最終話 一夜のキリトリセン
列車は低いエンジン音を立てながら迫ってきた。右手の暗がりに前照灯の二つの光が近づいてくる。
ファーン
谷間にディーゼルカーの警笛が響いた。一年に一度走る631D列車の幻。その列車には、未練を残して亡くなった転落事故の犠牲者が乗っている、と人は言う。
『一夜のキリトリセン』が今年もやってきた。
「先頭車両の前から三番目の窓だ。亜希子も、しおりを見てやってくれ。頼む」
「はい。しっかり、見ます」
亜希子は真剣に頷いてくれた。その真摯な表情に、俺は勇気づけられた。
ディーゼルカーは25‰の登り勾配を全力で登ってきた。俺たちの目前でもう一度警笛を鳴らして、ゆっくり、ゆっくり、通り過ぎて行く。
その先頭車両の三番目の窓際。
しおりは今年も頬杖をついて列車の窓からせつなげな視線で座っていた。あのころの、おかっぱにセーラー服の姿のままで。
俺は右手の花束を列車に向かって思い切り投げ込む。通過する列車の風圧で花びらが何枚かちぎれてふわふわと舞って行った。
「しおりー! ごめんなー!」
しおり、ごめんな。いろいろ、ごめんな。ホントに、ごめんな。
国立大学行くとかバカ言って、ごめんな。
お前だけ早く帰れって言って、ごめんな。
結局好きって言い出せなくて、ごめんな。
「あっ!」
俺の後ろで黙って列車の窓と舞う花びらを見ていた亜希子が声を上げた。
「修二さん、見てください。しおりさんが!」
亜希子の指さす先の列車の窓には、せつなげに頬杖をついて車窓を見ていたしおりが、俺の投げた花束に少し微笑みながら目を向けていた。そして線路際の俺と亜希子をはっきりと見据えた。はっきりと俺は、しおりと目が合った。
「しおりさんが、こっちを見ています!」
信じられない。『一夜のキリトリセン』に乗ったしおりが、俺をまっすぐ見据えている。
今までの一夜のキリトリセンでのしおりは、せつないのか憂鬱なのか、少し湿っぽい表情のまま、俺を一顧だにすることなく通り過ぎていくばかりだった。なのに、今年は、俺を見つめている。まっすぐ、俺を見つめている。𠮟責することなく、詰ることなく、ただ純粋に俺を見つめている。
しおりはにっこりと笑顔になって、俺と亜希子に向けてひらひらと手を振った。
「しおりー!」
列車はそのままエンジン音を響かせながら通り過ぎて行った。俺は、その赤いテールランプを追って、思わず線路の上を駆け出していた。
バラストに足を取られながら何歩か走ったところで、去りゆく列車の上空に、満点の星空を背にして、セーラー服姿のしおりがふわりと浮かび上がった。まるで、女神のように。
そして、俺の耳に軽やかな少女の声が響く。
昔、聞き慣れていた声。もう一度聞きたかった声。
―――修二くん、その人がフィアンセなの?
「しおり!!」
―――私、ずっと心配してたんだよ? やっといい人に見つけてもらえたんだね。
「しおり! しおり!」
―――これで私もキリトリセンを降りることができるよ。お幸せにね。
「しおりーっ!!」
◇
JR桐鳥線
松台駅から桐鳥村の桐鳥駅まで、桐鳥川の渓谷に沿って結んだ、全長三十四キロメートルのローカル線。昭和〇年に沿線の木材搬出用に建設された。平成〇年夏の大雨により全線に渡って甚大な被害を受け、復旧には八十億円以上の費用が見込まれたことから、結局復旧されることなくそのまま廃線となった。
この大雨の際、走行中だった631D列車(ディーゼルカー二両編成)が土砂崩れに巻き込まれて谷底に転落し、乗客乗員十二名全員が死亡する事故を起こしている。
桐鳥村では年に一度、八月の当該事故のあった日にこの631D列車の幻が走ると信じられており、駅や線路を手入れして犠牲者を供養する習慣になっている。この631D列車の幻は、桐鳥村を中心に「一夜のキリトリセン」と呼ばれている。
(ネット百科事典より)
◇
翌朝。家を出ようとした俺と亜希子は、玄関先でみずえに呼び止められた。
「あれー、お兄ちゃんたち、どこ行くの?」
「墓参り」
「あー、珍しいね。お兄ちゃんからお墓行くって言いだすの」
「みーはうるさい。亜希子、行くぞ」
「みずえちゃん、ちょっと行ってくるね」
「亜希子さん、いってらっしゃーい」
外はいい天気だった。お墓に向かう途中の上り坂で、亜希子がさらりと声をかけてくる。
「修二さん」
「ん?」
「しおりさん、キリトリセンを降りる、と言ってましたよね」
「そう言ってたな」
「修二さん、一夜のキリトリセンは犠牲者の未練を乗せて走っている、とおっしゃいましたよね。それは……」
「間違い、だったな。昨日のしおりの声で分かったよ」
右手に持ったバケツを左手に持ち替えて、俺は亜希子に向かって呟く。
「一夜のキリトリセンは犠牲者の未練、しおりの未練を乗せていたんじゃない。あれに乗っていたのは、俺のしおりに対する未練、だったんだな」
「ええ。いつまでも悩んでいたらいけないよ、としおりさんもずっと思っていらっしゃったみたいですね」
「しおりに怒られてしまったんだな、俺は」
「いいえ……、」
亜希子はそこで言葉を切って、優しく俺を見つめた。
「しおりさんは修二さんを励まされたのだと思いますよ」
高台にある墓への小道からは桐鳥線の線路が眼下によく見える。その線路に、列車はもう走っていない。しかし、一年に一度、八月の最後の新月の夜に631D列車の幻が走る、と桐鳥村では信じられている。
小道のガードレールにふう、と息をついてもたれた亜希子は、汗を拭きながら眩しそうに桐鳥線の線路を眺めた。
「ねえ、修二さん。来年も来ましょう。一夜のキリトリセンを見送りに」
「え? いいのか?」
「いいも悪いもありませんよ。一夜のキリトリセンが走る限り、見送り続けましょう」
「亜希子……」
「でも、もう、しおりさんは乗っていないと思いますけどね」
そう言ってふふふ、と含み笑いをすると、再び亜希子は線路に目を向けた。
青空の下には、山と線路と水面がきらめく川が見えていた。
一夜のキリトリセン ~夜空に汽笛の響く時 ゆうすけ @Hasahina214
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