一夜のキリトリセン

蜜柑桜

夜空のキリトリセン

 夜風が草を撫でる音が聞こえる。遠くに光る宝石箱のような街の灯りを見下ろす丘の上。電飾の代わりに身に降りかかるのは空を埋め尽くす眩い光の粒。それは丘をすっぽり包み込み、宙に浮いているかという錯覚を起こさせる。


 けして絵には描けそうにない、濃紺色のキャンバスに描かれた美しい点描。それに向かって伸び切るまで手を伸ばす。


 カシャッ。


「よしっ」

 腹筋に力を入れて地面につけた頭と背中を勢いよく持ち上げると、私はカメラの画面を覗き込んだ。

「うーん、またイマイチ」

 数秒間の再生画面に映し出されたのは、点描画の傑作というよりメタメタに線を引いた駄作。

 もう何度目になるかという削除ボタンを押すのにも溜息が出る。立て膝の上に一眼レフを持つ手を休ませて、眼前に広がる空を見た。呑み込まれそうなミルキー・ウェイ。やはり何度目かわからない溜息が漏れる。


 夜空の写真を撮り始めたのは、ついこの間のことだ。星空の美しいこの街で育って、子供の頃から通い詰めた丘のプラネタリウムにインターンとして入った。先輩達の仕事を見ながら日夜天体を見続けて、ようやくこの間正職員になったのだ。初めて正規の『クルー』として貰った給料で念願の一眼レフを買ったばかりだ。

 さすがに機械の性能がいいと写るものも違う。父の持っていた一眼をいじくった経験も手伝って、日中なら自画自賛するくらい綺麗な写真が撮れた。草木の周りのピントをぼかしてみたり、水飛沫を捉えてみたり、ある程度慣れたので、じゃあ本題、と夜空の撮影を始めた。


 ——莫耶ばくやの剣も持ち手に……、だわね。


 ボタンを操作し、今まで撮った写真を順繰りに見る。初めて撮った日の画像は、光の線が波打って揺れる水面に映った空のよう。次の日のものは真っ暗か真っ白か。他の日の写真は絵の具が全面に散っているみたいだし、ある日のものは月にだけピントが当たってしまって、他の星が汚い雲のよう。


 ——目の前にあるままに撮りたいんだけどなぁ……。


 やっぱり、望遠レンズとか手振れ防止の三脚とかを買ったほうがいいのか。いや、まだ自分にはそこまでの腕は……。


 カシャッ……カシャッ……カシャッ……


 逡巡とする思考を頭の片隅に置いたまま、露光のレベルを上下させてみたり、絞りを開けてみたり、シャッター・スピードを適当に変えてみる。シャッターを切る音が、無音の草原にやたらと大きく響く。もう一度。またダメ、もう一回。まだ見たのと違う。もう一枚。


「お姉ちゃん、何してるの?」


 突然後ろから幼い声がした。仰天のあまりカメラを持つ手が滑り、はずみでシャッターが押されてピントのずれた鈍い音が鳴る。

 振り返ってみると、まだ六歳くらいか、小さな女の子が立っていた。

 少し赤みがかったシンプルなワンピースが少し寒そうだ。でも驚いたのは髪と目の色だ。髪は茶というより赤土の色に近く、瞳は蠟燭の火のような橙色だった。とてもこの土地の子供とは思えない。変な訛りもないけれど、ハーフか何かかしら。


 いや、それよりもこんなに小さな子がこんな遅くに一人で外にいるなんて。


「あなた、一人? お母さんとお父さんは?」

「一人? 一人って言うのかな? お母さんとお父さん? わかんない」


 どうしよう。迷子かも。

 丘の上には、プラネタリウムの他には同じ系列の機関である天文台と気象台があるだけで、人家はないはずだ。プラネタリウムのお客さんかな、館から出たところではぐれちゃったのかしら。


 そんな私の焦りとは裏腹に、少女の方は落ち着き払って言った。

「大丈夫だよ。近付いてきたから、ちょっと寄ってみただけだもの」

 たどたどしい言葉で話す。近所の子? じゃあご両親はすぐに迎えに来れるかな。

「それよりお姉ちゃん、何してたの?」

 少女はなおも不思議そうに聞いてきた。小首を傾げて尋ねる様子は、とても迷子で不安になっている子供には見えなくて、おかげで私の不安も少し和らぐ。

「写真撮ってたの、ほら」

 膝の上の一眼レフをちょっと上げて、傾けて見せる。待機時間に待ちかねて、ジジィッとレンズが引っ込む。

「写真? なになに見せて見せて」

 少女は瞳を輝かすと、人懐こそうにこちらへ寄ってきて私の隣にしゃがみ込んだ。近くで見ると、髪の毛は驚くほど真っ直ぐで艶やかなストレート。目に被さる睫毛は長く、金が入っているみたいにうっすら光っている。一体どこの国とのハーフなんだろう。

 感心している私を他所よそに、少女は身体を斜めに曲げてカメラの画面を見ようと四苦八苦している。なんだか小動物みたい。どうも見ていると笑みが溢れる子だ。


「この空をね、撮ってたの」

 シャッターを軽く押し、オートでスリープしていた画面を立ち上げると、さっき写したピンボケ写真が出てきた。


「あ、これ、みんな?」

 映った写真を見て、ぱっと瞬発的に少女が聞いた。

「みんな?」

「空のみんな?」

「そう……そのつもり」

 あまりに酷い写真に呆れたかしら。

「うん、それっぽい」

 それっぽいってなんだ。無邪気な子供の発言はたまに攻撃力抜群だということは、プラネタリウムのお客さんからよく学んでいたはずだけれど。

「やっぱり、あんまり綺麗に撮れてないよね」

 少女の正直な感想に苦笑いするしかない。先ほど連写した写真をパラパラと見直す。どれも目に映った銀河とは別物だ。

「こう、いま目の前で見えてるままに撮りたいんだけど、どうも上手くいかないんだよね」

「目の前で見えてるまま?」

「うん。私の目が、いま見てるそのまま」

 今日広がる美しさは今日だけのもの。その一瞬を少しでも長く。そんな望みなのだけれど。

「当たり前じゃない。カメラそれとお姉ちゃんの目は違うもん」

 少女は何を言っているのか、と意外そうに私のカメラを指し、画像の映っている画面を小さな指で軽くとん、とん、と叩いて続けた。

「お姉ちゃんの目が見てるのがこれっぽいやつなら、あたしが見てるの全然違うよ」

「いや、うん。私の写真が下手なのはもういいんだけどね。それでもね、実際にこれを見たんだ、っていう感動を……」

「同じお姉ちゃんの目で見たって、ちょっと前と今とこの後とだったら絶対違うよ。どれが当たりとかないよ」

 少女はむきになるでもなく、屁理屈でもなく、何を考えているのかよくわからない屈託のなさで喋り続ける。話しながら髪の毛を左右に激しく揺らすので、ストレートの赤毛がふぁさふぁさ鳴った。

「明日はきっと、違うふうに見えるよ」

 何だか哲学的なことを言う子だな。……慰めてくれてるのかしら。少女の論説に頭で納得しながらも、やはり満足したくないところが残ってしまう自分が大人気なく思えてしまう。ちょっと気恥ずかしくて、座って私の頭一つ分低い位置にある少女の髪を撫でてやる。お姉さんぽく。

「そうかも、ねぇ。明日は違うかも。でも、だからこそ撮っておきたいって思わない? 今の一瞬だけって思う綺麗なものを」

 南の空、天の川の川岸に、強く空色のアルタイルが光っている。川の下流、地上近くに金色の土星。肉眼では止まっているように見えても、この天体の位置は、刻一刻と変わっている。

 星々があちらで光り、こちらで瞬く。その間を衛星が通っていく。未知数ばかりの宇宙は、こんなにも美しい。

「じゃぁお姉ちゃん」

 星空に浸っていたらいきなり少女がすっくと立ち上がったので、私は上体のバランスを崩して後ろに手をついた。少女の方はといえば、草の上でくるりと回ってスカートをはためかせ、こちらに向き直る。

「今の一瞬のあたしのことを撮ってよ」

「あなたを?」

 少女は両手をぱたぱたスカートにぶつけて、楽しそうに笑った。

「そう。あたしも見たい。今のあたしがどんなか見たい」

 期待でいっぱいの高い声が、草原の上で空に昇る。何だかこちらまで楽しくなってくる。私は立ち上がって湿ったジーンズを軽く払い、カメラを持ち直した。

「夜景の中で人を撮ったことはないんだけど……そうね、練習に付き合ってもらおうかな」

「できたら見せてね!」

「はいはい。じゃ、止まって。ポーズして」

 少女の方にカメラを向け、手振れしないようしっかりと宙で腕を固定する。レンズを覗き込み、少女を四角の中の中央に置く。


 ——あれ?


 今まで隣で話していたから気がつかなかったが、少女の立つ周りが奇妙にぼんやりと、薄い光で縁取られているような気がする。服の周りは満月のような、黄味がかった白に、赤毛の周りは、その赤色を絵の具でぼかしたような橙に。

 少女の全身が画面の中に収まるよう、ズームを調整する。あれ、この子そういえば裸足じゃないの。


「……それでいい? 撮るよ?」


 どうもしっくりこない妙な気持ちが身体を侵食して来るのを感じつつ、手が揺れないよう、私は全身の神経に意識を巡らせる。ほんの一瞬。シャッターを切るときの、心地よい緊張。


 カシャッ


「OK! 動いていいよ! 撮れたかな」


 そう言ってカメラから顔を外す。


 すると突然、丘の東から草の上を滑って突風が近づき、私の髪の毛を巻き上げた。そのあまりの激しさに腕で顔をかばい、目をつむる。足元の草が私のジーンズを叩き、風が勢いよく抜けていく。


 西に過ぎ去った風の音が小さく、ほとんど聞こえなくなるのを待って、私はやっと目を開けた。

 目の前にいたはずの少女が、そこには居なかった。


「え……?」


 ——さっき撮ったはずの写真。


 瞬発的にカメラの再生ボタンを押す。息が詰まって、鼓動がばくばく鳴るのを感じながら、私は画面を覗き込んだ。


 そこにあったのは、四角に切り取られた星空。真南の低い位置、土星と同じ高さで並んで、橙色に強く輝く星がある。


 ***


空人そらとさん、一年で昨日しか見えない星とかってあります?」

 翌日、私はプラネタリウムが付属している天文台で、この人に聞けば天体のことなら何でも解る、という若手研究員を訪ねた。要するに研究所一の天体マニアだ。

「何? お客さんからのクエスチョン・ペーパー?」

「いえ、ちょっと個人的に疑問に思って」

「うーん、そうだなぁ。昨日だけって言うのはすぐには思いつかないけど……」

 彼は持っていたペンを二、三回くるくる回してから、「あ、そうだ」とパソコンのデスクトップに並んだファイルの一つをクリックした。

「昨日の天体イベントで言うなら、火星の最接近だね」

「最接近?」

 画面に天体写真が映る。昨日の南の空だ。天の川の河畔に空色のアルタイル。その右下の方に輝く土星。

「ほらこれ。ひときわデカいでしょ。火星の周期に地球が追いつく現象で、それが二年二ヶ月に一回。この時に火星と地球の距離が最も接近するんだよ」

 大接近は十五年くらいに一回だけどね、と言って彼が指で指したのは、土星と同じ高さに並んで強く輝く橙色の光源。地平線近くで燃え、周りの星の粒を見えなくするほどだ。

星歌せいかさん、太陽系のシステムはまだ苦手? もうちょっとでひと段落するから、夕飯食べながらでも説明するけど」

 その得意げなドヤ顔が若干、癪に触る。何より私が『星歌』なのに私より星に詳しいのが許しがたい。

「結構です。自習します。資料お借りしますね」

 彼の机の横に無造作に置かれた紙束の下から記録ファイルを抜き出すと、私はくるりと背を向けた。後ろで「そんな重々しく言わなくてもー」という軽い調子の声が聞こえる。空にでも浮かんでろ、無重力男め。いつか絶対抜いてやる。


 腕に抱えた自分のドキュメント・ファイルから、印刷してきた昨日の写真を取り出した。四角く切り取られた夜空の中心に、橙色の光源が強く輝く。


 ***


「ちょっと出掛けてくる」

 二年二ヶ月前のデータを残した一眼レフをバックに詰めて、私はダイニングで資料を広げていた旦那空人に声を掛けた。

「なに、こんな時間に珍しいね。スズちゃん後輩とでもご飯?」

 空人は今日の観測記録を記した星図から目を離さずに間延びした返事をよこした。

「ううん、ちょっと別の約束」

「何ですか、旦那に内緒の外出ですか」


 冗談めいて言うのを背中に受けて、私は靴紐を結びながら返してやった。

「そうね、火星人とデート」


「何それちょっと待って」と慌てた顔の空人を向こうに、私は笑いながら玄関の扉を閉めた。外は今日も快晴。夜空に雲は一つもない。丘の上に建てた我が家を出ると、頂上に向かって地面を蹴った。


 ***


 遮るものが何もない、草だけがなびく平かな丘の上。頭上を覆う紺碧の空には、今日も大小の星々が、まばたきごとに色を変えて輝く川を作っている。地平線へ向かって流れ、今にもこちらに降ってきそうな光の粒子の下、風に揺れる丈高い草が、柔らかな赤い光で照らされていた。


「お姉ちゃん」


 私を見つけてその子は振り返り、小さな粒がころころ弾け散るような笑顔になった。蝋燭の炎と同じ橙色の瞳の上で、金の睫毛が揺れている。


「ね、こないだの、見せて見せて」


 ——こないだ、って二年以上前……あぁでも、この子にとってみれば二年もほんのすこし前か。


 真っ直ぐな髪をふりふり駆け寄る彼女に向けて、私は取り出したカメラを手に構えた。


「持ってきたよ。でも今日はもっと綺麗に撮れるようになったからね」



Fin.

******



 国立天文台のホームページを参考にしました。

「国立天文台 NAOJ 火星の接近」

 https://www.nao.ac.jp/astro/basic/mars-approach.html


 天体の様子は、「AstroArts 火星大接近(2018年7月31日 地球最接近)」を参考にしました。https://www.astroarts.co.jp/special/2018mars/index-j.shtml


星歌夫婦のその後は、また別のお話。

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