第2話 633Dは走らなかった


 夜、早めの夕ご飯を食べ終わった俺は誰にも言わずに家を抜け出して、廃線の線路際に来た。


 十八時二十分。わずかに西の空に残っていた薄暮の色も消え、黒々とそびえる両側の山に切り取られた星空が広がっている。夜の訪れは少しずつ、しかし確実に早くなってきている。


 あと十分ちょっとか。


 十三年前のあの日、十八時三十一分着の631D列車は、定刻になっても村の駅に姿を見せなかった。


 ◇


「しおり、あのさ、今日十七時四十分の列車に乗って帰れよ」

「えー、私も補習受けたいんだけど」


 高校三年生の夏休みも残りわずかとなったある日のことだった。

 俺は朝からみっちり補習を受けていた。国立大学進学を志望していた俺だが、普通に考えて中の上とも言えないような俺の成績では、無謀極まりなかった。補習を受けてもそう簡単には合格レベルに到達できるものではない。そんな俺が無茶という言葉でさえ生ぬるいような志望をしたのは、単にしおりがそこに行くと言うから。本当にそれだけが理由だった。


 セーラー服におかっぱのしおりは、高校の同級生では唯一、俺と同じ駅から列車に乗って高校に通ってきている。俺たちの村の人口は、わずか二千人。小学校は一つだけ。しおりとは小学校からずっと一緒だ。村内に同級生は俺としおりを入れて五人しかいない。小学校中学校は五人一緒だったが、列車で一時間弱のこの高校に来たのは俺としおりの二人、残りの二人は自転車で二十分ほどの隣町の商業高校、もう一人は下宿して県外の高校に進学していた。


「いや、しおりは補習受けなくても全然問題ないじゃなか。それより今日大雨警報出てるから遅くなるとやばいぜ?」


 その日は一足早い秋雨前線が接近して、朝から雨が強く降っていた。夜にはさらに強くなると天気予報は言っている。実際、職員室に置いてあるテレビで、大雨情報が禍々しく画面をL字に切り取っているのを俺は昼休みに目にしていた。渡り廊下の屋根を叩く雨音が一日中止むことはなく、時間がたつにつれて騒々しさを増して行った。「キミたち今日は帰るか? 警報出てるぞ」と先生も心配顔だった。


 教室の窓ガラスは流れ落ちる雨水を盛大に浴びて、校庭の景色を歪めて見せている。そんな状況でもしおりは涼しい顔で俺の呼びかけをさらりと受け流した。 

「それなら修二くんも一緒に帰ろうよ。うちのお父さんが駅まで迎えに来てくれるから」

「いや、俺は最後の英語の補習も受けて帰るよ。英語やべーもん、しおりと違って。だから俺はもう一本後の列車に乗って帰るから。しおりは一本前で帰れよ」

「えー」


 「しおりと違って」の言葉に思い切りアクセントをつけて話したが、それでもまだしおりは渋っている。校舎の外の雨脚がどんどん強くなっているのは、教室の中からでもはっきりと分かる。教室の窓ガラスが雨しぶきのスネアロールを奏でている。


「ほら、見てみろよ。ぐずぐず言ってると帰れなくなるぜ?」


 ようやくしおりは不承不承うなづいた。


「うーん、分かったよ。帰ったら教えてね、修二くん。補習の内容を」

「ああ? 俺がしおりに英語なんか教えられるもんか。冗談きついぜ」


 しおりはふふ、と笑って肩をすくめた。


「じゃ、私帰るから。明日またいつもの列車でね」


 そう言ってしおりはカバンに参考書を詰め込むと、お先に、とにっこり笑って軽やかに教室を出て行った。


 ◇


 補習が終わって帰ろうとすると、先生に呼び止められた。一瞬教師の声を変則リズムの雨音と聞き間違えそうになる。


「おい、修二。どうやら列車、不通になってるみたいだぞ」

「あー、やっぱりな。先生、一本前の十七時四十分の列車は動いたんですか?」


 俺の問いに先生は手元のFAX用紙に目を通す。学校には列車の運転にトラブルがあるとJRからFAXが届くらしい。


「十八時五十分発の633Dから運転中止って書いてあるから、その前の列車は動いたみたいだな」


 ああ、良かった。しおりが乗った列車はぎりぎり動いたんだ。しおりはちゃんと帰れているはずだ。俺は、まあ、なんとかなるだろう。


「そーですか。じゃあ俺、教室で時間つぶしてるんで。動き出したらまたFAX来るんですよね?」

「ああ、届いたら教えてやるよ」

「お願いしまーす」


 しかし、その夜、最後まで列車の運転は再開されなかった。道路も各所で通行止めになっているらしく、動きようがない。


 結局、身動きが取れなくなった先生と生徒、約十数人ほど校内で一晩明かすことになった。そのうちの一人が俺だ。先生がどしゃぶりの中、車で牛丼を買ってきてくれた。どこにしまってあるのか、畳と布団が教室にどさっと持ち込まれる。みんなで車座になって牛丼を食べていると非常事態という気がしない。


 すっかり陽も落ちた外は、まさしく竜が暴れるほどの大雨になっている。しかし、同級生たちと先生と校内にいると、それほど苦にならないし、不安もない。女子は着替えとかで苦労していたが、男子はその点のん気なもんだ。

 非常時の夜にもかかわらず、ちょっとした修学旅行気分に浸っていた。

 何よりしおりが一本前の列車に乗れたことが、安心していた理由の一つだ。あとでしおりに自慢してやるか。なんか楽しかったぜ、って。


「ねえねえ、修二君って好きな子とかいないのー?」

「そんなのいねーよ」

「きゃー、嘘ばっかー!」


 とうとう恋バナまで始まってしまっている。非常時でも楽しいもんは仕方がない。なんかちょっと楽しい夜になったな、と俺は思った。


 しかし、楽しかったのは翌朝、寝ぼけ眼で職員室のテレビニュースを見るまでだった。


 ―――土砂崩れに巻き込まれて列車が川底に転落。乗客乗員十二人行方不明

 昨日の大雨でJR線松台発桐鳥行631D列車が、走行中に土砂崩れに巻き込まれて川底に転落しました。車内にいた乗客乗員十二人全員が行方不明となっており―――

 

 俺が乗ろうとした十八時五十分の列車が633D。631Dというのはその一本前。まさか。まさか。……嘘、だよな。勘違いだよな。


「先生! 先生! しおりは、しおりは、大丈夫ですよね? ちゃんと家に帰ってますよね?」



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