第22話 ネリネの誘惑⑧
ゲートエリアに入った途端死者の伏兵が出現し、乱闘が始まった。ソレッラは銃の連射で彼らの首を落とす。一方でエリはライフルを鈍器のように扱い、動きを止めては手で首を引きちぎっていた。常人を超えた腕力は吸血鬼に近いものを感じたが、エリはあくまでも人間として戦いに参加しているようだった。実際のところはわからない。
ソレッラは特殊部隊の後ろから援護射撃を行った。ヴァニアの血は身体によくなじみ、脚の痛みがかなり引いていた。契約者の血液が吸血鬼にもたらす効果は相性によるが、ソレッラとヴァニアのそれはかなりいい。今まで契約していなかったのが嘘のようだ。
ゲートエリアの窓からは滑走路が一望できた。各搭乗口の横に行儀よく並んだ旅客機がひっそりと置かれている。夜空には星も月も見えない。滑走路の向こうに黄色い電灯が等間隔に並んでいて、さらに向こうに黒々とした森が広がっている。森の向こうには市街地があり、種々の光が湖面に浮かんでいるかのようだった。
エリと特殊部隊の働きで死者の数はじわじわと減っていた。残るは十人ほど。終わりが見えてきたことで、隊員たちの顔にも明るさが浮かびつつあった。
唐突に銃声が響き、一人の男性隊員が膝を折った。彼の最も近くにいたエリがサポートに入る。弾道の先には拳銃を持つボフミラの姿があった。
「ここは私たちが抑える。行け!」エリが戦いながらソレッラの背中に声をかける。「もう十分動けるんだろう。奴に一矢報いてやれ」
「では、遠慮なく!」
ソレッラはボフミラに向かって一直線に駆けた。十全ではない膝が軋むが、契約の力と戦いの興奮で夢のなかにいるようだった。ヴァニアとの血の繋がりが、ソレッラに勇気を与えてくれる。
ボフミラの脇にいた二人の死者が主人を守るようにソレッラに立ち向かってくる。が、エリの放った弾丸に首を貫かれ、つんのめるように倒れた。ソレッラはその間を縫ってボフミラに接近する。ソレッラは鉛手榴弾を取りだし、ピンを抜いて右手を大きく振りかざした。
ボフミラの目が大きく見開かれ、虹彩が消えた。
次の瞬間、思い切り投げたはずの手榴弾はボフミラの手に収まっていた。背筋を凍らすソレッラの前で、ボフミラは爆発の衝撃を握りつぶした。
ボフミラの掌からとうとうと血が流れる。手には掌から甲を貫き、鉛の破片が深々と突き刺さっている。彼女はトカゲが尻尾を切るように、自ら鉛毒に侵された手を引きちぎった。
ソレッラの全身に鳥肌が立つ。
「どうせ死ぬのならおまえも道連れだ」
ボフミラの血が、手首から肘へ、肩へ、胸へと垂れる。血の流れとともに白い肌が青淡色へと変色し、付近に腐臭が漂う。
その猛烈な刺激臭にソレッラは思わず息を止めた。これまでの死体とは比べ物にならないにおいが鼻を襲い、涙が抑えきれずに視界がぼやけた。
ボフミラは己の身体を死者化しようとしている。能力の限りを尽くした肌の腐敗速度は著しく、胸元が青くなるころには腕は赤褐色に膨張していた。まるで死体を繋ぎ合わせて造られた怪物だ。
ソレッラは短機関銃を連射した。だが、ボフミラの身体を食らいつくすがごとく向かっていった銃弾は腐敗ガスを含んで膨張した肌に食い込んだ。食い込んだ傷口から黒い体液が排出され、弾は簡単に押し出されてしまう。
ボフミラの変化に気づいたエリがライフル弾を撃ち込む。身体は衝撃で揺れたものの、ソレッラのものと同じように弾丸はすぐに排出されてしまった。
髪を振り乱したボフミラが拳銃を捨ててソレッラに踊りかかった。武器を捨てるなど先程までのボフミラからは信じられない行動だ。彼女は理性すら手放しつつあるのか。
ボフミラの攻撃を避けた拍子に黒い体液が顔にかかる。一瞬顔をしかめたが、ソレッラはすぐに表情を引き締めた。だが、その心意気はあっさりと折られた。
ボフミラが突き出した拳を受け止めようとして、ソレッラは十メートルほど吹き飛ばされた。体勢を立て直す前にボフミラが接近、傷が治り切っていない脚に蹴りを加える。一瞬息が止まる。ボフミラの追撃は止まらない。ソレッラは反撃に出る間もなく攻撃をいなすので必死になる。
ボフミラが攻撃を加えるたびに、彼女の身体から糸が切れるような音が聞こえる。腕や太ももが歪にへこみ、皮膚が破れて血が飛び散った。ボフミラ自身の死者化は、本物の死体のように血流を止めるわけではないらしい。
ボフミラは身軽さを維持しつつ、捨て身の威力を一撃一撃に乗せてきた。拳ひとつですら大男を相手にしているような重さがある。
ソレッラは距離を取り、最後の対吸血鬼手榴弾を取り出す。これで勝つには全身に当てるしかない。思い切って手を振りかざしたとき、後ろから死者がソレッラの手首を掴んだ。
よろけたソレッラの隙を見逃さず、死者は手榴弾を奪い取った。追いすがる間もなく、手榴弾はソレッラの手から遠く離れていって爆発した。ほぼすべての破片を身体で受け止めた死者はバラバラになって倒れた。
呆然と佇むソレッラの横にエリが駆け込む。
「あいつをどうやったら倒せると思う?」
不意に問いを投げかけられたソレッラは渋い顔で応じる。
「確実に殺せる方法はありません。ただ、少なくとも動きを止めることはできます」
「それでいこう」エリはロクに内容も聞かず、ソレッラの肩を軽く叩いた。
「任せる」
死者の群れに片を付けた特殊部隊員たちがボフミラにライフルを向ける。計二十の銃口がボフミラを狙い、一挙に赤い火花を噴き出した。エリも彼らに加わり発砲する。
ボフミラは銃弾を避けつつ隊員たちに迫った。弾が掠めた腕からタール状の体液が零れ出すのも構わない。前方で防護盾を構える隊員に殴りかかる。足を踏ん張る屈強な隊員を、ボフミラは赤子の手をひねるように防護盾ごと殴り飛ばした。背後にいた二人の隊員も巻き込まれて後方へ飛んでいく。ボフミラはなお止まることなく次の標的へ向かう。
「人間には荷が重い、後退しろ!」
隊員に断固と指示を出したエリが、ボフミラの前に立ちはだかった。ライフルを防具代わりに使いつつ、ボフミラの素早い攻撃をかわす。ボフミラの視線がエリに釘付けになっている隙に、ソレッラは敵の後ろへと回り込んだ。隊員が後退するのを見計らってエリは下がった。大仕事を終わらせたエリの額には大粒の汗が浮かんでいた。
「ありがとうございます、エリ」
小さく呟いたソレッラの目の前には、ボフミラのうなじが見えていた。ソレッラの気配に気づいたボフミラが振り返る。ボフミラの散大した瞳孔に、短機関銃を構えるソレッラ自身が映っていた。
トリガーを引き絞る。弾幕がボフミラを襲い、彼女の肌から再び黒い体液が零れる。体液は当たった弾を押し出して洗い流す。ボフミラの腕はもう肌が腐り落ち、一部筋肉が露出している部分さえあった。そのとき、ボフミラが膝から崩れ落ちた。
突然動けなくなったボフミラは驚怖の色を浮かべていた。足首から先が過剰な能力行使によって腐り、露出した白骨が折れている。ソレッラは短機関銃に新しいマガジンを装填して全弾を放った。
二十発の弾丸はほとんどが命中した。だが、ボフミラはそれらを歯牙にもかけず再び立ち上がる。墓場から蘇った死者のような、恐れを知らない昂然たる態度だった。
「まだ、まだだ、僕は」意識すらないと思われたボフミラの瞳には凄まじい執念が宿っている。「おまえたちには、負けない……!」
ボフミラは切れ切れに叫ぶと、胸元からロケットを取り出した。それは病院で見た「お姉様」の写真が納めされているものだ。蓋を開けようともせずしっかと握りしめている。白衣の袖口から黒い体液が流れ落ち、掌に吸いこまれていく。止まらない体液の流出は彼女の手からロケットを奪い、真っ黒に汚して落下した。
その途端、ボフミラは動力を失った人形のように動かなくなった。やがて、彼女の両の目から涙が零れて頬を濡らす。ロケットはぬかるんだ闇のなかに沈んでいき、見えなくなってしまった。
「終わらせましょう、ボフミラ」
ソレッラは銃を下ろし、厳かに告げた。エリと隊員たちの視線が集まるのを感じながら粛然として歩み寄る。
ソレッラはボフミラの正面まで来ると、赤く膨れた手に触れた。両手で優しく包みこみ、恭しく持ち上げる。ボフミラの手にはまだ体温が残っていた。
ソレッラは手の甲に牙を立てた。深々と刺し入れて血管を探る。やがて、弱い力で流れ出した血がソレッラの舌に触れた。ボフミラの身体とリンクが形成される。
ボフミラの脚は死者化が相当進行しており、操って動かすことはできなかった。ソレッラが差し出した短機関銃を受け取らせると、ボフミラはとうとう覚悟したように肩を震わせた。銃口を己の喉に向けるよう仕向けたとき、ボフミラが唇をわずかに動かした。
「モニカ、あとは頼んだ……」
耳に張りつく最期の祈りを振り切るようにソレッラは目を閉じる。
一度だけ銃声が鳴り響き、ゲートエリアに静寂が訪れた。
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