ボーイ・ミーツ・臨時教師(2)

 開け放たれたドアの向こうから射し込む光を、明るい茶色の髪に絡ませ、歯を見せて笑ったのは、同級生の八尾やおだった。



 全員欠けることなく夏休みの後戻ってくるべき生徒のひとりで、夏休みに入る前の今日からすでに欠けていた問題児。

 今や酒や煙草の同じように未成年の身体に悪影響だと疎まれるブリーチ剤で髪を染め、遅刻や早退は当たり前の彼は、形ばかりとはいえ進学校に通う僕たちの中でも異質だった。



 八尾は獰猛に見える大きな犬歯を覗かせたまま、僕を指差した。

「越智くん、だよね? 同じクラスの」


 僕がそうだと頷くと、八尾は前のソファが空いているのに、勢いよく僕の隣に腰を下ろした。


「珍しいね、呼び出しとか受けてるの。何したの?」

 クラスではほとんど話したことがないというのに、数年来の付き合いのような親しさで聞かれて、言葉につまり、

「進路のことで」

 とだけ答え、机に投げ出したままの進路調査表を身体に引き寄せた。


 八尾は聞いたが別段興味もないというように軽く数度頷いて、

「そう、俺はね、朝からずっとここ。いろいろ絡まれちゃってね。昔からなんだよね。俺が喋ると友だちも教師もなんか喧嘩売られてると思うらしくて」

 と、一息に言った。


 癖毛なのかカラーと一緒にパーマもかけたのか、茶色うねった茶髪が輪郭を縁取る横顔を見ていると、その顔がくるりとこちらを向いた。


「ていうか、俺のこと知ってる? 同じクラスなんだけもど」

 知ってるよ、と返すと、彼は嬉しげに僕の背中を叩いた。


「逆に、よく僕のこと覚えてたね」

 僕がそういうと、八尾は目を丸くした。

「何でそう思うの?」

「自分でもわかってるけど、目立つ方じゃないから」


 八尾は一瞬睨むように鋭く目を細めてから、

「そう思ってんの? 目立つよ」

 にやりと笑って続けた。

「越智くん、目が殺し屋じゃん」


 普段だったら八尾が隣に座った時点で身体を避けて、なるべく関わらないようにしただろう。

 でも、担任に呼び出され、大里先生の前で詰問された僕はもう遣うべき気も失うものもないように思えていた。


「……それは、喧嘩売ってるの。それとも、なぜかそう思われるっていうあれ?」


 愛想笑いすら作らずに僕がそう聞くと、問題児はさらに目を細めてから、発作のようにけたたましく笑った。

 何かの線が切れたようにしばらく笑い続け、息を切らしながら、「いいね」と、僕の背中を先ほどより強く叩いた。



 再び静まった応接室に、冷房の音が巨大な生き物の寝息のように響く。


「八尾くんが言ってたいろいろって何」

 そう尋ねてみると、彼は「うーん」と呟いてからしばらく制服中のポケットをまさぐり、ズボンから平たい何かを取り出した。


「コレ、かな」

 机の上に放り出されたそれは、一瞬ピルケースのように見えた。

 手に取ると、素材がプラスチックではなく紙だとわかる。

 青みがかった白のパッケージを覆い隠すように、静脈がドス黒い蜘蛛の巣のように浮いた砂色の臓器の写真が貼られていた。いつかの病院関係者によるセミナーで見た、喫煙を長年続けた人間の肺。



「煙草だ」

「当たり」

 電子タバコすら敬遠され、子どもの目につくコンビニやデパートではまず見ない中、さらに前世代的な紙巻きの煙草だ。


「こんなものどこで買ったの」

 八尾は待っていたとばかりに、素早く口元を僕の耳に寄せて囁いた。

「ブラックマーケット」



 僕が怪訝な目を向けると、八尾は犬歯を覗かせた。

「嘘だろ」

「ホントだよ、うちの街にもあるの知らない?」

「知らない」

「じゃあ、今度教えたげる 」



 そう言いながら、八尾の指が箱の表面を掻くと、中から装填された銃弾のように並んだ煙草が見える。


「それより、吸ってるところが見たい」

 僕が汚れた肺の写真を指差すと、八尾は「ここで?」と首を傾げた。

 そうだというと、八尾は笑って、「いいよ」と答えた。



 八尾は煙草が出てきたのとは逆のポケットから赤いライターを取り出し、左手に持ったまま、右手で慣れた仕草で箱から一歩紙巻きを取り出した。

 煙草を歯の間に挟むと、片手で覆うようにライターを擦る。

 ひそめる眉の形と炎の色は、映画でしか見たことがないものだった。


 煙草を咥えたまま、しばらく虚空を見つめた後、煙草を口から離して、霧のような息を吐く。

 白く烟る視界の中で、八尾が「こういうこと」と笑った。



 応接室にゆっくりと煙が充満していく。すべてが霞んで見える中で、灰の先端の炎だけが輝いて見えた。

 窓ひとつ隔てたグラウンドの、健康な生徒たちが安全な人工繊毛の上を走り回る光景が別世界のようだ。


「火災報知器、鳴らないね」

 僕が言うと、八尾が煙とともに

「そういえばそうだね」

 と、言葉を吐き出した。


「応接室にはついてないのかな」

「いや、そんなことないでしょ。ほら、アレ」

 煙草を挟んだ指で、八尾が示した先を見ると、小さな円盤のような報知器が確かにある。


「壊れてるのかな」

「かもね」

 八尾のズボンのポケットから飛び出た裏地が、白い舌を伸ばしているように見える。


「安楽死も許さないくせに、生徒の命を守る気がないなんて、怠慢だな」

 思わず呟いたのを、不思議そうに見る八尾の指から煙草を抜き取り、僕はソファの背もたれの上に立つ。


「越智くん、何してんの」

「本当に壊れてるか調べる」

 煙草を報知器の真下まで近づけ、何度か振ってみるが、灰が粉雪のように散るだけで何も起こらない。


「危ないよ」

「平気だよ」

「スプリンクラーが動いたら水がザバーッて」

「大丈夫だ、ほら、やっぱり壊れて––」

 そう言った瞬間、けたたましい警報とともに天井から水飛沫が噴き出した。


 僕はまともに水をかぶって、ソファから滑り落ちる。白かった視界が非常灯の赤に変わった。


 八尾が床に転がった僕を見下ろして言った。

「壊れてなかったね」


 遠くで足音が聞こえる。断続的なそれはサイレンの中でも、だんだんと近づいているのがわかった。


「越智くん、逃げるよ」


 そういうと、八尾は素早く机の上の煙草とかっさらい、ドアに向かって駆け出した。

 僕も慌てて進路調査表を掴んで、その後を追う。


 僕たちが勢いよく飛び出すのと、外側からドアが開け放たれるのはほぼ同時だった。


 足音の主を確認する間もなく、その脇の下を潜り抜け、一直線に出口へと向かう。

 怒号に近い声が響いた。リノリウムの床が悲鳴を上げ、波のように生徒と教師たちが道を開ける。


 校庭に飛び出すと、強烈な日差しと部活動中の生徒の声が一気に膨れた。

 気が遠くなりそうになっていると、前を走る八尾が、

「校門まで走るぞ」

 と、叫んだ。

 上履きの底を砂が噛む感覚に任せて、再び走り出す。


 半開きになった鉄の扉を押しのける瞬間、一寸振り返ると、大勢の肩と肩の間に大里先生が見えた。

 苦しげに見える微笑みではなく、本当に苦渋に満ちた顔をしていた。


 罪悪感と教師たちに追いつかれる前に、僕と八尾は学校を飛び出した。



 どこに行くのかもわからないまま走り続け、足がもつれて喉の奥に砂の味がしたあたりで減速し、立ち止まると、八尾もちょうど限界のようだった。


 すでにオレンジになり始めた日差しが、乱杭歯のように陰を落とす高架下で、僕たちは息を切らしてしゃがみこんだ。


 八尾が咳き込みながら、途切れ途切れに言う。

「越智くん、スプリンクラー、やめろって言ったのに」

 息切れした呼吸は引き連れたような笑い声に変わった。ただでさえ苦しいのに笑いたくなかったが、僕もつられて笑う。

 まだ耳についたサイレンを掻き消すように、頭上で電車が駆け抜ける轟音が響いた。



 八尾は膝についた砂を払いながら立ち上がると、落ち着きを取り戻した声で言った、

「さてと、ここからならちょうど近いし、行こっか」


 僕が怪訝さを隠さない声で「どこへ?」と聞くと、八尾は今日初めて見たときと同じ笑みを作って言った。



「ブラックマーケット」

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