晩夏のムスク

王子

晩夏のムスク

 在りし日の記憶を呼び覚ますのは、いつだって匂いなのだと思う。

 夏の終わりも記憶の抽斗ひきだしを開けるのに一役買っているのかもしれない。夏は思い出と相性が良い。晴れ晴れした特別な一日も、耳をふさぎたくなる苦い経験も、夏の空気がうまいことくるんで思い出にしてくれる。

 コインランドリーの駐車場、店に頭を向けて停めた車に乗り込んだときだった。ふと懐かしい匂いがした。それが何の匂いだったのか、思い至るまでにしばしの時間がかかった。

 もう九月に入ろうかというのに車内は蒸し暑い。秋に追い立てられて死にかけの夏が、それでも残していった熱に満たされていた。

 助手席には洗濯かご。乾燥機から出したばかりのタオルや下着から、熱気と共に甘い香りが立ち上っている。コインランドリーは普段使わない私でも、のろのろと通過した台風のせいで洗濯物が溜まってしまって、仕方なく足を運ばざるをえなかった。

 だから、この匂いとの遭遇も、あの人を思い出したのも偶然だった。

 夏夕暮れ時の熱を帯びた湿った空気、そこに混ざる甘くて清潔な匂い。車のシートの匂い、ほのかなガソリンの匂い。思いがけず揃ってしまった。

 誰かに誘われたかのようだった。この車は今、私をあの夏の日に連れていくための時間移動装置で、インジケーターはオールグリーンだ。起動のスイッチを押す必要は無い。車内の匂いを懐かしいと思った瞬間に、時間移動装置はうなりを上げる。

 起動の条件は、いつだって匂いなのだ。


* * *


 小学生最後の夏休みは、相変わらず退屈だった。

 夏休み子どもスペシャルのために起きて仮面ライダーやらウルトラマンやらの再放送を観たら、昼食代の三百円を握りしめてコンビニへ行く。午後になったら、麦わら帽子をかぶって、田んぼに水を引く用水路を素足で歩いたり、虫あみと虫かごを持ってセミを探したりしていた。

 近所の女子達とは遊ばなかった。彼女達が何をして遊んでいるのか知らないし、知ったところで趣味が合うとも思えなかった。かといって男子と遊べば変な噂が立つ。男子達の中に一人だけ女子がいると、男好きだと陰口を叩かれるのが常だ。面倒なことに。だから私はいつも一人で、トイレでさえ仲間の手を引いて行く彼女達からは浮いていた。

 その日は少し遠くまで足を伸ばそうと思った。冒険は好きだった。非日常を探すことに憧れていた。

 母が仕事に出掛けている間は自転車に乗ることを禁じられていたので、歩くしかない。麦わら帽子をかぶり、日焼け止めを塗る。肩掛けバッグには、ハンカチに包んだ保冷剤、タオル。水筒には氷水を入れた。こういう身の回りの準備には慣れていた。

 家の周りは田畑ばかりだったけれど、十分ほど歩けば交通量の多い国道が走っている。私の行動範囲は、その国道より手前だった。ショッピングモールも、ゲームセンターも、牛丼チェーン店も、国道の向こう側にしかない。向こう側に行くのは母と「お出かけ」するときだ。

 忙しなく車が行き交う道路脇、自転車も通れる広い歩道で、私は早々に後悔していた。とにかく暑い。車の音はうるさいし、前方から走って来る自転車は並列走行で危ないし、排気ガスの匂いで気持ち悪くなる。冒険は場所を選んだ方がいい。

 もう引き返そうと小道に逸れた。道が一本違うだけで、だいぶマシだった。

 日陰を探しながら歩いていると、二階建ての小さなアパートが現れた。上と下にそれぞれ二件、玄関は道路に面していなかった。道路に背中を向けたアパートは存分に私の興味をいて、裏手へと足を運ばせた。

 集合ポストには四軒分の投函とうかん口があったけれど、二階の一室を除いて、緑のテープで塞がれていた。玄関の前には駐車場があり、車が一台停まっている。メタリックな青の塗装。インプレッサだ。なぜか、前輪が地面についていない。

 車が宙に浮いている! 駆け寄って見ると、車体を支えるように何か挟まっている。三本足の、金属製の赤いもの。東京タワーをひどく簡単にしたみたいな形だった。

 見慣れない光景に夢中になっていた。だから、ふと目の端に飛び込んできたそれに、思わず悲鳴を上げてしまった。

 人の頭だ。顔は見えない。額と黒々とした髪が、車体の下からのぞいていた。

 焼けるようなアスファルトに尻餅をつき、私は動けなくなっていた。目を離すこともできずにいると、その頭はずるずると車の陰から出てきた。

「誰?」

 現れたのは若い男の人で、面倒さを隠そうともしない声と共に私を見上げた。

 私の口から「ごめんなさい」と小さく漏れて、彼は「いや別に」と、言葉通り本当に別に何とも思っていない風で、車の下からい出してきた。黙ったままの私を横目に、さっさと車の周りを片付けてしまうと、「じゃあ」と一言残して立ち去ろうとする。

 なんだか悔しくなった。黙っていた分を取り返すように質問攻めにしてやる。

「何してたの」

「車いじってた」

「故障?」

「違う」

「故障じゃないのに車いじるの」

「まあ」

「その東京タワーみたいなのは何」

「東京タワー? ああこれか。ウマ」

「ウマ? 変な名前」

「本当はリジットラック」

「嘘ついたの」

「違う。ウマは別の呼び方」

 短く済む言葉を選ぶように、だるそうに答えていた。

「もういいだろ、暑いから帰りな」

 彼が背を向ける。

 私は食い下がる。

「スバル、好きなの」

 その言葉に引っ張られるように、彼は振り向いた。

「車のメーカー、分かるのか」

 うなずく。セーラームーンより仮面ライダーが好きな私は、シール集めよりサッカーが好きだったし、シルバニアよりトミカが好きだった。

「珍しいな。女の子で車分かるとか」

「車見るの好きだから。やっぱり変かな」

 何とも思わず口にしただけだったが、彼は「あっ」と小さく漏らしたかと思うと、突然歩き出して部屋に引っ込んだ。ウマや軍手や工具を置きっぱなしにして。戻ってきた手には「国産名車オールスター」と題字が踊る一冊の雑誌があった。

「読むか? おびってほどでもないけど」

 これが始まりだった。忘れようのない夏休み。無愛想な兄貴分、こうと出会った日。


 昂輝の家に足しげく通うようになった。

 かなり強引に上がり込んだ。昂輝は不機嫌に顔をしかめながらも私を追い出しはしなかったし、逆に構いもしなかった。私が「お構いなく」と言ったからではないだろう。手間のかからない観葉植物みたいに放っておかれた。

 それでも、車のことを尋ねれば、打てば響くように答えてくれた。饒舌じょうぜつには程遠い、ぽつり、ぽつりとした話し方で。大げさに知識をひけらかすようなことはしなかった。花に必要な分だけ水をあげるようで心地が良かった。クラスの男子は餌を前にした雛鳥のようにやかましく、自分を中心に世界が回っていると言わんばかりなのだ。

 昂輝はいつでも不機嫌そうに無口だけれど、それが照れ隠しなのだと分かるまでに、さほど時間はかからなかった。本人曰く、大人と関わるのは疲れるのだという。恋人はいないし、職場の人ともほとんど話さないのだと言う。

 部屋で過ごす昂輝は、まるで少年だった。私が本棚でスポーツカーの雑誌を物色していても、勝手にプレイステーションを起動しても、昂輝はポテチとコーラをお供に漫画のページをめくり続けていた。すぐ近くにいるのに、別室で過ごしているみたいに。

 かと思えば、午前中から居座っている私に、いつも昼食を出してくれる。


 一緒にゲームをしたこともあった。

 私が初めてプレイする格闘ゲームでも、「触ってれば分かる」とコントローラーを握らされた。手加減しているのがまる分かりの弱パンチをちまちま繰り出して、私が必死に覚えようとしているコマンドを待っている。ようやっと必殺技が発動したかと思えば、軽々と避けられる。私が「えー!」と叫び、昂輝は口元だけで満足げに笑った。いつもどおりの仏頂面だったけれど、随分と楽しんでいるように見えた。


 夏祭りにも行った。

 私の根っからの強引さは、出不精でぶしょうの昂輝に効き目があった。

「人ごみなんか行きたくない」とりながら、首周りがだるだるになったTシャツと色せたジーンズで、人の波に溺れないように、私の後ろを必死に泳いでいた。

 祭り会場でクラスの女子達(彼女達はいつも群れで行動する)が正面から歩いてきて、すぐに昂輝から離れた。悪いことをしているわけではないのに、見られてはいけない気がした。いや、これは良くないことなのか? おかしいことなのか?

 彼女達をやり過ごして昂輝の横に戻ると、「どうかした」とかれた。

「私って、普通じゃないのかな」

 昂輝は「さあな」と言いながら、いつの間にか買ってきていたらしいリンゴあめを、私の手に握らせた。その日の打ち上げ花火は去年よりまぶしくて、やたら目にしみた。


 大人には、どれくらい夏休みがあるのだろう。

 小学校に上がる頃、母と父は離婚してしまったから、母は夏休みなんて関係無しに働いていた。クラスの人達の親には夏休みがあるらしい。家族そろって泊りがけの旅行をするそうだから。

 じゃあ昂輝は? かれこれ二週間近くは昂輝の家に毎日通っているのに、留守にしていた日は無かった。いつまで休みなのか尋ねると、昂輝は言った。

「とりあえず八月いっぱいは」

「そんなに」

「まあな。あ、でも明日は用事があるから家にいない」

「何の用事」

「秘密」

「なにそれ」

 私は口をとがらせた。

 今まで溶けたスライムみたいに寝転がっていたくせに、突然出かけるなんておかしい。

 私はしっ深い彼女よろしく、なおも問いただす。

「どこに行くの? 誰と行くの?」

「しかたない、教えてやるか。彼女と海に行ってくる」

 彼女と! 時速百キロで飛んできた枕を顔で受け止めたような衝撃を覚えながら、そんなはずはないのだと思い直す。

「嘘。彼女いないって前に言ってた」

「んー? そうだったか」

「絶対に言ってた!」

 出会って間もないけれど、昂輝と私はなかなかに良い関係だったはずだ。それなのにこんな仕打ちを。すぐにでも泣き出してやりたかった。昂輝は泣いている私を放ってはおけない人間だと分かっていた。でも、そうしなかったのは、よしよしなんて昂輝からなぐさめられるのが嫌だったからだ。兄貴分として、友人として、どっかの誰か達みたいに群れたりしないで独りを愛せる者同士、対等でありたかった。

 泣かない代わりに、とびっきり不機嫌な顔をしてみせた。

「お前なぁ、少しは感情を隠せって。そんな子供みたいにしてたら、これから先の人生、生きづらいぞ」

「子供だもん」

 大人である条件が感情を隠すことならば、私はずっと子供でも構わない。

「ま、嘘だよ。仕事みたいなもんだ。お堅いスーツ着てかなきゃいけないし」

 昂輝は「トイレ」と言い残して席を立った。

 読みかけの漫画を手に取ろうと本棚に歩み寄ると、見慣れないものが目に入った。

 はがきほどの大きさ、表面がつるりとした厚手の紙。昂輝の写真が印刷されていた。不機嫌な視線を真っ直ぐこちらに向けて、胸から上だけを切り取られた五人の昂輝が、全く同じ顔して、全く同じ間隔で並んでいた。ネクタイを締めたスーツ姿だった。

 一部分が四角く切り取られている。ここにも写真があったのだろう。

 何のための写真なのだろう。一つだけ無い意味も。どうしてスーツ姿? 分からない。それ以上は知らない方がいい気がして、見なかったことにしようと決めた。


 夏休みも終わりが近付いた日。

 母はこのころ残業続きで、その日も帰りが遅かった。帰ってきた母は、私の姿を見るなり「宿題終わったの」と、硬い声音を響かせた。「まだ終わってないけど」と答えると、母の眼光が鋭く刺さった。

 昂輝と過ごす時間は多かったけれど、それを見越して、宿題を消化する計画を立てていた。残っているのはドリルが数ページくらいのもので、無理をしなくても終わる量で、ましてや母の手をわずらわせることなんてあり得ない。

 いくら伝えようとしてみても無駄だった。母は「そんなこと聞いていない」と、声を荒らげるだけだった。

 分かっていた。母が言うとおり、釈明を聞くつもりはつゆほどもないのだと。母の怒号は救助を求める叫びで、そうでもしないとやっていられない、自分を保てないということも。

 私が手間のかからない観葉植物なら。そうでなくても、三百円を置いておけば、他になんの世話も要らない存在だったら。母は穏やかでいられたかもしれない。

 無限に繋げられた爆竹みたいに、感情の爆弾を隠そうともせず破裂させ続ける母は、子供なのだろうか。働いていても。母親でも。

 私を生んだ人ですらこうなのだから、私は大人になんてなれっこない。

 全てを放り出すように玄関から走り出た。行き先は決めていなかった。家でもない、学校でもない、私の行く宛なんて私は知らない。でも、足は嘘をつかなかった。


 昂輝は少し驚いて「まあ、入れよ」と招き入れてくれた。

 コップにコーラを注がれても、飲む気にはなれなかった。

 うつむいたままの私の前であぐらをかいて、浅くため息をつく。

「俺、海に行きたい気分なんだ」

「嫌なことがあったから?」

「そんなテンプレ人間扱いするなよ。でもまあ、生きてりゃ嫌なことは山ほどある」

「私も行きたい。でも、心中したいわけじゃない」

「バカ言え、そんなわけあるか。よくそんな言葉知ってるな」

 海へ向かう約二時間。

 私達を乗せたインプレッサは、キリっとしたたかのヘッドライトで夜道を照らし出す。この子は私と昂輝のお気に入りだ。エンジン音だってかっこいいし、望んだところへどこまでも運んでくれる。

 夜の海は、黒い布をいたみたいに見えた。波の音と潮の匂いで海を感じる。

 窓を開けて見上げれば、わずかに星の明かりがちらついていた。

 昂輝は何も訊かなかった。代わりに「この前、用事があるって出掛けたの覚えてるか」と話し始めた。いつもみたいに静かな声で。

「仕事辞めたんだ。七月いっぱいで。今探しててさ。用事っていうのはそれで」

 私は、スーツ姿が並んだ写真を思い出した。

「嫌な奴がいたんだ、前の職場。なんでも人のせいにする上司で。上司って分かるか」

「昂輝より偉い人のこと?」

「まあ、うん。そう。会社の中だけな。そいつが俺の同僚に言いがかりつけて、すげえ怒鳴り散らして。だから俺、我慢できなかったんだ。そいつに蹴り入れちゃった」

 昂輝がそんなふうに腹を立てるのは想像できなかった。周りのことには無関心を貫くと思っていたから。きっと、昂輝について知らないことは、もっとたくさんある。

「何もできないくせに、正義感だけはあるんだよ。子供のときから」

「怒ってるのを隠さずに蹴り入れちゃうんだから、今も子供なんじゃないの」

 昂輝は目を丸くした。

「生意気だな。まさか根に持ってるのか」そして笑った。ごく自然に。

「辞めるときに、社長から『もっと大人になれ』って言われた。父親からも言われたな。『いい大人なんだから、将来の夢を持て』だってさ。そんなもの無いって言い返したら叱られた」

 昂輝はまた笑う。一緒に笑えたら良かったのに、黙っていることしかできなかった。

 母も、昂輝も、私も、きっと昂輝の元上司だって大人じゃない。もしかしたら、大人という生き物はとっくに絶滅してしまったのかもしれない。

 昂輝の話を聞いて、ようやく分かってきた気がする。

 大人というのは、自分を偽れる人のことなんだ。

 だとすれば、やっぱり私は大人になりたくない。なれるはずがない。今だって昂輝の言葉があまりに寂しすぎて、自分のためじゃない笑顔を作れずにいる。

「そういえばさ、インプレッサの名前の意味知ってるか」

 首を振る。今日の昂輝はよく喋る。不思議なほどに。

「英語のimpresaインプリーザって言葉が元になってて、紋章とか金言って意味があるらしい」

「もんしょう……」

「日本でいったら家紋みたいなもの。戦国武将のマーク見たことあるだろ」

「うん」

「紋章って、他に同じものは無いんだって。唯一無二ってやつ」

 ハンドルを両手で優しくさすりながら、昂輝は続ける。

「こいつにはそんな立派な名前が付いているのに、将来の夢も、得意なことも、仕事も無い奴が乗ってるんだ。おかしいよな」

「そんなことない」

「おまけに、嫌なことがあって海まで車を飛ばすなんて、あかつきまくったダサいことしてる。唯一無二の名が泣くよ」

 もう独り言のようだった。冷たい水の中、救助が来ないことを悟ったように、ぽつりぽつりと泡を吐き出すようだった。私は今、黙って呼吸だけ続ける観葉植物に過ぎない。

 それでも、もし昂輝が間違ったことをしようとすれば止められる距離にいる。それが嬉しかった。

「こんな俺でもさ、ちっとは人の役に立ちたいんだよ。嫌なことがあったら、また俺のところに来ればいい。その歳で絶望なんかするなよ。俺はよく知らないけど、子供には無限大の可能性ってのがあるらしいじゃん。いくらでも将来の夢を選べるってことだろ」

 昂輝はそっぽを向いていた。その仕草さえも少年のようで、私は笑いそうになる。それに、なんだか泣きそうだ。言葉も選べないほどに。

「なんて言えばいいか、困ってるのか」

 全くそのとおりだったけれど、いじらしく、子供らしく、黙って頷くのは悔しくて、私はこう答える。

「さあね」

 昂輝の口が乗り移ったみたいで少し恥ずかしい。

 それでも今だけは。

 自分の生傷がえてもいないくせに、必死に慣れない背伸びをしている少年と釣り合うように。ほんの少し、傷を隠すんだ。

 子供とか大人とか、実はどうでもいいのかもしれない。誰だって子供を抱えていて、いつだって大人になれるのかもしれない。全ての人の前には、無限に膨らむ夢がただよう海があって、どれでも好きなものを手にとって、「これが私の紋章だ」と胸を張れるのかもしれない。今は目に見えないとしても。

 無限大な夢のあとに何が残るのかは知らない。それでも夢を選び取れることは幸せだ。

 帰り道、昂輝はガソリンが少ないことに気付いてエアコンを切った。

 晩夏の夜風はまだ熱を持っていて、車内の匂いと混ざり合う。

「この石鹸みたいな甘い匂いは何」

「石鹸? ああこれか。ホワイトムスクの芳香剤」

「ホワイトムスク? 怪しげな名前」

「本当は合成ムスク」

「嘘ついたの」

「違う。ホワイトムスクは別の呼び方」

「合成なんとかっていう方が怪しい感じがする」

「お前そんなことまで知ってるのか」

 ずっとこうして、二人でふざけていられたら。


 海へ行った翌日から、夏風邪をひいて三日間寝込んだ。

 電話番号を聞いておかなかったことを後悔した。私がぱたりと来なくなったことを、ネガティブに勘違いしていなければいいが。

 熱が引いてから昂輝の家に向かった。アパートが見えた瞬間、嫌な予感がした。インプレッサが無い。チャイムを慣らしても、ドアを叩いても、反応が無い。ドアの向こう側には人の住んでいる気配が無くて、仕方なく引き返した。

 理由はすぐに分かった。その日、遅く帰ってきた母の言葉で。

「道の向こうに住んでる変な男と付き合ってるんだって? サキちゃんママから電話があったんだけど。あんたが男の家に入っていくの、サキちゃん見たんだって」

 サキちゃんは同じクラスの女の子だ。思い当たったのは夏祭りだ。あの女子達の群れにサキちゃんもいた気がする。あのとき、昂輝と歩く私の姿を見られていたに違いない。

「ポストに手紙入れておいたから。うちの娘に近付かないように引っ越してくれって。すぐ警察に通報してもよかったんだけど」

 かつだった。クラスの変わり者が男の家に通っているなんて、とびっきりのゴシップだったに違いない。嬉々ききとして私のあとをつけるサキちゃんの姿が目に浮かぶ。

 反論しても無駄だと分かっていた。母は私の話を聞かないし、誤解を解いたところで昂輝が戻ってくるわけでもない。

 夏休みが終わる。


 二学期が始まった日の放課後、背後に視線を送りながら下校した。昂輝の家に向かうために。

 もう会うことはできないだろうと分かっていた。それでも一つ賭けてみたかった。

 ランドセルには手紙が入っている。海に行った翌日から風邪をひいていたことに始まり、自分の不注意で昂輝に迷惑をかけたことを詫び、今年の夏休みは最高に楽しかったこと、また会いたいと思っていることも正直に書いた。

 封筒には、キーホルダーも一つ入れた。いつも昼食をごちそうになっていたおかげで浮いた三百円は、ちり積もってプレゼントを買えるほどにはなっていた。

 昂輝の部屋のポストに、まだ緑のテープは貼られていなかった。差し入れた封筒は、コトリと小さな音を立てた。

 手紙は、こう締めくくられている。


 追伸

 一人じゃないお昼ご飯も、うれしかったです。

 キーホルダーは二つ買いました。私のと、昂輝のと。

 お礼ってほどでもないけど。


 一週間ほど経ってから、もう一度ポストに向かった。万が一、あの封筒が昂輝の手に渡っていたら、何か返答があるかもしれない。でも期待はしないようにしていた。

 集合ポストは、全て緑のテープで閉ざされ、入居者募集の貼紙があった。慎重に貼紙をめくり、緑のテープを剥がし、ポストの中をのぞく。空っぽ、ではなかった。手の平にのるくらいのメモ紙が一枚、入っていた。お世辞にもきれいとはいえない、昂輝らしい控えめな大きさの字。


 お前は悪くない。気にするな。

 また俺のところに来ればいいと言ったのに、いなくなってごめん。

 手紙を書くのは苦手だ。話すのもだけど。気持ちだけ伝わればうれしい。

 また会えるといいな。それまで、元気でいろよ。


 追伸

 お前、本当に生意気だな。そこはお礼でいいだろ。


 ポケットの中に手紙をしまって、帰途につく。

 まだセミが鳴いている。トンボも飛んでいる。夏が静かに死んでいくのを感じる。

 私だって大人になれる。子供の自分だって捨てはしない。だから今は泣かない。


 * * *


 ほんの数秒だったかもしれないし、数分は経っていたのかもしれない。

 ふわりと香る柔軟剤は、あのときと同じホワイトムスクの匂いで、ばんの余熱と共に車内を満たしていた。

 ムスクというのは香料の名前で、じゃこうとも呼ばれる。

 麝香はジャコウジカのこうのうから得られる。かつてはジャコウジカを殺して、腹部から切り取っていた。条約で麝香の取引が禁止された現在では、ホワイトムスクと呼ばれる合成香料を用いるのが一般的なのだそうだ。香水や、車の芳香剤や、柔軟剤を清潔に香らせる。

 今浸っているこの匂いは、ジャコウジカの命を奪った結果ではないのだと思うと安心する。でも、うらやましくも思う。彼らには申し訳ないけれど。かつてはみんなから求められ、今は痛めつけられないように守られている。それって幸せなことなんじゃないか。

 今、昂輝はどうなのだろうか。その不機嫌な顔のせいで誰とも繋がれず、大人になれと言われ続けて傷付いて、夢も紋章を見出すこともできずに、夜の海に向かってインプレッサを走らせてはいないか。たった一人で。

 私は、昂輝に何も返せないままだった。

 夕闇は濃さを増している。さっきまで鮮明に色を持っていた幼き日の記憶は、ぐんじょうの空に溶けていくようだ。

 ふとバックミラーを見れば、駐車場に入ってくる車がある。はっとする。

 映っていたのは、青の車体、鷹目のヘッドライト。運転手の顔はまだ見えない。

 それでも、確信があった。

 ああ、あのインプレッサに乗っているのは。

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晩夏のムスク 王子 @affe

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