CELL~大好きだった君へ~

@linne

第1話

美奈は机の上のドナルドダックの時計を睨みつけた。

「翔平君おっそいなぁ。待ちつかれちゃったよ」

12時にやってくるはずの翔平は約束の時間を20分過ぎても姿を見せていなかった。

美奈が翔平と付き合い始めて最初の夏休みは、2人だけの小旅行で幕を開ける予定だった。

親には友達みんなでキャンプに行く、と言ってあるのだが、実際のところ一緒なのは行き先だけで、みんなとは別行動なのである。みんなが電車で行ってテント暮らしをするのに対して、美奈達は翔平の車で行き、バンガローに泊まることにしていた。

すっかり荷造りされたボストンバッグを抱え込んで、美奈は口を尖らした。

不意に、前触れなく机の上で携帯が暴れ出した。

美奈は慌てて立ち上がると、携帯の通話ボタンを押した。

「もしもし?」

-あ、ミナ? 俺だけど。ちょっと道が混んでてさ。ちょっと遅れるんだけど、ごめんね。

「もう遅れてるよー」

-わかってる。あと10分くらいだから、待ってて。

「今どの辺?」

-んー。国道の…


その後に何が起こったのか、すぐにはよく分からなかった。

耳のすぐ側で黒板を引っかくようなものすごい音がしたかと思うと、通話が切れてしまったのである。

「翔平? しょうへいっ!!」

美奈は震える手で翔平の携帯に電話をかけた。

プルプルプルプル、プルプルプルプル…。

呼び出し音が永遠と思われるほど響いて、留守番電話に切り替わった。

「しょうへい?どうしたの?翔平…」

いやな、予感がした。予感と言うより、それは確信だった。

(ショウヘイ、ジコニアッタンダ…)

美奈は頭が真っ白になるのを感じた。


美奈のところに翔平の母親から電話があったのは、その日の夕方だった。何度か会って話したことがあるのに、その時と比べると幾分堅い口調で、

「翔平、今日の午後、事故にあってね。すぐに病院に運ばれたんだけれど、即死だったそうなの。私もまだ信じられないのだけれど…。お葬式の時間なんかが決まったら、また連絡しますね」

と言う。

「そう…ですか。わざわざ…」

ありがとうございます、と言おうとして美奈は突然涙にくれた。

「美奈ちゃん、悲しいのは私も同じけれど、あなたに泣いてばかりいられたら、翔平だって浮かばれないわ。どうか気を確かにね」

「はい。ごめんなさい…」

電話を切ってからも、涙は止まるどころか勢いを増して、くたくたになってなんで泣いているのか分からないくらいになっても止まらなかった。もちろん、泣いている理由は翔平がもうこの世にいないから、だったが、それだけではなかった。翔平は、美奈との電話中に交差点でトラックに横からあたられる、という事故に遭ったのである。もし、電話中でなかったなら、避けられたかもしれない事故だったのだ…。


翔平の葬式が終わり、一週間が瞬く間に過ぎたが夏休み中ということもあって、美奈は寝てばかりいた。

具合が悪いのではなかったけれど、見るもの全てが翔平との思い出を蘇らせるのが辛かったのだ。翔平のくれたものが、何よりも大切なものであるのと同時に、何よりも避けたいものであった。

食事もろくに口にせずに寝てばかりいる美奈に対して、母親も初めのうちは色々と小言を言ったりなだめたりしていたのだが、さすがにあきらめたものらしかった。


そんなある日、唐突に美奈の携帯電話が鳴った。

美奈は翔平の事故以来、携帯の電源を切っていたので、奇妙に思いながらそれを取り上げた。

そして、液晶画面に映し出された番号を見て、悲鳴を上げそうになった。それは、翔平だった。

「もしもし? 翔平? 翔平なの?!」

そんなはずがない、という事は分かっていたけれども美奈は無我夢中だった。

-ミナ?

「翔平、そこにいるのね?」

-ミナ? 俺…

「何も…何も言わなくていい。いいの。翔平…」

-ごめんな。キャンプ行けなくて。

「ううん。そんなこといいよ。こうやって電話かけてきてくれたんだもん」

-俺、どこにいるんだろう。何か…


翔平は何か言ったようだったが、それは聞き取れなかった。そして、通話が途切れた。

美奈は手の中の携帯電話を見つめた。何がどうなっているのかは分からなかったけれど、確かに電話の声は翔平のものだった。

なんとなく元気になって、美奈はその日、一週間ぶりに散歩に出て母親を安心させた。


翔平は、それからも時々電話をかけてきた。

長いこと話すことはなかったけれども、一日に4、5回は電話があった。

翔平と出会った大学のサークルの友達の消息や、卒業していく翔平と2度と会えなくなる前に、と美奈が勇気をふるって告白したバレンタインデーのことなど、他愛もないことを色々と話した。


-ほんとはさ、ミナを初めて見た時に可愛い子だな、と思ったんだよ。

「嘘。あたしが告白するまで、全然気にしてないみたいだったもん」

-あれー、鈍感だったんだな。俺の熱い視線に気づいてなかったのか。


「葉子がね、一郎君と付き合い始めたんだよ」

-えー、一郎?

「何? なんかあるの?」

-うーん。こんなこというのもあれだけど、あいつ、ああ見えて結構遊んでるぜ? 葉子ちゃんって割とおとなしめな感じだろ? さりげなく気をつけるように言ってあげた方がいいかもよ


「ずっと前に、まだ付き合い始める前に、傘貸してくれたの覚えてる?」

-覚えてるよ。冬だろ?

「うん、急に降ってきて、あたしが傘持ってなかったから、翔平が貸してくれたの。あたしね、あの時じゃないかな、翔平のこと好きになったの」

-なんだよ。それまでは何とも思ってなかったのか?

「違うよ。かっこいい先輩だなぁ、とは思ってたけど、きっと彼女がいるんだろうな、とか一人で思ってて…」

-じゃ、俺の方が先だな。好きになったのは。

「どうだか。でも、あの時にね、傘を貸してくれたのも嬉しかったんだけど、相合傘で歩けたらいいのに、と思っちゃってね。そしたら、不意に、『この人のこと好きなんだ、あたし』って気づいたの」


-昔さ、マックのハンバーガーにミミズが入ってるって噂があったの覚えてる?

「えー、何それ? 気持ち悪い…」

-あったんだって、そういう噂が。あれ、ほんとだったのかな?

「牛100%って書いてあるよ?」

-それは建前かもしれないだろ?

「やだー、そんなの。こないだ食べちゃったよ」

-でもさ、考え様によっちゃ、ミミズだろうが、おいしいと思えばそれでいいんだよなぁ

「よくないよー。おいしくったって、ミミズは食べたくないもん…」


キリがなかった。

けれども、その時間の全てが、翔平を失ってから半分死人のような生活を送っていた美奈に活力を呼び戻す糧となっていった。

美奈は、いついかなる時に電話がかかってきてもいいように、と前にもまして携帯電話が手放せなくなっていた。


初めのうちこそ、娘に明るさが戻ったことを喜んでいた美奈の母親だったが、時々むしろ明るすぎるのではないか、と思うことがあった。あたらしい彼氏でも出来れば立ち直るだろう、とは思っていたけれども、美奈はろくに表にも出ないし、いつもテレビゲームをしているか、友達と電話をしているか、音楽を聴いているだけなのである。誰かと出会うチャンスがあるとも思えなかった。 さりげなく「最近仲のいい男の子でもできたの?」と聞いてみても、「まさか」と一笑に付されるだけである。

(翔平君の死が受け入れられていないのかしら…)

そんなことをふっと思う瞬間があった。


心配の種は尽きなかった。ある日、食事中に

「ごめん、電話」

と言ったかと思うと、美奈はポケットから携帯を取り出し、自分の部屋へと駆け戻っていってしまった。それだけなら、最近の若い子は…。で済むことである。けれども、美奈の携帯は、鳴りも震えもしていなかったのである。そして、食卓に背を向けながら美奈が口にした名前は、確かに「翔平」であった、と美奈の母親は思った。押し寄せる不安を、それでも美奈は前よりもいい状態にあるのだから、と無理に押しとどめて、彼女は娘の食べかけの食事にラップをかけるのだった。


「ねぇ、翔平?」

-ん?

「今年の誕生日は、何にも作ってあげられないね」

-そんなことないよ。

「だって、翔平…」


美奈は誕生日やクリスマス、バレンタインデーなど、事あるごとに翔平にお菓子やセーターなど、手作りの物をプレゼントしてきたのだ。だが、今年は翔平の誕生日を2人で祝うことが出来ないことが分かっていた。美奈の母親の心配をよそに、彼女は翔平の死をきちんと認識していた。出来るだけその事には触れないようにしていたが、翔平も自分が本来ならば美奈と話を出来る状態にないことを知っていた。

一回一回の電話の時間が短いのもそのためらしかった。また、美奈から翔平に電話をかけることも出来ないようだった。圏外である、と愛想のない録音の女性の声に告げられるだけだったのだ。


-ミナが俺のために何か作ってくれるというのなら、リクエストしてもいいかな?

「何? なにかほしいものがあるの?」

-詩が欲しい。前、手紙に書いてくれたりしただろ? あんな感じの詩が欲しい。それなら、電話口で読んでもらえばいいんだから。

「ん。わかった。いっぱい作ってあげる」


その日を境に、美奈は詩を書き始めた。もともと書くのは好きな方であったし、表に出る気もしなかったから、じきに沢山の詩が書き上げられた。内容は様々だった。自然についてだったり、恋愛についてだったり、時としては命についてだったりした。翔平はそれが気に入ったようで、いつも「ミナには才能がある。もっと書いて欲しい」と言っていた。


ところが、詩のノートが2冊目に突入してしばらくした頃、突然翔平からの電話が途切れてしまった。

全く突然に、かかってこなくなったのである。前触れなど何もなかった。美奈は一日中鳴らない携帯電話を眺めて過ごした。たまに友達から電話があると、「待っている電話があるから」と言ってすぐに切ってしまった。そして、もしかすると、今電話中に翔平がかけてきていたのではないか、と不安になるのだった。2日間電話がなかった時点で、美奈は自分からかけてみることにした。


聞きなれた、圏外である、というメッセージが流れるものと思っていたのだが、代わりに聞こえてきたのは、「この電話番号は現在使用されていません。もう一度お確かめになっておかけ下さい」というものだった。


思い当たる節があって、美奈は翔平の家に電話をかけた。

「あら?美奈ちゃん。ご無沙汰ね。お元気?」

「はい。おかげさまで。そちらはいかがですか?」

「そうねぇ、主人も私もようやくあの子がいない生活というのに慣れてきましたよ。慣れてしまいたくないのに、やっぱり痛みがだんだん和らいでいくのね」

「そうですか。…あの、一つお伺いしたいんですけれども、翔平君の携帯電話、解約なさいました?」

「ええ。もう使っていないのに、基本料と言うので銀行から自動引き落としになっていて。それがなにか?」

「いえ。ちょっと気になっただけなんです」

「そう?学校はそろそろ始まるの?」

「はい…。あの、失礼します」


美奈は返事を待たずに受話器を置いた。世界が急速に現実味を失っていくような気がした。

翔平とのたった一つのつながりが断たれてしまったのである。その場に立ち尽くしたまま、美奈はしばらく途方に暮れた。携帯電話の会社に電話をかけて電話番号からファイルを探し出してもらって繋ぎなおそうともしたけれども、機体のシリアルナンバーが分からないとどうしようもない、と言われてしまった。


美奈はもう一度翔平を失ってしまったのだった。

再び部屋に閉じこもるようになってしまった美奈を、両親は医者に連れて行こうとさえした。

大丈夫だから、と抵抗しながら、美奈は生きる意味を見失いかけていた。


そんな時、目に留まったのは自分が翔平のために書いた詩の詰まったノートだった。

そっと開いて、一つ一つ時間をかけて読み返した。

そして、その度毎に翔平のくれたコメントが耳元で蘇り、そっと涙を流した。 実際は、コメントしていた時点で翔平は死んでいたのだが…。


ふと思い付いて、美奈はもう一つ、詩を追加することにした。


大好きだった君へ

君なしでは生きられないと思っていた

君なしでは生きられないと。

それがドラマで手に入れた

安っぽい妄想だったと知った。

君なしの今は寂しいけれど

それでも私は生きている。

君が沢山の強さをくれたから…


大好きだった君へ

ありがとう

そして

さようなら

いつかまたどこかで

会えるようにと祈っています。


書き終えた自分の詩を声に出して読むと、翔平の声が聞こえた。

-それでいいんだよ、ミナ。

ずっと携帯電話の中に閉じ込められていたと思った翔平は、本当は美奈の心の中にいたのだ。

そう気づいて、

「最初から、そこにいたんだね」

と囁き、美奈は小さく笑った。

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