ゆるやかな消滅

青い向日葵

自殺とは何か

 長い間、自殺って結局何だろう、と考えていた。


 私が五年間、夫婦として共に暮らした学生時代の先輩は、一つ年上の照明さんであった。県立高校の演劇部。同好会レベルの小さな部活だったが、県大会まで進み健闘したこともある。個性豊かな生徒たちの中から、更にキャラの濃い捻くれ者が集結したようなコミュニティだったと、今振り返れば思う。


 私は、衣装や小道具も作るメイクさんとして、表舞台に立つことは殆どないものの、演劇という共同制作の1ピースとなり、短い期間ではあったが、刺激的な放課後を過ごした。

 脚本分析と言って、台本の内容についての解釈を一致させる為に延々話し合った。夜更けまで、時間も空腹も忘れて熱く語り合ったり、時には口論になったりもしながら、仲間との関わりを深めていった。


 とはいえ、進学校である。部活は二年生の一学期で引退するのが通常で、まともな活動期間は実質一年程しかない。

 その中で、何らかの答えを見いだせるほど私たちは大人ではなかったから、不完全燃焼であってもそれはそれと割り切って、受験生へとシフトチェンジしてゆくのだった。


 やがて卒業し、進学、浪人、或いは就職、就労。様々な道へと分岐した私たちだが、就労という選択は極めて少ないようだった。私は契約社員という雇用形態で、趣味に関連した業務内容の会社に就労した。

 照明さんだった先輩は、浪人を経て遠方の国立大学へと進学したらしい。あまり情報が入ってこなくて、この時期のことは後から聞くまで知らなかった。


 何しろ、インターネットも携帯電話もない時代である。遠方の人と連絡を取り合うには手紙が主な手段となった。そして私はこの時、まだ先輩とは手紙の遣り取りをする程の仲ではなかったのだ。

 二人でお茶を飲みながら話したことはあったかもしれないが、他の人ともする程度のことだった。つまり、幾人かの異性の友達の一人に過ぎなかったのである。


 そんな状況で時は流れ、数年後、久しぶりに演劇部のOB会に参加した。年に1〜2回開催される呑み会である。

 単に仕事や他の用事との兼ね合いでたまたま都合がついたからであるが、この時、例の先輩も集合場所に顔を見せていた。

 珍しく再会したので話をしながら皆が集まるの待ったが、いざ会場へ向かうという場面で、帰ると言う。理由を聞けば、所持金が心許ないという事情だったので、その日は私が立て替えることにして、ひとまず食事くらいして行ったら、と声をかけた。


 相手が誰であっても、状況が似ていれば同じ対応をしたと思う。短期間ではあっても濃密に関わった部活の仲間である。懐かしさと、完全なプライベートという社会人となってからは貴重な人間関係に名残惜しさを感じて、時間があるのなら一杯呑んで帰りなよ、と言いたくなるのが当然の心境というものだ。私はその場の流れで会費を立て替え、次に会う約束もなく、先輩とは一次会で別れた。


 後日。会社勤めの帰りに、一人暮らしの家へと最寄り駅から徒歩で急ぐ途中、不意に声をかけられて振り返ると、先輩が楽器のソフトケースを担いで他に荷物もなく、ふらりと立っていた。

 前回、呑み会の会費を立て替えた時から随分経っており、その会費も返還されていない状況で、私は驚きながらも、お金を返しに来たのだろうか、と思った。


 しかし。

 久しぶりだねと互いに挨拶した後、先輩の口から出てきた言葉は、とんでもない近況報告であった。

 今から死のうと思う。手段を決めていないので、とりあえず今夜は野宿する、と。

 雪がちらつく真冬の夜更けに、往来で立ち止まっているのも寒いというのに、どこで野宿するのか。装備もなしに、それこそ凍死するだろう。


 私は、事態の異常さに驚くよりも、最後の目撃者になりたくない、私の所為せいで人が死ぬのは避けたいという極めて自己中心的かつ打算的な理由で、そんなに親しくもない異性の先輩を自宅に招いた。

 まあ、とりあえず今は室内で暖まって、何か食べたほうが良いと。

 先輩は、遠慮なく私の家に来た。


 なけなしの食材で簡単な調理をして食事を提供し、冬なので入浴は省いて、男なので床で寝てもらったが、一番暖かい毛布を貸した。

 お金のことには触れなかった。失業していると先に聞いてしまったから。

 温まって落ち着くと、彼は大学を中退したこと、その原因が女性関係で、男子学生に対して傷害事件を起こしたことによる自主退学であること、その女性には激しく未練があること、これから死ぬこと、など等いろいろと話した。


 できれば聞きたくなかった話ばかり一晩中、成り行き上、耳を傾けて。翌朝も出勤だというのに、私は入浴もできず一睡もしないまま、起床時刻を迎えた。

 まだ早朝と呼ぶべき時間に、彼の母親から私の家に電話があった。当時はまだ、個人の連絡先を記載した名簿が、新学期の度に世帯に一部、印刷物として配布されていた時代だったのだ。


 私は、彼は家には来ていないし行先もわからない、昨夜久しぶりに会ったが、普通に挨拶を交わしただけですぐに別れた、と方便を言った。

 自分が、男性をホイホイ家に泊めるような女だと思われたくないからである。また、面倒事には極力、関わりたくなかった。完全なる自己都合。

 ところが彼は、私の機転に途轍もなく感謝を示し、挙句には、もう一泊させてくれと言い出した。

 真冬に行く宛もない人を追い出すわけにも行かず、私は承諾し、普段通り会社へ行った。


 これが最初の「死にたい」発言の経緯であった。

 この後も、何かと死ぬとか死にたいとか常に聞かされていた記憶がある。挨拶のように、息をするように言っていた希死念慮の言葉。

 私はまだこの時、精神疾患や自殺願望の心理について詳しく知らなかった。身近なものという認識もなかった。


 私は、彼と似た機能不全家族という育ちの経験を持ちながらも、負けず嫌いの性格が勝り、何があっても生きてやると歯を食いしばって踏ん張るタイプだったので、正直、彼の気持ちはまったく理解できなかった。想像さえ及ばなかったのである。

 そして、就職が決まって、仕事も軌道に乗り、生活が順調になってくると、彼は死にたいとは一切言わなくなった。


 更に数年が経ち、私は遠方に転居して新生活を送っていた。念願の趣味の活動や、好きなことに関わる仕事、魅力的な友人が増えたこと、それなりに充実した日々を過ごしていた。

 先輩とは時々、電話や携帯メールで遣り取りをすることもあったが、日常的にという程ではなく、何かあった時、用事がある時だけに留まった。


 それでも、恋人から見ると、彼の存在は相当気になるものだったようで、私は、この辺りから運命というか不条理というか、強い不可抗力を感じるようになっていた。

 やがて大都会で心身ともに消耗し切った私の弱みに手を差し伸べるようにして、先輩は、地方に帰って結婚しようと私に言った。恋愛期間、恋愛感情ゼロ。いきなりのプロポーズ。


 力尽きる寸前、風前の灯火だった私は、藁をも掴む気持ちで、付き合いの長い先輩なら人として信頼できるから生きてゆけると思った。世界にたった一人、頼りにできる人だと感じていた。

 会う度に、死にたいと言っていた人が、私と一緒に未来を見てみたいと言う。

 二人なら大丈夫だと。必ず、幸せにすると。こんな優しさに触れて、傷ついた心が傾かないわけがなかった。


 私は愛する街に別れを告げて、かつて逃げ出すようにして捨てた地方へ帰ることになった。

 田舎特有の虐めみたいなものに苦しむこともあったが、子供を授かって、私は母親になり、今まで感じたこともない幸福感と、生きる自信のようなものを獲得した。

 彼も自分の家族を持つことで、幸福を感じて生きていたと思う。

 だが、貧困に蝕まれるようにして、生活も平穏な心も徐々に破綻していった。彼は結婚当初に相談もなく会社を辞めてから、私が二人の子を出産した五年の間、まともに就職できていなかった。


 仲違いではなかったが、絶望に辿り着いた私たちは離婚し、私はシングルマザーになった。

 離婚の直前、彼は極度の希死念慮に苛まれていたらしく、自分のことしか考えられなくなり、多くの友人たちに迷惑をかけたようだった。この頃、頑なに病院受診を拒否した彼は、診断を受けていなかった。

 夜更けに、いきなり知人の家へ訪ねて行って一方的に話したり、泊まり込んだり、徘徊や奇行の数々は、四歳と一歳の娘たちを必死に育てていた私には伝えられることはなかった。


 別居してからも連絡は取り合っていたのだが、ようやく今後の暮らしの目処がついたような報告をもらった後、ある日の深夜に、感謝と愛の言葉を綴った異質なメールを受信した。

 私は、彼が自殺を実行すると決めたことを悟った。すぐに親族に連絡して、何らかの邪魔立てをすれば命を助けることが可能であったかもしれない。けれど、そうする気にはなれなかった。


 最期に、真実の気持ちを伝える相手として迷わず私を選び、過去の幸福な日々に感謝する、もう充分に生きた、楽になりたい。まるで甘えるように素直に思いを吐露した言葉を、そのまま心の奥底に受けとめるのが私の最後の務めだと思ったからだ。

 根拠はない。妻であった人間として、直感しただけ。だが、不思議なくらい迷いはなかった。

 私は返信を打つことなく、彼の気持ちを呑み込んで眠った。


 翌朝、相手の親族からの断罪の電話で朝を迎えた。

 人殺し。お前の所為で、兄さんは死んだ。兄を返せ。家族を返せ。

 私は、何も答えられなかった。そうかもしれない。救えなかった。何もしなかった。

 だけど、血の繋がった家族には伝わらなかった彼の思いを、私は確かに受け取ったのだ。後悔はなかった。悲しみというより、虚しさ、現実の中で虚無感だけが、私を包んだ。


 その日から、常に私の頭の中に、自殺とは何か、という問いが渦巻いていた。


 私にも、過去には、死にたいと思った日々はあった。毎日、生きていることがつらくて仕方がなくて、消えたい、居なくなりたい、何もかもなかったことにしたいと思った。

 けれども、私の命をこの世に繋ぎ止めたのは、少しの責任感、或いはちっぽけなプライド、現実的には、僅かな借金であった。

 きちんと精算するまでは死ねない。放棄できない。みっともない。そんな詰まらないプライドが、私を生かしてきたのだ。

 本当に心底絶望した人から見たら、そんなことを考えているうちは本気じゃない、ということになるのだろうか?


 そもそも人はどうして死にたくなるのか。苦しみから逃れたい、もう何も考えたくない、これ以上不幸になりたくない、自分の存在が許せない。人それぞれ、いろいろあるだろう。

 しかし、希死念慮というのは、病気の症状ではないのか。死にたいくらいつらい気持ち(自発的な感情)と、抗えない希死念慮(突発的に強く襲い来る感覚)は別物ではないのか。

 精神疾患について考えるうちに、疑問が湧いてきた。

 彼の死因は、自責の念や逃避願望(積極的な自分の意思)ではなく、感情とは別次元の、病状の悪化(発作的な行動)だったのではないかと。


 勿論、それは最悪の事態であることに変わりないけれども、明確な理由とか、決定的な外的原因があるわけではなくて、あくまでも病状。

 極端な言い方をすれば、彼の死因は「病死」ではないのか。単なる逃げとか弱さではないという意味で。

 そんな当たり前の事実にようやく気がついた。


 自殺には様々な手段があり、何らかの積極的な行動によって自らの生命を断つわけだが、その行動を起こしているのは脳であり、精神疾患とは即ち、脳の疾患である。

 心の病なんて言い方には語弊がある。列記とした病気なのだ。骨が折れたり、癌が発生したりするのと同じように、ダメージを受けて、脳に異常をきたす病気が精神疾患なのである。


 彼は、後の診断によれば重度の鬱病(双極性障害の疑いもある)を患っていたが、診断を受けていない人であったとしても、たとえ一瞬でも脳が正常に作動しない時があり、まさにその時に希死念慮があったとすれば、迷いもなく自殺を起こしてしまう可能性は、誰にでも、充分にあると言える。


 また一方で、希死念慮がなく、死にたいなんてあまり考えずに淡々と生きている人でも、休むことなく身を削って働き、或いは何らかの困難によってつらい日常を送っているのであれば、その生き方は、もはや緩やな自殺に他ならない。

 更に突き詰めれば、苦労の少ない人生であっても、人は必ず訪れる死に向かって、着実に日々近づいて行くことしかできないのであり、生きていること自体が、緩やかな自殺であるとも言えるのだ。


 事故死、病死、自然死、不審死。結局は、すべて寿命なのではないかと、私は自分なりの結論として、考えるようになった。

 世の中には、理不尽な死も多い。心の底から生きたかった人が突然死んでしまうことだってある。

 そんな中で、自ら命を断つ自殺は罪深い行為のようにも思われるが、本人にとっては、抗えない希死念慮という病状の悪化であり、その実情は、もしかすると誰よりも苦しいのかもしれない。


 肉体的に強い痛みを伴う病気には、緩和ケアと呼ばれる終末の治療が存在するが、精神疾患は、どんなにつらくてもその痛みが形をとって見えないから、ケアが施されにくい。

 病気そのものにさえ気づいてもらえない(自分でも気づかない)ことが多く、たとえ正式に病気として診断されていても、多くの人々には正しく理解されない。


 インターネットなどが発達した現代では、昔に比べれば一般的に知識のレベルでは向上したのかもしれないが、その分、誤った情報や誹謗中傷も増えて善し悪しだ。近年は、そう考えるようになった。

 自殺を選んだ彼に対しては、特別な感情はなく、ただ安らかに眠ってほしいと願うばかりである。


 もしも生きていたら、と考えることがないと言えば嘘になるけれど。

 亡くなったことによって、彼は私の中で、永遠に特別な人となったことは紛れもない事実で、生きている人には、何があろうと絶対に変えられないし越えられない。それを思うと、自殺願望を実行に移した彼のある種の覚悟というか、執念のようなものを感じないわけにはいかないのである。


 私は、残された者として生きることを強いられた。それは自ら選んだ人生でもある。

 だからこそ、難治性の病との闘いにもめげず、誰かに後ろ指さされようとも、しぶとく生き延びてきた。


 もしもこの先、私に自殺願望が訪れるとしたら。多分、子育てを完了して、私が居なくても大丈夫、と確信或いは納得ができた時。

 燃え尽き症候群という言葉もあるように、他者に対する生きる責任から解放された時(そんな時が来るのかどうかは不明)ではないだろうか。

 張り詰めていた糸が、ぷつりと切れるように。


 心が折れる時。

 こう書くと、自殺とは病死、或いは、精神の骨折とも表せるかもしれない。

 どちらにせよ寿命であると、私は思うのだ。


 死にたくなる程つらい人に対して、生きろと激励するのは、餓死寸前の人に何も与えず、気合いを入れろと叱咤するのに等しい。

 まずは、栄養不足ならば点滴や食事を与えるように、精神が傷んでいるならば何かしら安心感を与えるべきなのである。

 そして、理解できないものを恐れたり排除しようとしたりせず、そっとしておく。そういうものとして一旦認める。その知性を大切にしたい。

 人類は、もう少し寛容になればいい。たったそれだけで救われる命が、もしかしたら、少なからず在るのかもしれないから。


 幸福とは、緩やかであることかもしれないと、私は近頃思っている。

 もう少し、力を抜きたい。なんだか「死にたい」とそんなに変わらないような、不思議な気持ちになってくる。私は確かに「生きたい」と強く願っているのに。

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