第23話 最終話
朝起きたら、まず珈琲豆を挽くことがソレッラの日課だ。
挽きたての珈琲の匂いを嗅いでいると、まだ半分夢のなかにいる頭がゆっくりとベッドから降りてくる。爆音も銃声も、炎の壁も今となっては遠い過去のように感じられる、ゆったりとした朝が戻ってきていた。
ボフミラとの戦いが終わってから、三週間が経過した。
吸血鬼ボフミラ・ネトリツカによる空港襲撃事件をきっかけに、ヴェントリーニ・ファミリーはCVCとの協力関係を手に入れた。一部メンバーからの反発もあったが、カポ・ヴァニアの命を救ったのがCVCの特別捜査官だということで、今までの諍いは水に流そう、ということになった。ちなみに、当初CVCの「研究員の不祥事」という弱みを握ってやろうという算段は潰えていた。ボフミラ起こした騒ぎが大きすぎて、公表せざるを得なくなったからだ。
朝のテレビのニュース番組では空港襲撃事件から復興する空港が特集されていた。映像のなかでは、炎に炙られた駐車場のゲートバーが新しいものに交換され、ターミナルビルの割れたガラスや天井のパイプが元通りになっている。三週間前と同じように様々な人が行き交い、ゲートエリアの窓から飛び立つ旅客機が見える。カメラは様々な角度から現在の空港の風景を映した。最後にターミナルビル入口に設置された献花台が数秒間映った後、一人の男性キャスターがチェックインカウンターを背景にして立つ姿に切り替わった。
「五十名以上の死傷者を出した吸血鬼による空港襲撃事件。今も多くの人々が献花台に訪れています」
キャスターは粛々と告げる。普段は世間の流行を茶目っ気たっぷりに伝える彼も、今回ばかりはスーツを着ている。
「三年前のマフィア幹部の殺害事件をはじめ、病院を標的にした無差別殺人事件など、吸血鬼による事件は後を絶ちません。そして今回の痛ましい事件において、犯人の吸血鬼は人間社会への強い憎しみを抱いていたといいます。ネットでは吸血鬼を隔離せよ、駆除せよという声もありますが、見た目は人間とまったく変わらないため見分けることはできません」
ソレッラはテレビを消した。見るつもりだった天気予報は後ほどネットで調べることにする。
皮肉なことに、ボフミラが感じた人間社会から疎外される苦しみは、他ならぬボフミラ自身が引き起こす形になってしまった。あの後、モニカのほうは最後まで見つけることができなかった。ボフミラが海外に行こうとしていたことから、モニカもまたイタリア国内から完全に姿を消したと見られている。今後はCVCが主体となって世界中に網を張り巡らし、行方を捜索するということだ。
ヴァニアと自分、二人分の朝食の準備を進めていると廊下から軽やかな足音が聞こえてきた。
「おはよう、ソレッラ!」
ヴァニアがダイニングルームにひょっこりと顔を覗かせる。
「おはようございます。今日はご機嫌ですね」
「ええ。なんだか調子がいいのよ。今日は契約破棄の副作用もないし」
ヴァニアはまるで事件などなかったようにあっけらかんと笑った。彼女の目は真っ直ぐにソレッラを見ていた。
「なんだか慣れないわね」
ヴァニアはうっとりと微笑んでいたが、しばらくすると両手で顔を隠した。
「私の顔になにかついていましたか?」
「ううん、あなたがソレッラなのね。ソレッラなのよね」
「そうですよ、カポ」
ヴァニアの指の隙間からは柔らかな肌が見える。彼女の頬がみるみる赤くなっていくのに気づいて、ソレッラの顔が熱くなる。これまでは表情など気にしなくてよかったのだが、今は顔に出さないようにするのが精いっぱいだ。
事件後、ソレッラはヴァニアの回復を待って契約破棄を行った。病床で契約のことを聞いたヴァニアは少し不満そうだったが、ソレッラの気持ちを聞いて納得してくれた。
契約はヴァニアに大きな変化をもたらした。その最たるものが視力の復活である。契約は生まれつき失われていた視力ですら回復させた。しかし契約破棄後に視力は少しずつ失われつつあり、いずれ再び目は見えなくなってしまうだろう。
「契約を破棄するのは少し寂しかったけど、滞りなく済んでよかったわ。エリからもらった薬はすごく効くのよ。原料はなにかしら?」
「さあ、わかりません」
ソレッラは静かに首を横に振った。実のところ原料は知っていたが、ヴァニアには教えたくなかったのだ。
副作用を抑える薬はエリの血液でできている。詳しい経緯は聞いていないが、昔契約していた吸血鬼の《病魔》の能力の一環らしい。エリの血液には吸血鬼の血液を侵し、魔力を殺す力があった。
「さて、カポ」ソレッラは話題を変える。すでに終わった事件よりも重要なことがあるのだ。「今日はどちらに参りますか?」
「そうね、国内はもうたくさん行ったから今度は外国にも行ってみたいわ。モン・サン・ミッシェルとか、プラハ城とか、ノイシュヴァンシュタイン城とか、大英博物館とか、それからそれから!」
「どれも日帰りは難しそうですね。いっそしっかり準備して、ヨーロッパ一周旅行でもしてみますか?」
「それ、いいわね!」
ヴァニアは花が咲いたように笑う。
「今のうちに色んなところへ行って、色んなものを見て、体験して、ソレッラと一緒に楽しむの。それから正義のファミリーとして困っている人を助けるのよ。手伝ってくれるわよね?」
つられてソレッラも微笑む。
ヴァニアの目が見えるようになったことは必ずしもいいこととはいえない。再び視力が失われたとき、事件の前と同じヴァニアでいられなくなるかもしれない。それでも今はまだ、このささやかな喜びを楽しんでいいだろうか。
「はい。正義の吸血鬼としてずっとカポの傍におりますよ」
そのとき、トースターが新しい朝を告げるように晴れやかな音を鳴らした。
チトハナ 血と華の吸血鬼譚 さゆと/sizukuoka @sayutof
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