ボーイ・ミーツ・ミーツ

木古おうみ

ボーイ・ミーツ・臨時教師(1)

 七月一日。

 青少年健康維持法で試験的に二ヶ月間になった夏季休暇、––つまり僕たちの高校最後の夏休みが始まった。


 世間は十六歳のシンガーソングライター、羽田はだリリスの訃報で持ちきりだった。

 ネットニュースのトピックスは、他にも積極的安楽死が認可されて一周年だということや、日本でふたつ目のブラックマーケットの摘発もあった。


 それでも、僕にとって重大なのは、今日生まれて初めて教師に呼び出しを受ける問題児になったことだった。



 ***


「今期のホームルームはこれで終わりだけど、越智おち、進路指導のことで話があるから、後で応接室に来るように」

 明るくて親しみやすいと比較的人気がある僕の担任は、その評判が嘘のように冷ややかな声で言った。


 僕は誰にも聞こえないよう小さく舌打ちし、俯く頷いた。

 下げた視線の中で、窓からの陽光で異様に長く伸びた机や椅子の脚の影が檻のように見える。


「じゃあ、夏休みを楽しんで、充分勉強して、無事で全員九月に学校で会おう」


 生徒に好かれる教師らしさを取り戻した声で担任がそう付け足すと、生徒たちが一斉に椅子を引く音がこだました。

 全員が夏休みの後無事に戻ってくるべき教室には、すでにひとつの空席がある。


 同級生たちのざわめきを聞きながら鞄に半年分の教科書を詰めこみ、教室を出ようとすると友人の不安げな声に呼び止められた。


「なぁ、越智。お前何したの……」

 眼鏡の奥の細い目が気弱に揺れていた。頼むから自分の知っているお前じゃないようなことは言わないでくれと、哀願する目だと思う。


「志望校、女子大書いたらどうなるのかなって」

 そう答えてやると、友人の瞳からするりと緊張が抜け落ちたのがわかった。


「……で、どうだったの」

「B判定」

「頑張ればいけるじゃん」

 僕は笑って、少し肩をすくめた。


 廊下のリノリウムを上履きが擦る音に混じって、友人が呟くのが聞こえた。

「俺は、越智が何かヤバいことしたのかと思ったよ」

 僕は肩に食い込む重たい鞄を背負い直し、

「できるわけないじゃん」

 立て付けの悪いドアを押した。


 教室では数人の生徒が授業用のプロジェクターに動画サイトを写して、羽田リリスの追悼番組を流しているようだ。

 細い歌声が雑音の中で、ピンと張られたピアノ線のように鮮明に聞こえた。



 ***


 応接室の中は教室より冷房が効いていて、柔らかいソファの人工皮革が死人の肌のように冷たい。


 僕は窓側に座り、向かいに担任と先月から入った臨時教師の大里おおさと先生が座っている。

 全員が黙っていて、沈黙より軽い冷気が部屋の上部をゆっくりと回遊するようだ。


 大里先生は僕と目が合うと、眉根を寄せて苦痛に耐えるような微笑みを作った。

 実際苦しんでいるのではなく、彼は元々こういう笑い方なのだと最近気づいた。

 小テストの答案を見るときしかかけていないはずの眼鏡を、今日はかけたままだ。


 隣のクラスの担任が、顧問を務める野球部の活動帰りにトラックに跳ねられて入院して以来、現代国語の授業とクラス担任を務めている、まだ二十九歳の教師だ。


 無口で笑いどころのひとつもない授業をするので、多くの高校生の心を掴めるはずもないが、僕は担任よりも、どの生徒も呼び捨てにせず、板書が綺麗な大里先生の方が気に入っていた。



「越智、お前なぁ、どういうことだこれ」

 ようやく口を開いた担任は芝居掛かった手つきで頭を抱えながら、進路希望調査の結果を顎で指した。


 第一希望の欄、「進学」「就職」の隣の「その他」に丸をし、括弧付きの具体例の中に薄いシャープペンシルで書いた紛れもない僕の字。


“安楽死”


「できますよね、今年の九月で十八になるので」

 机についた担任の両肘の間を見つめて僕は言う。

 去年可決された安楽死法の条件は、十八歳以上の男女全てに認められているはずだ。

 もっとも、実際は煩雑な申請や心身のチェックを数々を漏れなくクリアした場合だが。


「頼むよぉ、越智。まだ若いんだからさ。冗談でもこういうの書いちゃ駄目だろ」

 作り笑いした担任の目と、友人の目が重なり、小さい頃に見た記憶の中の栗鼠の目に繋がった。

「冗談じゃないです」


 教師ふたりの抑えた溜息はほぼ同時だった。

 それから、少し溜めて、切り札のように担任が言った。


「本当はやりたいこと隠してるんじゃないか。親御さんに負担かけないように」

 腹の中で何かが固く凝るような感じがした。担任は続ける。

「お前、最近部活も委員会もやめただろ。自信がなくて何かやるのが怖いんじゃないか。クラスの百合川ゆりかわのことだって……」


「先生、それとこれとは今別かと」

 僕が我慢しきれなくなる前に、大里先生が口を挟んだ。

 一瞬、時が止まる。

 次に誰か口を開く前に、けたたましく鳴ったのは電話のベルだった。



 急の呼び出しで担任が席を立ち、応接室には僕と大里先生が取り残された。

 窓から白い光とともに、部活動の最中の生徒たちの声が柔らかく響く。

 視線をやると、人工繊維の繊毛が茂るグラウンドでサッカー部たちが走り回っていた。

 四半世紀前までは、雑菌だらけで硬度もある剥き出しの地面を使っていたらしい。それで大量の死人がでなかったのが不思議だ。



 大里先生は静かに机上の書類を裏返して、指を組んだ。

「どうですか。越智くんは図書委員を辞めても本は読んでいますか」


 抑揚を抑えたその声に、さっきまで担任に何を言われても響かなかったというのに、急に謝りたいような気持ちになった。

「はい、まぁ、少しですが」

 僕が答えると、大里先生はまた眉をひそめて笑う。


「越智くんは文学部には興味はありませんか。今先細りしているのも確かですが。本が好きなら楽しいと思います。私もそうでした」

 僕は答えられなかった。気遣いを感じるほど、勝手に責められているような感覚に陥る。



 大里先生は眼鏡を外して机に置き、目頭を軽く揉んでから言った。


「昔、海外の雑誌か何かだと思いますが、ある風刺画を見たことがあります。

 ふたりの男がいて、片方は眼前の花畑に夢中になっている。でも、もうひとりはそれが壁に描かれた張りぼてだと知っています。なぜなら、彼は積み上げた本を踏み台にして、花の絵の壁の向こうに広がる焼け野原までが見えているからです。

 越智くんは今、その状態かもしれません」


 グラウンドで歓声が響いた。


「でも、その焼け野原も絵ではないという確証はないんです。もう少し積み上げてみると、それすらも壁紙で、向こうに全く別の景色があるかもしれない。

 それを探すのもいいと思います。越智くんにはまだ時間がたくさんありますから」


 大里先生は言い終わると、恥ずかしげにいつもより深く眉間に皺を寄せて苦笑した。

 グラウンドからの声が再びさざ波のように聞こえる。


 応接室のドアが開き、事務の女性が大里先生にも電話が入ったと告げる。

 先生は眼鏡を胸ポケットにしまいながら腰を浮かした。


 少し待っていてくださいと言って、ドアに手をかけた後ろ姿に尋ねてみる。

「先生ってどこの大学出身ですか」

 少し逡巡してから先生が答えた。

「……東大です」


「すごい、頭いいんですね」

「こういう言い方はよくないのですが、残念ながら、東大で一番頭の悪い学部でした」


 苦渋に満ちてみえる笑みだけ残して、大里先生はドアの向こうに消えた。



 僕はソファに後頭部を埋める。

 ニスの色をしたインテリアのせいで、時間ごと塗り固められたような応接室で、手持ち無沙汰に今日のニュースを思い出してみる。


 羽田リリスの訃報。

 積極的安楽死法可決から一周年。

 日本でふたつ目のブラックマーケットの摘発。


 ブラックマーケットの場所を思い出そうとしていると、勢いよく応接室のドアが開いた。



 担任でも大里先生でもなく、本物の問題児が立っていた。

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