第5話 後編

「まとめて黒山羊ニグラッセの元に送ってやるわ!」

 自分に向かってくる半魚人たちを次々と燃え上がる大剣で薙ぎ払う文――チェリーピンクを見て、クドゥルーはほくそ笑んだ。

「なるほどな」

 彼のシャツの背中が内側から破れ、中から2メートル程もある蝙蝠の翼が生えた。

「これほどまでに強い情熱の持ち主か。だがそれもいつまで持つかな?」

 彼は船の屋上まで飛び上がった。

「待ちなさい!」

 追いかけようとする文だが、半魚人たちをいくら薙ぎ払っても次から次へと沸いてくる。らちが明かないので羽衣をバネにして伸ばして飛び上がった。ところがバネの長さの調整を誤り、目的の場所まで届かずに客室の窓に突っ込んだ。

 幸いにも誰もいなかったが、文に安堵する時間は無かった。窓が割れる音を聞きつけ、ドアの向こうから半魚人たちのざわざわする声が聞こえてきた。ドアを開け閉めする音がしたので文も今いる部屋の鍵を閉めた。ドアノブから手を離した直後、ガチャガチャとドアノブが激しく揺れた。

 内開きか外開きかわからないが、ドアを押さえられる物がないか文は室内を見回した。黒くて大きなトランクを見つけたのでその取っ手を掴んだ途端、背後でドンッと部屋全体が揺さぶられる程の大きな音がした。振り向けばドアに小さな穴ができていて、光がこちら側に漏れていた。そこへさらに鋭い物が突き刺さり、穴が広がった。ドアを破壊する気なんだと悟った文はトランクを横倒しにしてその前に置くと、窓に駆け寄った。

 窓から羽衣を伸ばして屋上に行こうとした文の頬を、下から三叉の矛がかすった。大勢の矛を持った半魚人たちが水かきの付いた足で壁にへばりついており、次々と矛で突いて来た。文が大剣でそれらを払うと、バランスを崩した三匹が粘つく水かきで張り付いていた壁から剥がれてしまい、下の仲間を巻き添えに落ちて行く。

 その間に部屋のドアを壊した半魚人が突入するも文が仕掛けたトランクにつまづいてしまい、おかげで文は妨害されることなく屋上の柵に羽衣を伸ばせられた。



 屋上の柵を乗り越えた文の目の前に、プールが広がっていた。

「ようやくたどり着いたか、チェリーピンク(おじょうちゃん)」

 翼の生えたクドゥルーが、ウォータースライダーの上に降り立った。

「いい加減現実に返してもらうわよ!」

「残念だがそうはいかないぜ」

 潮風になびかせていたクドゥルーの髪が伸び広がって、吸盤の付いた触手となった。

「あんた、海の旧支配者だとか言ってたわよね。サイコースの居場所、吐いてもらうわ!」

 切っ先を向けた文に対し、クドゥルーは高笑いした。

「あんな奴より良い物をくれてやれるぞ?お前が体験したことない、極上の夢をなぁ!」

 クドゥルーは触手を文に向かって伸ばした。彼女は羽衣をバネにして飛び上がり、大剣を振り上げた。しかしその刃がクドゥルーに届く前に、触手が文の足を掴んだ。

「くっこのっ」

 それを斬り落とそうと体を曲げた所で、文はプールの水面に叩きつけられた。もう一本、もう二本と触手が文の体を押さえつけ、、彼女はプールの底に沈められた。

「ごぼぼっぼぼっ」

 大剣をやたらめっぽうに振り回すも触手はヴルスームの蔓よりも太く、表面に切り傷を付ける位しかできない。しかも水中なので大剣の炎で燃やすことすらできないのだ。

「がばっ」

 不意に文は触手に引っ張り上げられて、水面から頭だけ出された。

「頭が冷えたか、チェリーピンク?俺に許しを請う気になったか?」

 クドゥルーは水面に降り立ち、文を見下ろした。しゃがんで水で重くなった文の前髪をかき分け、頭を上向かせた。

「俺に生涯を捧げるというのなら、解放してやらんこともないぞ」

 クドゥルーに顎を掴まれながらも、文は首を横に振った。

「こんな力づくで人を従わせる奴なんて、お断りよ」

「そうか、残念だ」

 クドゥルーは触手で文を持ち上げると、船の外まで彼女を運んだ。浮遊感に襲われた文は足元を見て青ざめた。底の見えない暗い海面の上に、自分は吊るされていた。半魚人たちが船べりに身を乗り出し、文を見上げている。その顔に一切の表情を見せないが、これから起こることに期待しているのは明らかだ。

「安心しろ、殺すつもりはない。せいぜい楽しませてくれよ?」

 クドゥルーの触手が緩みかけた時だった。白黒の小さな物がその上に飛び乗ったのは。



「にゃっ」

 小さなその生物――白黒の猫は易々と吸盤だらけの触手の上を駆け、文に近付いてくる。

「このっウルタール猫軍か!」

 クドゥルーは別の触手を伸ばすが、白黒の猫は華麗にかわす。

「だが間に合うまい!」

 触手が解かれ、文の体は真っ逆さまに海面上に落ちて行った。そこへ白黒の猫も触手から飛び降りた。

「危ない!」

 文は片手に握っていた大剣を離し、猫を両手で受け止めようとした。彼女の胸に飛び込んだ猫は、小さな瓶の蓋を開けて文の口の中に突っ込んだ。

「あがっ!?」

 次の瞬間、文は背中に冷たい海水ではなく、柔らかく平らな物が当たるのを感じた。どこからか鳥のさえずる声と車の走る音が聞こえてきて、視界に見慣れた天井があった。伸ばした両腕の中には何もなかった。目覚まし時計の鳴る音がするまで、文はあんぐりと口を開けていた。

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紅玉乙女 チェリーピンク 貫木椿 @tubakicco

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