あの夏の空を見上げるたび、私は思い出す。

ぱん

あの夏の空を見上げるたび、私は思い出す。


「あの空の先は、どうなっているんだろうね」


 ――あの日、先生が口にした言葉を反芻する。

 広がる宇宙のその先のことを言っていたのか。

 それとも、青空のその先に在る宇宙のことを指していたのか。

 想像しかできない彼の言葉を、十年と経った今でも憶えているのは、表情が印象的だったからだろう。

 探求に満ちた輝きはなく。

 悲壮に沈んだ翳りもなく。

 ただ、ただ疑問を無意識に、口からぽろっとでてしまったような、空を見上げる無表情は、こちらを振り返って笑顔を浮かべたのだ。

「どう思う?」と問うでもなく、手を差し伸べて「さあ、行こうか」と疑問を投げ出して前に進むことを選んだ彼の表情の奥底は、今でも読み取れる気がしない。

 諦観があったわけではない。それこそ希望があったともいえない。

 彼が見上げた先に空があって、昼は蒼く、夜は藍に満ちたその空が懐疑的にでもなったのだろう。ふとした時に落ちてくる疑問は数あれど、なぜかそのとき告げられた――独り言のような語りを、今でもふと思い出しては頭を抱えている。


「……」


 窓辺に吊るされた風鈴が、ちりん、と鳴る。

 見上げる空は、あの日と同じような抜けるような青空だった。

 雲一つない、さっぱりとした暑さの滲む夏空には、一本の飛行機雲が走っている。


「今、先生はどこで何をしていますか?」


 ざわめきを忘れた胸に触れ、空を見上げるたびに想う彼の影法師は、今でもここにある。

 ときめきなんて綺麗なものではない。

 どうしても、欲しかったのだ。

 彼があの時、考えていた――考えていなくてもいい、あの言葉に対する思いを、語ってほしかった。彼の口で、彼から直接。


「もう一度、会いたいな」


 高校生だったあの頃から、嫌なほど大人になってしまった。

 彼はもう少し上の大人だ。大人になりたての未熟な頃から、随分と玄人になっているだろう。剃っていた髭をかっこつけて生やして、煙草をふかしていたり、はたまたそのままで、きっちりとした教師を続けていたり。

 どうなっているのだろう。どうしているのだろう。

 ざわめきを取り戻すことのない胸に空気を入れて、団扇を振る。

 温い風が、頬を滑る汗を撫でた。

 眼下のグラウンドから、元気な子ども達の笑い声が聞こえる。

 ――夏が来るたび、きっとまた思い出す。


「私はちゃんとやれてると思いますか」


 疑問は確認に変わって、デスクの上に広げた資料をまとめた。

 あと少し。

 夏が終われば、また賑やかな日常が回帰する。

 愚痴を肴に酒を呑んで、どうでもいい日常を送って、また夏に戻ってくる。

 そうして思い出す言葉に頭を抱えて、ただ憧れに縋りつくのだろう。

 こんなことなら、言っておけばよかった。


「私は、私はね、先生――」


 溢れた息が、感情を押し留める。

 戻ることのない時計の針が、カチッと音を立てて進んだ。

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あの夏の空を見上げるたび、私は思い出す。 ぱん @hazuki_pun

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