第5話 中編

「おじいちゃんったら、あんなに言わなくたっていいのに」

 ベッドに寝っ転がっても、文から「豪華客船への未練」は消えなかった。

 あの時大部戸から「ペアチケット」を勝ち取ったとしても、誘う相手がいなかったのは事実だ。リコリコはライブに行く予定がある上に、弟の輝彦も晩ごはんの時に祖父母から早いと反対された。 

 せめてサイコースを、夢の中の氷の牢獄から連れ出せたら。二人きりもいいけど彼をあんなに寂しい場所から、暖かく人の多い楽しい場所に連れ出したい。

 船なんて乗ったことがないけれど、豪華客船の旅はきっと素敵な思い出になるだろう。甲板と窓から見る波模様。華やかなパーティの料理はバイキング形式で、アワビやキャビアなどの海の珍味が並んでいることだろう。ロマンチックな音楽が流れる中、波に揺られておぼつかない足取りをサイコースがエスコートしてくれるダンス。紳士淑女はあれはどこの御曹司かと語り合い、たった13歳のダンスパートナーである自分は羨望の的になるだろう。

 などとにやけながら妄想しているうちに、文は寝入ってしまった。



「おい、おい!」

 男の声に、目を覚ました文は仰天した。目の前にいたのは父でもなければ祖父でもなかったのだ。

浅黒く精悍な顔立ちは明らかに日本人じゃない。眉太く眼光鋭く、顎は割れている。波打つ髪は緑に染まっていて後ろでまとめられ、髪に隠れ気味の耳に金色のピアスがきらめいていた。黒いシャツは第二ボタンまで開いていて、胸元に金のネックレスが揺らめいている。

「あんた誰よ!?ここ私の部屋――」

 飛びすさった文の背中は固い物にぶつかった。振り向くとそれはピンクの敷布団ではなく白い椅子の背もたれだった。自分の肩と背中はあらわになっている。ヒラヒラした緑の襟ぐりがなければ素っ裸だと錯覚する所だった。自分の格好をあらためると、寝間着でなく裾が足首まであるエメラルドグリーンのドレスを纏っていた。大事なルビーのネックレスは首にかかったままだったので文は安堵した。

 緑の髪の男は文の前で手を振って苦笑した。

「相当飲んじまったようだな。ここは俺の船だぜ?」

 文は上体を起こして辺りを見回した。漆黒の空の下、大勢の鮮やかな格好をした人々が飲み食いしたり、会話したりしていた。彼女は白いデッキチェアに横たわっていて、潮風が頬を撫でた。

「私は未成年よ。それになんでこんな所に」

「おいおい、あれほど行きたがってたじゃねぇか?」

 この緑の髪の男は文の願いを知っていた。その理由を聞こうとした途端、聞き覚えのある少女の声がした。

「あれっ、ふみふみじゃん!」

 文の元に、彼女と同じようなデザインの黄色いドレスを着たリコリコがやってきた。慌てて文はルビーのネックレスを見られないようにドレスの中へ仕舞い込んだ。

「リコリコもどうしてここに?」

「アタシが聞きたいぐらいだよ。夢の中でもいいから豪華客船ツアーも行けたらなーって、思って寝てたのに」

「ほんとに来ちゃったのね」

「で、このダンディなおじさまは誰?」

 リコリコは内心警戒していたが、なかなかかっこいいのは事実だった。

「俺はこの船の持ち主、クドゥルーだ」

「くるぅ、るー?」

 変わった名前をリコリコが復唱しようとした所、「おーい」と男子の呼びかける声がした。乗客の間を縫って、スパンコールの縫い付けられたタキシードを来た二人組が近づいて来た。

「高槻君と小杉君じゃん、どしたのそのカッコ!」

 リコリコから見てもやっぱり中学生にしては変かもと思いそうになった彼らだが、背筋を伸ばして気取った表情を作ってみせた。

「偶然だね、僕も榊坂さんのことを思って眠っていたら」と同時に口にしたのを耳にするや否や、互いにキッとにらみ合った。

「まあまあ、折角俺が招待したんだ。君たちは希望者先客4名に入ったんだ」

クドゥルーと名乗った男が仲裁に入ると、スローテンポの曲と女の甘ったるい歌声が流れてきた。

「折角のパーティだ、楽しもうじゃないか」

 彼は文の手をとって立たせ、踊り始めた大衆の中へ彼女を連れて行った。

「ちょちょっと!ふみふみ!!」

 いくらイケメンとはいえ見知らぬ男が幼馴染を強引に連れて行くのを、リコリコは見過ごせなかった。しかし彼女はクラスメイトの男子二人に呼び止められた。

「じゃあ榊坂さん、僕たちも一緒に」とまたもや高槻と小杉は同時に口にしてしまったのだった。



 クドゥルーのたくましい左手は文の右手を掴み、もう片方の腕を彼女の左脇の下に差し込んで背中にあてがっているため、彼女は身動きが取れなくなった。文は彼のなすがままにステップを踏む以外なすすべがなかった。

酒か香水か甘ったるい香りの中に生臭い匂いが混じっていた。周りの乗客はやけに目が離れている気がする。ここが本当に自分の行きたかった場所だろうか。サイコースではない男の体と、体温を感じるほどに密着してしまっている。そうだ、ここには足りないものがあった。

 幸いさっきとは違うビーチチェアを見つけた為、文は思い切ってそちらへ足を向けた。

「踊り疲れたみたい」

 クドゥルーは彼女をそこに座らせ、飲み物を取りに行ってくると去って行った。人ごみに消えていく彼の後ろ姿を見て文は目を閉じた。夢を通じてヴルスームの空間に連れて行かれた時も、ソイツに花粉か鱗粉か分からない粉を浴びせかけられて急に眠気に襲われたと同時に現実世界に戻ったのだった。

しかし思いのほかクドゥルーはすぐに戻ってきた。

「どうしたんだいレディ?なぜそんなに不機嫌なんだ?」

 傍のテーブルに、グラスを置く音がした。まだ夢から覚める気配がしない。

「だって、ここに私が会いたい人がいないもの」

「その首飾りをくれた奴か?」

 図星だった。大きな手が首元に触れて、文はより強く目を閉じた。

「俺ならソイツよりずっといい物をやれるぜ。こんなルビーなんかじゃなく、最も濃い赤色のピジョンブラッドのルビーだ。」

 クドゥルーの手は文のルビーのネックレスをもてあそんでいた。

「それとも違う宝石がいいか?俺はもっとまばゆい光を放つ宝石をいくらでも持っているぞ。真珠でも金でもお前の指に飾り付けてやろう」

 彼の手は文の左腕をなぞり、薬指の付け根に触れた。

「そうだ、俺は海のいかなる宝も持っている。そんなにピンクが好きならサンゴか?コンクパールはどうだ?野性のコンク貝からしか採れない、珍しい真珠だ。可愛いお前の耳に、さぞ似合うことだろう」

 男に耳元でささやかれた刹那、文は彼をひっぱたいた。ごめんなさいと呟きながら、文はヒリヒリする右掌をさすった。

「悪いけど、私はもうここにいたくないの。サンゴも真珠もいらない。私が行きたかったのは、大好きな人がいる場所だから!」

 男は打たれた左頬に触れると、笑い出した。何が可笑しいのか分からなくて困惑する文の周りを、目の離れた乗客たちが見ていた。

「この俺を、海の旧支配者を拒むか!」

 パチンと男が指を鳴らすと、乗客たちは身に付けていた物を放り投げた。その中にカツラやゴムマスクも見られた。皆全身を鱗に覆われ、太い首にエラらしき穴が開いたり閉じたりしていた。湾曲した爪の生えた指の間に水かきがあり、体系はカエルを無理矢理立たせたかのようにずんぐりしている。半魚人、という言葉が文の脳裏に浮かんだ。

「ならばそいつらに遊んでもらうがいい!俺の気が済むまでな!」

 先程まで人間だった怪物たちに囲まれた文を勇気付けるように、右手が熱くなった。怖気付きそうになった彼女はとっさにルビーのネックレスを真上に投げた。

「開け、シャトルキー!」

 半魚人たちが襲い掛かるより先に、文は右手を掲げてビーチチェアを踏み台にして飛び上がった。



 文がチェリーピンクに変身した時をさかのぼること10分前。

「え~ホントにするの?お腹こわすよ?」

「榊坂さん止めないでくれ!」

「これは男の戦いだから!」

 リコリコとダンスする権利をめぐり、高槻と小杉は大食い対決をすることにしたのだ。三人は円形のテーブルを囲んでいた。

「だからってわさび大盛寿司なんて、舌がどうなっても知らないわよ!」

 かく言うリコリコは魚介類を使ったピザやスープをテーブルに持ってきていた。二人の他にも他の乗客にダンスを申し込まれているうちに、文を見失ってしまった。不快な匂いの魚みたいな顔の人ごみの中を探すのは流石に嫌だし彼らと踊る気にもなれないので、せめて美味しい料理でも食べて彼女を待つことにした。

「やぁやぁ楽しんでるかにゃ?」

 テーブルに割り込んできた者を見て、三人とも仰天した。タキシードのような白黒の猫が、二本足で手押しワゴンを押してきたのだった。

「君本物の猫?AI搭載ロボかな?」

 最近の技術は本物に近いの作れるようになったんだなぁ!と呟きながら小杉が不躾に顔を覗きこむので、猫は背をのけぞらせた。

「夢だから細かい事はいいじゃないか。それより珍しい飲み物はいかがかにゃ?」

 猫はワゴンに飛び乗って茶色い瓶を示した。

「いや流石にビールは」

「これはノンアルコールだよ。君達でも飲めるよ」

 器用にも猫は両前脚で瓶を持ち、3つのグラスに注いだ。その液体は琥珀色に光っていた。中身は何なのかリコリコが訊こうとしたのを高槻は制止した。

「原材料何なのか当てた方が勝ちな」

「望むところだ」

「本当に勝負好きだなぁ。折角だから乾杯しようよ」

 睨み合った高槻と小杉だが、愛しのリコリコからの提案なら飲み込まないわけにはいかなかった。音頭はリコリコが取ることになった。

「それじゃあ、夢の豪華客船パーティに」「「「カンパーイ!」」」

 3人は互いのグラスを打ち鳴らし、中身をあおった。飲み干した途端、彼らは一斉に床に倒れ込んだ。給仕した白黒猫は彼らが床に吸われたかのように消えていくのを見送った後、文がいるであろう方向に不安げな視線を向けた。

 海の旧支配者は感性が強い人間、それも一夜につきほんの僅かしかこの領域に連れて来れない。しかし水中が苦手な者が多いゆえに、ウルタール猫軍もほんの数匹しか来れない。いくらあの特殊な力を持った人間でも、ヴルスームの時のようにうまくは行かないだろう。

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