後編
ついにこの日がきた。私は興奮していた。
プール監視のため、プールエリアに足を踏み入れた矢先、上級コースに奴が泳いでいたからである。決着をつける時が来たようだ。
「ニヤニヤしてどうしたの? キモいよ?」
アルバイトの先輩がニコニコしながらそう言ってきた。いや、第一声がそれですか。笑顔でキモいって言うのやめろよ。複雑な気分になるわ。
「どうしてそういうこと言うんですか、酷いです。てか、上級コースで泳いでいるおばあさん、遅いの注意しないんですか?」
「あー。他に泳いでる人いないし、いいかなって」
先輩はバツが悪そうな表情でおちゃらけた。
「へぇ。自分は注意しますよ」
「真面目だね、こんなの監視やってる風にしとけば良いんだよ」
「はいはい、私は先輩と違って真面目なんで。先輩と違って」
そう言いながら、先輩から笛とトランシーバーを受け取る。仲は良かったから、こういう冗談を言い合える関係だった。
だからって人の顔見てキモいって第一声で言うのはどうかと思うけど。
さて、選手交代。私がプールの長となった。さっきまでのゆとり先輩と違って私は真面目だからな。秩序を正させてもらう。と言っても、直接手を下すのは私じゃなくて社員さんになりそうだれけど。
ふぅっと息をついて、おばあさんに焦点を合わせる。相変わらず、セルライトの二の腕はゆっくり、非常にゆっくり水をかいていた。
「……その二の腕をへし折ってやろう。今日はこの前のようにはいかないぞ。デュエルだ」
誰にも聞こえないくらいの声量でそう呟く。まず、手始めに再度おばあさんに注意をするにした。これは、せめてもの私の優しさ。ここで素直に従ってくれれば事は大きくはならない。私が社員という切り札をドローする前に、サレンダーしてもらいたい。
「申し訳ありませんが、こちらのコースは……」
「また貴方なの!? しつこい! クビになりたいの?」
私を確認するや否や声を荒げたおばあさん。相当怒っているようだ。悲しそうな表情を作り、おばあさんの顔をじっと見つめた。
「……」
「……」
何て言葉を返せば良いのか分からず、おばあさんと見つめ合うことになってしまった。おばあさんの頬が少し赤いのは照れから来るものではなく、怒りから来るものだ。眼は血走り、見開いている。
え、どうしようこれ。いつまで見つめ合うのこれ。顔怖いって。つらい。
無言でいる私を見かねて、何事もなかったかのように彼女はまた泳ぎ始めた。前の私なら、ここで打ち拉がれていたところだっただろう。しかし、今は違う。しょうがない、切り札を使う時が来たようだ。私のターン、ドロー!
私はトランシーバーのスイッチを入れて、社員さんたちのいる事務所に繋いだ。
「以前、上級コースを非常にゆっくりなペースで泳いでいる方がいらっしゃいました。中級コースに移るようご案内したんですけれども、聞き入れてもらえず、今日もまた同じように上級コースを泳いでいます。対応していただけますでしょうか?」
少しすると、
「今回もまた、中級コースに移るようご案内しましたか?」
と男性社員から返事が来た。
「はい。しました。でも聞き入れてもらえませんでした。私では対応致しかねますのでお願いできますでしょうか」
「分かりました。対応します」
社員さんからの返事を聞き、胸の奥から沸々と笑いがこみ上げてくる。イッツショータイム。社員さんがどのような対応をするのか、そして、おばあさんがどのように反応するのか、非常に見ものである。
高みの見物のようだがこれで良いのだ。だって私はアルバイトなんだから。
しばらくしてプールエリアに、この前泣きながら事情を相談した若い女性社員が現れた。女神のように見えた。女性社員がフィールドに攻撃表示で召喚された。
「あの人だよね?」
というジェスチャーを送ってきたので私は無言でうなずいた。
社員さんはノロノロ上級コースを泳ぐおばあさんの姿を確認すると、あぁこれは確かに遅すぎるねと言わんばかりに苦笑いしていた。
そして出動した。
プールサイドにしゃがみ、おばあさんが泳いでくるのを待つ女性社員さん。近くで、おばあさんとのやり取りを見ているのも、私が社員を攻撃表示で召喚したことをより裏付けてしまうことになり、なんとなく気まずいので離れて遠くから見ることにした。
プールサイドに流れ着いたところで、女性社員さんはおばあさんに声をかけた。おばあさんは、驚いた顔をして一瞬こちらを見た。
ヒヤッ……。私が社員を召喚したことを悟った様子だった。
何やらごにょごにょと話していたが、
「誰もいないからいいじゃないの!!」
という、おばあさんの声は予想以上に響き、離れた私の耳にも十分なほど入ってきた。他のお客さんも声の方に顔を向けていた。気まずそうに苦笑いする女性社員さん。
うん、分かるよ、その気持ち。気まずいよね。自分がいけないことしちゃったみたいな気分になるよね。
今回ので分かったことは、アルバイトであれ、社員であれ、誰が注意しても同じようにおばあさんは反発するということだった。どうであれ、あばあさんの目から見たら私たちは、ただの「スタッフ」にすぎないのだろう。
必死に身振り手振りで説得する女性社員さん。頑張っている。なんだか、申し訳ない気分になってきた。こんな対応をさせてしまって。でも、頑張ってください。応援してます。私じゃどうすることもできなかったんです。
ルール違反者に手錠をかけるのはアルバイトではなく社員なのだ、と言い聞かせる。
「ねぇ、何があったの?」
と顔なじみのお客さんが、不安げな表情で聞いてきた。プールに響く、おばあさんの罵声に他のお客さんも困惑しているのだろう。
「不快な思いをさせてしまって申し訳ありません。あ、ところで今日の水泳キャップ、かわいいですね」
やにわに話題をチェンジして褒めると、嬉しそうな表情で笑った。癒される。この笑顔を守るために私は仕事をしているだ。脳裏に焼きつく、先ほどのおばあさんの剣幕が薄れた気がした。
3分――5分――7分――。時間は経過しているが、一向に話し合いが静まる気配はない。話し合いといっても、一方的におばあさんが怒鳴り散らしているだけだけれど。
クレームのプロである社員さんですらこの手こずりようだ。どうやら相当なモンスターにぶち当たってしまったようだ。これは新たな手札を期待するしかないか。
「ガチャ」
女性社員さんでも手に負えないこの状況を見かねてか、コーチ室のドアが開き、男性社員が登場した。男性社員が攻撃表示でプールエリアに召喚された瞬間だった。
女性社員と入れ替わりに、今度は男性社員がおばあさんの説得を始めた。
相手が女性から男性に切り替わることで、少しは変わるだろうか。筋肉モリモリのガタイの良い男性社員の前だとさすがに怖気付くのでは。
しかし、相手が変わっても、おばあさんは怯むことはなかった。
「いいじゃない!? そんなルール知らないわよ!」
と声を荒げている。先ほどから怒鳴り散らしている為か、声が少し枯れてきているようだ。いや、耐久性強すぎない? お願いだから言うこと聞いてください。
それにしても、「いいじゃない」……ね。このおばあさんから、この言葉を何回聞いたことだろうか。いいじゃないで全てが済むほど甘い世界じゃないとは思うけれど、私の倍生きてきて、いいじゃないで全て通そうとするんだから相当な根性だと感心する。
このまま決着がつかないで、次はマネージャーが出てきたりして。と思いながら朧げにコーチ室を見る。果たして何人切りするんだろう。
5分――7分――ついにおばあさんは疲れたらしく、プールを出て、隣のジャグジーに移った。話し合いは終了したようだった。ゆっくり体を起こした男性社員さんは疲れた顔をしてこちらに歩いてきた。
「考えとくって言ってたから、今はとりあえず大丈夫。また何かあったら報告して」
そう言い残して男性社員は事務所に戻っていった。え、あっさりじゃん。
考えとく? それでいいの?
確かにあのおばあさんに、そう言わせたのは凄いことだ。でもまた同じことをしかねないじゃないか。今はジャグジーでくつろいでらっしゃるけど、また上級コースで泳ぎ始めたらどうするわけ?
そんな甘くしていいの? これまでのやり取りから、おばあさんが諦めて言うことを聞くようには思えない。だって――
おばあさんは私を睨んでいた。
いや恐いよ。恐いって。よくもチクってくれたな、といったところだろうか。まるで全ての元凶が私であるかのような鋭い視線だった。刻まれている皺をより一層濃くさせている。勘弁してくれませんかね。怖いですはい。
おばあさんがジャグジーから出て、あの凄まじい形相でこっちにダイレクトアタックしてきたらどうしよう。メンタル死ぬ。私を1人残してどっか行かないでください社員さん。
私は恐怖で震えていると、
「誰もいないからいいじゃないのよねぇ!? 早く泳げなんて、なんで言われないといけないのよ!選手育成場なの!?」
とおばあさんはジャグジーで他の会員さんに枯れた大声で愚痴り始めた。きっと私にも、これを聞かせたいんだろう。間接的な攻撃であるが、確実に私のライフポイントを減らしに来ている。いやもう声枯れてるんだから、無理しないでよ。
「はぁ……」
分かってはいたけれど、やはりまるで反省していない。結局社員を呼んだところで、この人に改正の余地はなかった。
むしろ怒りのボルテージを上げてしまったようだ。社員2人を召喚して、何分も口論した挙句、この有様だ。どうしようもない。逆恨みを買うことを覚悟しなければならないだろう。
そうこうしているうちに、プール監視は交代の時間になった。
私は、他のアルバイトの子に笛とトランシーバーを渡し、プールエリアを後にした。
心機一転。今度はトレーナーとして、マシン指導や運動アドバイスににとりかからなくてはならない。
業務をしつつも、どこか上の空で先ほどのやり取りが脳内にフラッシュバックする。モヤモヤした気持ちはまだ抜けずにいた。私、この後刺されたりして。あれで良かったのだろうか。
そして長い業務が終わり、事務所に入る。
「お疲れ様です。あがらせていただきます」
と言って、タイムカードを切る。
「あのお客さん、退会させたから」
先ほど、おばあさんの対応をしてくれた男性社員は笑顔で言った。
「え? あのおばあさんですか?」
男性社員はニッコリうなづく。
「仇、打っといたから」
とマネージャーがひょっこり顔を出す。最初に対応してくれた女性社員も笑みを浮かべてこちらを見ている。
「えっと……どう言う流れで?」
唐突すぎて頭が真っ白になった。
私がジムエリアで、お客さんの接客をしている間に何が起こったというのか。
「それはね――」
話をまとめるとこうだった。
プールでの問答の末、プールエリアを出て着替えたおばあさんは、まだ怒りが収まらないからか、フロントに直接文句を言いに来た。
「さっきの話、やっぱり納得できないんですけど!」
事務所では、既におばあさんの話が社員全員に共有されていて、目をつけるべき会員であるブラックリストへの追加が検討されていた。
フロントに現れたモンスター。歳の若い女性社員、筋肉モリモリの男性社員と続き、次に登場したのは、店舗で最も権力のあるマネージャーであった。
マネージャーはアルバイトの子には普段とても優しく、お客さんに対しても誠実に向き合う姿勢を崩さない人だったけれど、例のおばあさんの前ではかなり強気だった。
「これがルールですので」
「納得できません!」
仏の顔も三度まで。三度目の顔であるマネージャーは、もう客に容赦しない。客の機嫌をとるような素振りは微塵もなかった。
これは後々分かったことだが、おばあさんが偉い人と繋がっていて、権力を持っているという話もでっち上げであった。
「ルールを守れない方には退会していただきます」
ギャーギャー騒ぎ立てるおばあさんを見かねて、マネージャーは冷静にそう言い放つ。
「え!?」
「退会していただきます」
マネージャーの顔には迷いがなかった。おばあさんは目を見開き、慄いた。
どうあがいてもこの状況が好転する兆しがないことを悟ってか、沈黙の末、無表情に会員カードをフロントに置いてジムを後にしたという。彼女が再びここに現れることは恐らくない。
強制退会。
強制退会とは、再三の注意にも関わらずルールを守れなかったり、他の会員に迷惑のかかる行為をした者の行く末。
単語だけは知っていたけれど、いざ目の前で発動することがあるなんて思わなかった。
今、彼女はどこで何をしているのだろうか。数時間前まで、のうのうと泳いでいた姿を思い浮かべた。
この先、他のジムの会員になって、別のプールで泳ぐのだろうか。今回のことを少しは後悔しているのだろうか。
いずれにしても、もう関係のないことだ。彼女はまた彼女の残りの人生を歩んでいく。
ロッカールームに入ると、私をキモいと言っていた先ほどの先輩が着替えていた。ちょうど上がるタイミングが同じだったようだ。
「有言実行。さっきのおばあさんのこと、本当に注意したんだね」
腕を組み、やるじゃんと言った感じでニコニコしながら話しかけてきた。
私は安堵した笑みを浮かべて答えた。
「はい。私、真面目ですから」
バイト先でいちゃもんババアと戦った話 風丸 @rkkmr
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