ボーイ・ミーツ・培養肉クラブ

 家に帰ると、三つの目があった。


 母の泣き腫らして赤くなった子どものような両の眼。

 そして、天井に張り付いた魚の目のような小さな白い楕円。


 子どもが生まれたすべての家に政府から支給され、子どもが十八歳になるまでその家の天井で成長を見守る音感センサーだ。

 録画までは行き過ぎだという反対で、騒音を感知するだけに留められたこの機械は、怒鳴り声や衝撃音など、虐待の兆候と見られる一定以上の音を聞き分けて即座に役所へ通報する。


 子育て中の家庭の象徴といえばひとつはこの音感センサー、もうひとつは脳の発達に悪影響なカフェインのは入っていない飲み物を作るドリンクマシンだ。


 片方は依然として天井に、もう片方は今床に座り込んだ母の足元に転がっていた。



「あんた、今日学校で何したの」

 僕を睨んでいるつもりの母の眼は、焦点が合わずに僕を通り過ぎてその背後を見透かすようだ。


 憂鬱だった。

 八尾やおと一緒にスプリンクラーの雨が降る応接室から抜け出したときの万能感は、どこにも残っていない。


「ごめん」

 学校からどこまで聞いているのかは知らないが、だいぶ前に母の質問は理由を求めているのではないと気づいてから、こういうときにはできるだけ話さないようにしていた。


「謝ってなんて言ってないでしょう」

 床に小さな錠剤が大量に転がっている。

 睡眠薬に混じる、コーヒー豆を模した錠剤は、十八歳以上なら薬局で買えて、子どもも安心して使えるドリンクマシンから出るコーヒーに適度なカフェインを混ぜて楽しめるようにしたものだ。


 一杯にひと粒混ぜれば十分なそれを、こういうときの母はラムネのように直接噛み砕いて、水で呑み下す。



「私には話しても無駄だから何も言わないの。 いつも馬鹿にしたような顔して」


 僕が口を開こうとする前に、足元で何かが爆ぜた。


 母が投げた睡眠薬のボトルが線路に飛び込む自殺者のように跳ね、蓋が外れて中身が飛び散る。


 アラームが鳴り響いた。



 センサーが騒音を感知して、次には通報すると警告しているのだ。

 母は僕を退けて、壁際のパネルを叩き、「生活音」「通報の必要なし」の順にボタンを押して、アラームの絶叫を止める。


 母は屈むと、僕など見えないように散らばった睡眠薬と凝縮カフェイン剤を拾い出した。

 僕は手伝わなかった。

 すべて拾い終えた後、母はカフェイン剤の方をひとつ歯に挟み、

「苛々する」

 と呟いて、噛み砕いてから寝室に消えた。


 僕はドリンクマシンを拾い上げ、机の上に置き直した。



 帰ってきた父が「母さんは」と聞いて、僕は寝室のドアを示した。

「明日の昼まで出てこないな」

 と、呟いた以外父はもう何も聞いてこなかった。



 部屋の電気を消したままベッドで携帯を眺めていると、クラス全体のチャットから一件、個人メッセージが届いていた。

 八尾からだった。


越智おちくん

明日学校来てね。講習終わったら図書室”


 僕は目を通してから、返信もせずに眠った。



 ***



 夏休み初日の学校は何ひとつ変わらなかった。


 僕と八尾が降らした雨はとうに乾いていて、人工繊毛の芝生が、強烈だがどこか彩度の低い夏の日差しを受けて輝いていた。



 教室には三分の二程度の生徒がいた。

 数人が僕を見たが、何も言わない。受験前に厄介ごとに巻き込まれたくないのは当然だ。


 一番後ろの席で机に伏せていた八尾は、一瞬目が合うとにやりと笑った。僕は愛想笑いも返さず自分の席に着いた。



 ドアが開く微かな音と規則的な靴音が響いて、教室の中の喧騒が徐々に消える。


「おはようございます。夏期講習を始めます」


 夏らしい明るさがどこにもない、昨日聞いたばかりの静かな声に顔を上げると、授業用のタッチパネルを抱えた大里先生が立っていた。


 大里先生は、昨日世間を賑わせた女子高生歌手の訃報にも、僕たちの起こした火災報知器の騒ぎにも触れることなく、時候の挨拶と夏期講習の概要を説明してから淡々と点呼に移った。


 応接室からの逃走劇の最中、確かに目が合った。

 苦痛を堪えるようなあの表情。

 失望しただろうか。

 元々期待されていたとは思わないが、だったらいっそ今みんなの前で誹謗してくれた方がずっとマシだ。


「越智くん」

 心臓が止まりそうになる。

「は、はい」

 顔は伏せたまま、視線だけ動かして盗み見た大里先生の表情からは何も読み取れなかった。



 膝の上で拳を握りしめている間に、すでに次の生徒の名前が呼ばれている。

 死刑囚のような気分だ。


 携帯が震えて、机の下で通知を開くと、また個人メッセージが届いている。

 本文はなく、漫画で見るような骨つき肉の絵文字だけが大きく表示された。


 舌打ちして睨むと、八尾は酷く楽しげに笑いながら肩をすくめた。



「やめろよ、ああいうの」

 講習が終わってすぐに詰め寄ると、

「だって、めちゃくちゃ声震えてて面白かったから」

 と、八尾は肩を揺らして笑った。


 数回も話したことのないはずの僕と問題児に、クラスメイトの視線が遠慮がちだがはっきりと注がれる。


 教室の隅では濡れて動作不良を起こしたらしい映像機材を弄り回す生徒もいて、誰にも何も言われないせいで夢の出来事だったようなスプリンクラーの雨は、確かに羽田リリスの追悼をしていた彼らに降り注いだのだとわかった。



「まぁ、いいじゃん。図書室行こうよ」

 僕の言葉を待つ前に立ち上がった八尾を追って、教室を出る。


 廊下は正午の光で昼白色に霞み、人影もまばらだった。

「もうみんな待たせてるからさ」

 どんどん進んでいく背中を見ながら、みんなとは誰かと聞くと、八尾はうーんと唸って歩みを速める。


「有志っていうか、ちょっとずつ集めてたんだけど。なんか違うなって奴も多くて、昨日でやっと決まった感じかな」

「何言ってるんだからわからない」


 八尾が足を止める。

 いつの間にか図書室の前に辿り着いていた。


 八尾は扉に手を置いたまま、こちらを見ずに言った。

「ここの本棚にもあるんだけど、越智くん『包帯クラブ』って本知ってる?」

「……知ってはいる」

 読んだことはないけれど、と付け加えると、八尾は息を吐き出すように笑った。


 半分開いた廊下の窓から微熱の塊のような生暖かい風が吹いて、カーテンを揺らす。


「じゃあ、俺たちはたぶん“培養肉クラブ”だ」

 八尾はそう言って、図書室の扉を開け放った。



 そこにはふたりの男子生徒が待っていた。


 僕と八尾以外に、高校最後の夏休み、誰かの培養肉を作って食べようとしている、ふたりの生徒が。

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ボーイ・ミーツ・ミーツ 木古おうみ @kipplemaker

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