ。馬鹿」
「やだ。ずっと覚えているわ。それでね、喧嘩したときに言うの。わたしが好きになったのはその顔だよって」
ゆかりのほっぺが熱い。くっつき合っているとすぐに解る。きっと、真っ赤に違いないのだ。いつもクールに見せているけれど、本当のゆかりは優しくて、傷つきやすくて、そしてちょっとだけ我慢強くて意地っ張りで。……繊細な女の子なんだから。
「ねえ、一花」
ほっぺをくっつけたまま、ゆかりが囁く。
「わたしたちが大人になる頃には……女の人同士で結婚できるようになるのかしら」
「どうだろうね。今でも結婚式は挙げられるけど、でも……同じ戸籍にはなれないものね。わたしのお母さんと紫優ちゃんはあくまでも戸籍上はただの同居人だもの。……でもね、お母さんとわたしと紫優ちゃんは、ひとつの家族だわ。わたしはお母さんと紫優ちゃんにここまで大きく育ててもらったんだもの」
ゆかりは上半身を起こして、カーペットに寝転んだままのわたしを真上から見下ろした。彼女の癖のある髪が流れ落ちて、わたしの顔を覆い隠した。
「わたしは一花が好きよ。いつか一緒に暮らしたいと思っているわ」
「うん。約束」
ちゅっと軽く唇を重ね合わせた。
そして短い沈黙のあと。
ゆかりが……切ない声で。
「わたし、一花とわたしの子どもが欲しい。あなたの子どもを産みたい」
と言った。
「ゆかり?」
わたしは驚いて、自分の頬に触れる。ぽたぽたと降り懸かるのは……ゆかりの熱い涙だった。
「……わたしも、ゆかりの赤ちゃんを産んであげたい。でもそれは不可能なの。もし可能になったとしても……許されない事だわ。だから、わたしたちの子どもの分まで……愛し合いましょうね」
わたしはゆかりの背中を抱きしめた。ゆかりの体を受けとめながら。わたしはそっと目を閉じる。わたしの耳のすぐ横で、ゆかりの悲しげなため息が聞こえる。胸と胸がやわらかく押し潰されて、ふたりの鼓動が、命の音が重なる。
きぃちゃんがうなーと鳴いた。
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