バイト先でいちゃもんババアと戦った話
風丸
前編
大学2年生から3年生にかけての約1年半の間。
私はアルバイトでジムのトレーナーをしていた。尚、ポケモンのジムのトレーナーではない。
業務内容は、筋トレマシンの使い方の案内や運動のアドバイス、清掃など様々だが、メイン業務はやはり接客であった。
接客業をしている人に最も共感していただきたいのが、モンスターとの遭遇である。
尚、ポケットモンスターではない。
客は神様なんていう日本の接客精神には仰ぎ見るものもあれど、忌む感情もなきにしもあらずだ。
客に遜り、ペコペコと頭を下げるだけの接客なんて窮屈で、心の奥の己の感情がムズムズと疼く。給料を貰っているとはいえ、それは私の性に合わない。
スポーツジムの接客は、お客さんに「注意する」というのも業務に含まれる。
その点で、対等とはいかないものの、お客さんと目線を近い位置で合わせて働くことができる環境であったため、気持ちに余裕を持って働くことができた。しかしながら、そんな環境なゆえに、私は幾度も、お客さんにルール違反の指摘を強いられることになる。
こちらも注意する、というのは気持ちの良いものではなかったが、給料をもらう以上は仕方のないことだと腹を据えるしかない。
アルバイト歴もちょうど1年になろうとした頃のことだった。あるルール違反者に注意をしたところ、不服の意を唱え、振り切られてしまったことがあった。モンスター客との遭遇である。
ここに、その時の議事録をここに残そうと思う。
スポーツジムのスタッフの業務の中にはプール監視も含まれており、1日平均1~2時間プール監視をすることになっている。
塩素の立ち込める室内プール。
監視員は座ることは許されず、ひたすらプールサイドをグルグル回りながら水面に目を光らせていなければならない。
もちろん万が一の時のために、ゼッケンの下には水着を着用し、笛と人工呼吸のためのツールを携帯している。
室温30度に保たれているプールエリアの空間は喉の渇きを加速させ、たびたび集中力が途切れそうになる為、長時間のプール監視にならないよう、最長でも2時間と決められていた。
大きなプールエリアにプール監視員はたった1人だった。それは、ルール違反や溺れる人がいないかなど全て1人でチェックしなければならないことを指し示す。
秩序を乱す者を取り締まり、溺れる弱者を助ける。いわばプールエリアの長であり、ポリスである。うん、少しかっこつけた。
たくさんの人が利用するプール。
面倒だが、1人1人が快適に使えるように細かいルールが設けてある。
プールには[初級コース]、[中級コース]、[上級コース]の3種類があり、
・25mを泳ぎきれない人は初級コースで泳ぐ。
・50m以上泳ぎきれる人は上級コースで泳ぐ。
といった具合に泳力別にコース分けがされている。もちろんこれらのルールはお客さんの入会時に案内されることになっている。
その日のプール監視は1時間だった。
私はゼッケンを羽織り、トランシーバを装備し、いつも通り、集中して水面を注視していた。プールでは5人ほどがバシャバシャと泳いでいた。
上級コースで泳ぐ1人のおばあさんの姿が目についた。顔こそ水泳帽とゴーグルで見えないが、曲がった腰や筋肉の落ちたその体つきから、かなりお年を召された方だと想像がつく。
上級コースの使用ルールは
・50mを休憩せずに泳ぎ切れること
・50mを1分半以内に泳げること
が条件であった。
彼女は確かに休憩せずに50m泳ぎきれてはいた。だから1つ目の条件はクリアだ。
しかし、あまりにもスピードが遅い。50mを優に2分近くかかっている。
追い越し禁止のプールなため、きっと同じコースで泳ぐ人には窮屈な思いを強いることになるだろう。
幸いにも、上級コースを泳いでいるのはおばあさん1人だったが、これはルール違反のため注意をしなければならない。気は進まないけれど。
ピチャピチャと音を立てながら、おばさんの手はゆっくりと、しかし確実に水をかいている。
シワシワの手と丸みをおびた背中。脂肪でプカプカ揺れている二の腕を見ると、おばあさんだって一生懸命泳いでいるんだという、謎の庇護欲が生まれてきた。正直、胸が痛んだ。
私だってそのまま泳がせてあげたい。
しかしルール違反している以上、これは使命だ。雇われている身である私は業務を全うしなければならない。
なに、中級コースに移動さえしてくれれば良いのだ。泳ぐ自由を奪うわけではない。場所の問題だ。
スローペースなおばあさんがプールサイドに近づくのを、見計らって近づく。私はしゃがんで声をかけた。
「お客様、よろしいでしょうか?」
「……」
私に声をかけられて少し驚いた様子ではあったが、目線を私にあわせようとしない。おばあさんの目線は、揺れる水面を横目で見つめていた。
確信犯だ。自分が何を注意されるのかをまるで分かっている顔だった。
「お客様、こちらのコースは……」
「え? 何言ってんの? 聞こえないんだけど!」
シラを切るおばあさん。しゃがれた大声がプールエリアに響いた。
その声量にフリーズして言葉が止まってしまった。そんな大きな声、いきなり出すなよ。びっくりするだろ。
こんなに近づいて、しゃがんで声をかけているのに聞こえないわけないじゃんか。嫌な予感がした。
――こいつは、ヤバい客だ。
その瞬間、さっきまで、かわいいと思っていたフニフニのおばあさんの二の腕は、私にとってただのセルライトと化した。
ここはビシッと言わなければ、私の立場がない。少し強めの口調で続けた。
「上級コースは往復1分30秒以内に泳がれる方向けのコースとなっております。ですので、ゆったり泳がれるようでしたら、こちらのコース(中級コース)で泳いでいただけますでしょうか?」
本当は、あんた遅いんだから上級じゃないだろって単刀直入に言いたかったけど、あくまでお客さんなので言葉を選ぶ。
おばあさんは眉間に皺を寄せながら、ゴーグルを上にずらし、露わになった老化でたるんだ目をこちらに向けて言った。
「誰もいないんだからいいじゃない!?」
「申し訳ございません。誰かいても、いなくてもそれに関わらずこれがルールとなっておりま……」
「ここは選手育成場なんですか!?!?」
私の言葉を遮ってきた。よくもまぁ選手育成場なんていう言葉が出てくるものだ。
あぁ。こういうタイプの人には何を言ってもダメだ。
接客業をこうして長く続けているとだいたい分かってくることである。
動揺で気持ちが上擦り、感情的になっている状態に追い打ちをかけるのは、火に灯油をまくようなものなのだ。
内心呆れながらも、この状況に焦っている自分がいた。飲食店などの場合、後ろから店長がやってきてフォローを入れてくれるところだろう。しかし、ここは私1人しかスタッフはいない。1人でなんとかしなければならない。
トランシーバーを固く握りしめる。ここで他の社員さんに助けを求める選択肢もあるが、それは他力本願な気がしてならない。私にも出来ることがあるはず、といういらぬプライドが湧き上がる。
おばあさんは声を荒げているため、初級、中級コースの他のお客さんがジロジロとこちらを見ていた。
まるで、授業中に先生に1人怒られて注目をあびてしまう生徒の気分で肩身のが狭い。いや、てか私悪いことしてないし。おかしくない?
「私もここで泳がせてあげたい気持ちは山々なんですが、上に厳しく言われておりますので……」
あくまで優しく諭すような口調に切り替える。強い口調は逆効果だと分かっているから。
しかし大人気ないな。コース1つずらせばいいだけじゃん。こんな年下の大学生に注意されるのがよっぽど嫌なのだろうか。プライド高いおばあさんって苦手だ。
「じゃあ上の人に言ってちょうだい! こんなルールおかしいって!」
「かしこまりました。私から上には申し伝えますので、今日のところはコースを切り替えていただけないでしょうか」
これを社員さんに報告したってルールが変わることなんてない。
長年このルールで運用していたんだ。1人のお客さんのわがままが適用されるはずなんてない。そんなの分かりきっていたが口裏を合わせておく。
今回は勘弁してくれませんかね。あなたがコースを移動すれば、それで済むんですよ。
「おかしいわよ!? そんなルール。誰にも迷惑かけてないんだからいいじゃない!!」
「そうですね。お気持ちはすごく分かります」
おばあさんは、それまでの剣幕から一転、片側の口角を上げてほくそ笑んだ。
「私はここを運営している偉い人と繋がってるの。あんたなんかすぐクビにできるのよ」
心臓がトクンと跳ねた。フリーズする私の表情を確かめて満足そうな表情を浮かべると、彼女は何事もなかったかのようにまた、上級コースをのんびり泳ぎ始めた。
私は何のために注意したんだろうか。やるせない。
なぜルール違反を指摘しただけで、こんなに罵声を喰らい、脅迫されなければならないのか。私の注意の仕方が悪かった? それも否定はできないが、不躾な言い方は少なくともしなかったように思う。
そして、出てきた「クビ」というワード。
前の職場を諸事情でクビになった私としては、クビをすごく恐れていた。
せっかくこのジムでの業務にも慣れて、自分らしく楽しく働ける環境を気に入っていたがゆえに、もう明日から来なくていいなんて言われた日には立ち直れる自信がない。
信憑性は定かではないが、上級コースをたらたら泳いでいる彼女を再度注意して、自分の身を危険に晒すのであれば、今回は我慢するしかないという結論に至った。
いきり立っているし、あることないこと話をでっち上げられる可能性もなきにしもあらずだ。
何もできない自分。無力な自分がそこにいた。スローペースで泳ぐおばあさんの背中が遠くに見える。周りのお客さんは気遣うように私の顔色を伺っていた。悔しい。
プール監視を任されている以上、プールの秩序は私のはずだ。私が全ての責任を負う、そんな覚悟でプール監視をしている。
違反者に手錠もかけられないビビリ監視員。「クビ」と「自分の業務」を天秤にかけた時にクビを恐れるがあまり、業務をまともに真っ当できない、そんな自分にも腹が立った。歯がゆい。黙って、スローペースのおばさんの背中を見ることしかできないのか。
そうこう胸の内で葛藤するうちに私のプール監視の時間は終了した。
休憩に入った私は休憩室で泣いた。正直怖かった。接客業はこれまでも経験があったが、クレームに対しては謝り、申し訳なさそうな顔をすれば済む話だった。しかし今回はそうじゃない。こちらも剣を抜き、向かっていかなければならない状況で、自分はどうすれば良かったのかひたすら何度も何度も先ほどの光景を思い浮かべては自問自答を繰り返したが、分からない。
恐怖からなのか、情けなさなのか、悔しさからなのかよく分からない涙だった。
「どうした?」
私の姿を見た年の近い女性社員さんに声をかけられた。
「なんでもないです」
平然を装うとしたが、私を気遣うその声に涙がもっと溢れてきてしまう。
「大丈夫?」
先ほどのことを話すのは、自分の弱さや無力さをさらけ出すようなもので気が引けたが、この年の近い社員さんに打ち明けることで自分の背負いこんでしまった荷を少しでも軽くしたいと思った自分もいた。
私は話すことにした。
社員さんは私の報告を聞き終えると、真っ直ぐな眼差しでこう言った。
「こういう問題は、社員が対応するから次からは社員を呼んで。これは当たり前のことだよ。アルバイトの子が1人でなんとかできる問題じゃない。その場で1人で抱え込もうとしないで。あと、クビになるなんてことは絶対ないから」
「……分かりました」
社員はクレーム対応のプロであったことを忘れていた。研修の段階でこのようなクレーム対応の訓練もしているエキスパートであったことを。
私1人でおばさんをどうにかしようとせずに、すぐ社員を呼んでいれば、こんなことにはなっていなかったんだきっと。しかしながら、これくらいこなせないと一人前じゃないという私の間違った固定概念と、クビというワードがそうさせなかった。
所詮、私はアルバイトなのである。
そう開き直ることで幾分か救われた気がした。
次、また奴が上級コースを泳いでいたら、すぐ社員さんに言ってなんとかしてもらおう。
よし……。私は握りこぶしを固めた。
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