ボーイ・ミーツ・臨時教師(3)

 八尾やおの後ろをついて歩くたび、ひと通りが少なくなっていくのに反して、街の風景の中の色彩は徐々に増えていった。



 僕たちの住んでいるマンションや学校のあるエリアは、白や焦げ茶や申し訳程度の緑など、自然界で見る色合い以外ほとんど見かけない。

 未成年の子どもが多い街で、強烈な色彩は発育途中の精神に悪影響だからと条例で制限されているからだ、


 それに、昔のようにビルを覆うほど巨大な看板を掲げ、極彩色のネオンで食虫花のように客を誘わなくても、大通りでデバイスをかざせば、位置情報から近くの店が発信するたくさんの情報を一瞬で閲覧できる。

 むしろ、肉眼ですべてがわかる広告を提げたままにひているのは、どこの情報システムとも連携が取れていない、危険で不真面目な店だと主張するようなものだ。


 僕の生きる時代では、目に見えないことこそが先進的で、目に見えるものが時代遅れだ。



「自分の目で確かめてみなって。そうしないと何もわかんないんだから」


 僕の思考を読んだような言葉に視線を上げると、いつの間にかこちらを向いて立っていた八尾の背後には、壊れたコインロッカーが一台あった。


 ビルとビルの間で圧死を待つようなそれは、扉がひしゃげているものや、扉自体がないものや、ステッカーやガムで貼り付けられたレシートが連なって鍵の在り処すら見えないものもあり、不法投棄された粗大ゴミとしか思えなかった。



「これがどうしたの」

「そう思うよね」


 八尾は手招きして僕を近くに寄せると、まず“2”と書かれたロッカーを開け、べっこう飴のような札のついた鍵を取り出すと、“9”のロッカーにそれを差し込んで開けた。


 一瞬、スナッフビデオのフィルムが貼られているのかと思った。


 近づいて覗き込むと、写真だと思ったものは正確には写真のプリントされた箱で、八尾が持っていたような汚れた肺や、黄ばんだ酷い凹凸の歯や、胎児のエコー写真がプリントされた煙草の箱がずらりと一面に並んでいるのだ。

 中には、警告用の画像を貼るのが義務づけられる前の、空のような水色のものや、錨やペンギンの描かれたものまである。


「昔は本当にお菓子みたいなパッケージだったんだな」

 僕が呟くと、八尾は

「俺はこういうグロ画像の方が好きだけどね」

 と、老人のような女が白く汚れた舌を出している箱を取り出して、小銭を数枚放り込んでからロッカーを閉めた。


「ちゃんと身体に悪いってわかって、でも、自分で選んで吸ってるって感じがする」


 煙をくゆらせる八尾を見ながら、これがブラックマーケットなのかと尋ねると、年の離れた子どもにするように笑ってかぶりを振られた。



「何で言えばいいんだろうな、このロッカーは映画館で言う売店みたいなもので、メインは別のとこ」



 八尾の話によると、この問題児は以前学校を丸一日サボって、ロッカーに並ぶ煙草を補充して中の金を回収する人間が来るのを待ち、その跡を尾行したらしい。



 ロッカーを通りすぎると、続く路地はさらに様々な色の看板が増え、その強烈さに反して淀んだ仄暗い空気が漂い、柄モノをまとめて洗濯したせいでシャツにもタオルにもくすんだ灰色が移ったときのようだと思う。

 夕陽がどろりと僕たちの影を溶かすように伸ばした。



 八尾は足を止めてここだと言った。

 見ると、そこは廃業ビルのようだった。


 雨垂れで汚れた壁面を覆うように設置された、赤茶けた鉄の非常階段がとぐろを巻くように虚空へと伸びている。

 空洞になった入り口には横倒しになった自転車が転がり、その影が伸びる先に地下へと続くらしい階段が黒い口を開けていた。


 景観など考えたこともないという鮮やかな赤に白と黄色で描かれた「カラオケ」の文字は、おそらくまだ平成だった頃に作られたものだろう。



「あの中に消えていったんだ。マジで」

 調和や節制からかけ離れた極彩色の看板と、それでもなお色濃い闇は、確かにブラックマーケットだと言われても納得がいく異様さを持っていた。


「あの中では何が売ってるの」

 八尾は素早く辺りを見回すと、押し殺した声で囁いた。

「人肉、だよ」


 嘘だと思った。

 しかし、八尾は声を低くしたまま、どこか鈍い光を灯した目で僕を見据えている。


「ひと殺して、その肉売ってるっていうことか……」

 八尾は違うと首を振り、

「培養だよ」

 と、言った。


「俺らがもし病気とか怪我とかしたとき、遺伝子から同じ箇所の健康な臓器を作って移植するだろ」


 僕たちが健康を守るための第一の方法はまず怪我や病気をしないこと。万一、してしまったときの第二の細胞培養による治療だ。

 かつては拒否反応なども起こったらしいが、今はそんな心配もない。

 僕の母も一度怪我で視力が低下したが、自分の細胞から角膜を作り直して、今は問題なく生活している。



「そんな感じで、好きだけど付き合えない相手とか、逆に食い殺したいくらい憎んでる相手とか、そういうのの遺伝子採取できる何かしら持って来れば、そこから培養肉を作れるんだって。

 逆に、二十代の女が食いたいとか、顔のいい男の肉を食べたいって言われたときに自分の遺伝子売る奴もいるらしいよ」


 そう語る八尾の顔を西日が染めて、肉を炙るように赤くなっていく。


「有名人の髪とか爪とか持っていくと、馬鹿みたいな値段で売れるんだって」


 冗談はよせと言おうとした瞬間、階段の闇の中から地上に上がる影が現れた。



 僕たちは咄嗟にビル脇の非常階段の方へ隠れた。

 錆びて粉を吹いた手すりから身を乗り出すと、影はすでに地上へ出て、艶のない髪をした中年の女になっていた。

 その左手首に、小さいがやけに重く張りつめた袋がぶら下がっている。


 女は割れ物でも入っているように、慎重に袋に手を入れると、ゆっくりとまさぐり始める。

 耳元で八尾が小さく喉を鳴らした。


 女は袋から手のひらにわずかに収まりきらないほどの大きさの何かを取り出した。

 その赤さは、夕陽で染まっているせいではない。



 いくらか灰色にピンクを混ぜたような色の塊に、絵のようなものが巻かれていた。

 煙草のパッケージに印刷された、臓器や歯の真新しい記憶と重なる。

 八尾が息を呑む音が聞こえた。


 目を凝らすと、それは写真だった。

 証明写真のように正面を向いた、無表情な二十代程度の青年。

 画素が粗いせいか、髪と目の色素が薄く見える。移民の血が入っているのかもしれない。



 女は、悪戯をした子どものように周囲に目をやりながら、手の中のそれを何度も握った。

 確かに自分が手に入れたのだと、質感を確かめるように。


 女は満足したのか、素早く袋にそれをしまい、腹の前で抱えると、傷でも負ったようにうずくまるような体勢で足早に去っていった。



 女の後ろ姿が夕暮れの赤に溶けて見えなくなる頃、八尾が呟いた。


越智おちくん、あれ見た?」

「……見たよ」



 僕と八尾は並んで元来た道を歩いていた。


「あの肉、どうするんだろう」

「どうってそりゃ、食べるんじゃない?」


 そう答える八尾の声は、一見笑いを含んでいるようで、緊張に揺れていた。

 噂では知っていても、実際に取引されたものを見たのは初めてだったという。



「写真の男、あの女の何なんだろうね」

「さぁ……初恋のひととか」

 もっと皮肉に満ちた回答が返ってくると思ったのに、あまりに純粋な単語に僕は少し笑い、八尾も口元だけで笑みを作った。


 女の血縁者には見えなかった。

 年代も、あの女と知り合う機会がありそうには思えない。

 本当にかつて結ばれなかった相手か、女がずっと追っているモデルか歌手か何かか、一度だけ体験入学した英会話スクールの教師なんていうこともあり得るだろうか。



「越智くんは、そうまでして食べてみたい人間いる?」

 僕は答えず、

「八尾くんは?」

 と、質問で返すと曖昧に笑ってごまかされた。

 その表情は複雑で、理解するにはあと何年も大人になってからじゃないとできないだろうと、同い年のはずなのに、そう思った。



 だんだんと街並みが見慣れた清潔さを帯びてきた。


 こういう小さな冒険は終わりで、家に帰れば今日の事件を聞いた両親と、応接室に置き去りにした鞄をどうするかという問題と、明日からの夏期講習の準備だけが待っている。



「よく人間の肉を食べようと思うよね」

 憂鬱を紛らそうと、僕は言った。

 八尾はそうだね、と頷いた後、打ち消すように、ああでも、と呟いて、

「意外といけるもんかもしれない。今じゃ信じられないものも昔は平気で食べてることだってあるしさ。ほら、曽祖父さんのくらいの頃は給食で鯨が出たらしいじゃん」


 捕鯨。

 まだ、クリーンエネルギーどころか石油すらない頃はその脂を灯りにするために鯨を狩っていて、そういう小説もあった。脂が必要なくなった後も食用として鯨漁は続いている。


「今もどこかの海沿いでは鯨を獲ってるんだって。野蛮だっていろんな国から非難されても、伝統だから守ってるんだって」

「詳しいね、越智くん」


 全部本で読んだことだ。

 親戚とそんな話をしたことはなかった。

 八尾の家族は、僕の家よりも親密なのかもしれないと思う。



「何で牛や豚はよくて、鯨は駄目なんだろう」

 僕は呟いた。


「知らないけど、賢いから食べたら可哀想なんだってさ。人間に近い知能あるらしいよ」

「鯨より頭が悪い人間なら食べてもいいのかな」

 八尾は小さく噴き出した。


「越智くん、やっぱサイコだわ」



 僕たちの学校が近づいてくる。


 明日の講習で担任は僕たちに何か言うだろうか。

 きっと今日のように勘弁してくれよと言うのだろう。

 父は何も言わないはずだ。

 母は怒鳴ると思う。泣くかもしれない。その後、カフェインと何年も前から常用している睡眠薬を飲んで、明日の昼まで部屋から出てこない。


 見てきたように想像できる中で、ふと浮かんだ大里先生の悲しげな笑い方だけが上手く思い出せなかった。



「馬鹿の肉なんて食べてもつまらない」

 僕は思わず口に出していた。

 八尾が足を止め、スニーカーが砂を噛む音を立てる。


 僕は八尾とその背後に広がる校舎の輪郭を見据えていった。



「どうせなら、東大卒の肉食べてみたいと思わない」



 八尾は狼のような犬歯を覗かせて笑った。


 清潔な校舎と、大事に育てられた学生ふたりの上に浮かぶ空は、人肉を売買する廃墟の上にあったときと同じ色をしていた。

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