第3話 汽笛が再び響くとき


 夜の色が濃くなり、星の光が増してくる。

 故郷の空は、山並みにさえぎられて狭い。しかし、都会にはない深みがそこにはある。今日は新月。月明りのない夜空では、散りばめられた光の粒がきらめく。


 俺は廃線のそばの桜の木の根元に腰を下ろして、鈍く輝く線路を見つめていた。もう、列車の走ることのない線路は、眠るように静かに佇んでいる。


(しおり……)


 俺は心の中で呼びかけて、手に持った花束を見つめた。


(お前に花束を贈るのは、悪いけど今年で最後にするよ。俺は、亜希子っていう子と結婚することにしたんだ。いいヤツなんだよ。しおりに、負けないくらい)


(もうすぐ今年の『一夜のキリトリセン』だよな。ホントに勝手だよな。でも、ここに来て、しおりに謝るのは今年で最後にする。でも、これからもずっと謝り続ける。だから俺を許してくれ)


 月明りのない暗がりでは腕時計も見づらい。いささか不謹慎な気もしたが、スマホで時間を確認すると十八時二十六分になっていた。


 あと五分。


 俺は深呼吸して静かに時を待った。


 突然背後でがさがさと下草を踏みしめる音がして、懐中電灯が俺を照らした。まぶしさに思わず目を細める。


「修二さん」

「……なんだ、亜希子か。一人で来たのか? 怖くなかったのか?」


 声の主は一声で分かった。しかし、どうして亜希子がわざわざここへ来たのか分からない。田舎の暗い夜道を一人で歩いてくるなんて、彼女の性格からしたら怖がりそうな気がする。亜希子は生粋の都会育ちだ。


「星空が、すごく綺麗ですよね。私、こんなにたくさんの星を見るの、初めてかもしれません」

「それだけここが田舎だってことさ。この奥の山の上には天体観測所もあるぐらいだから」

「修二さん、みずえちゃんに……聞きました。修二さんが今日、この場所に来る理由も、目的も。そして、おそらく修二さんの考えていることも」

「……そうか。あいつ、話したのか」

「みずえちゃん、きっと修二さんはここで『一夜のキリトリセン』を待ってるから、一緒にしおりさんを見送ってあげて、と私に言ったんですよ」


 亜希子はすっきりした瞳で俺を見つめた。その視線は俺を責めてもいない。亜希子は、目の前に横たわる線路を見つめて言った。


「この線路は、もう列車は走っていないのですね」

「ああ。『キリトリセン』の話は、みーに聞いたか?」

「はい。山のあちこちが崩れて、そのまま復旧されずに廃線になったと聞きました」

「そう。しおりの乗った631D列車は土砂崩れに巻き込まれた。死亡した十二名のうちの一人がしおりだった」


 亜希子は無言で俺に続きを促した。


「俺が早く帰れと言ったばっかりに、しおりは巻き込まれてしまった。もっと言えば、俺がしおりと同じ国立大学を受けるなんてバカなこと言ったから、あんなことになったんだ。俺がいなかったら、あんな大雨の日にまで補習を受けること、なかったんだ」

「修二さん、それをずっと気にしていたんですね? 前から修二さんが時折見せる苦しそうな表情、なんだろう、と思ってたんです」


 亜希子はそう言って控えめにほほ笑んだ。


「でも、修二さん、それは考えすぎですよ。自罰的すぎると私は思います」

「みんな、そう言ってくれる。けど結果的に見たら、全部俺のせいじゃないか。そうだろ?」

「いえ、そうは思いませんよ」


 亜希子はあくまで柔らかい表情で続ける。


「もし世の中に逆らえないものがあるとしたら、それはもう運命だとして受け入れるしかない、と思います。しおりさんもそれは分かっているのではないでしょうか。それをずっと気にしている方が、しおりさんも喜びませんよ」

「亜希子、『一夜のキリトリセン』の意味も聞いたのか?」

「はい。一年に一度だけ、廃止になったはずの線路に幻の列車が走る、という話ですね」

「そうだ。でも、大事なのは、そこじゃない」


 亜希子はセミロングの髪を揺らして俺の方へ向き直った。


「事故から一年後、廃止になっていた線路に幻の列車が走っているのを、多数の村の人が目撃した。その列車には、犠牲になった人たちが乗っていたんだよ。きっと犠牲者の未練を乗せた列車が走ったんだろう、とみんなが言うようになった」


 事故の後、しばらくの間の俺の記憶は、まったく抜け落ちている。同級生や先生には、まるで抜け殻のように放心して痛々しかったと言われた。国立大学の受験には当然のように失敗し、浪人して結局県立大学に進学した。しおりのいない国立大学にはまるで魅力を感じなかったし、モチベーションも湧かなかった。


 大学入学後、俺は犠牲者を乗せた幻の列車が走ったと聞いて、線路際で列車を待った。しおりの乗っていた631Ⅾ列車は、時刻通りに俺の目の前を汽笛を鳴らして通り過ぎて行った。そして、その列車の窓ぎわ座って遠くを見ているしおりが、俺にははっきりと見えた。


 俺は、嬉しかった。そして悲しかった。それからまた俺は、しばらくの間、泣いて暮らした。


 事故のあったあの日には、犠牲者の未練を乗せた631Ⅾの幻が廃線を走る。列車がちゃんと走れるように、お盆の時期に駅や線路の草刈りをするのが、俺たち村の習慣になった。いつしかこの631Ⅾの幻は『一夜のキリトリセン』と呼ばれるようになっていた。俺は毎年『一夜のキリトリセン』を見送り、その列車の窓に遠くを見つめながら物憂げに佇むしおりを見て、そのたびに泣いた。枯れたと思っていた涙は、いつになっても尽きなかった。


「だからどうしても今日、この日に帰省したい、とおっしゃったのですね」

「しおりは、もっとやりたいことがあったはずだ。見たい景色があったはずなんだ。俺が、俺が、バカなことを言いさえしなければ……」

「修二さん!」


 始めて亜希子は咎めるように鋭く声をあげて、俺の話を遮った。遮ってもらって俺は助かったかもしれない。あのまま話し続けたら、きっとまた泣いていただろう。

 俺は子供だ。あやされている子供だ。でも、他に自分の気持ちの持って行き方を、俺は知らなかった。

 亜希子はまた柔らかな微笑みを含んだ表情と声色に戻って言う。


「それを自罰的だ、と言うのですよ。そんな修二さんを見ても、しおりさんは絶対に喜びません。しおりさんはきっと修二さんに前を向いてほしいはずですよ」

「違う! それは違う!」


 思わず鋭い声が出た。亜希子はじっと俺を見ている。


「しおりは、あったはずのしおり自身の未来を、求めてるんだよ。俺はそんなしおりの心残りの表情を、ここで何度も見ている。しおりが歩めなかった時間、それは俺がしおりから奪ってしまった時間なんだよ。あの時の俺が!」


 亜希子はじっと諭すような視線を、暗がりの中で俺に向けている。俺は顔をそむけるしかできない。


 うすい光の帯が亜希子の表情を少しずつ照らしてきた。谷間をかすかにふるわす汽笛の音も聞こえる。ディーゼルの低いうねるような音が少しずつ近づいてきた。


「修二さん、来ましたね。あれがしおりさんの乗っている『一夜のキリトリセン』なんですね」


 亜希子の声がゆるやかに響いた。少しずつ近づいて来るディーゼルカーが線路を叩く音。


「修二さん、私は、違うと思います。しおりさんが『一夜のキリトリセン』に乗っているのはしおりさんの未練なんかじゃない。修二さんの勘違いを正したいんだと思んです。しおりさんのこと、よくは知りませんが、きっとそうだろうと思います。しおりさんのこと、よく見てあげてください」


 亜希子の声は確信に満ちていた。

 線路の先の暗闇の中に、二筋の光を放つ前照灯が見えた。

 現実ではここにたどり着けなかった631D列車が、今年も闇を震わせて走ってきた。


 今では旧型となったディーゼルカーが、警笛を鳴らしながら迫ってくる。


 窓際に佇むしおりを、絶対見逃さない。

 今年で、最後だから、絶対見逃さない。


 俺は、右手に花束を握りしめて暗闇の中、ぐっと身構えた。


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