第21話 ネリネの誘惑⑦

 ヴァニアの心臓は緩やかに、しかし確実に死へと向かう。もう何分もたたないうちに止まってしまうのかもしれない。力なく垂れた両腕が痛々しい。白かったはずのコートは焼けて黒く変色し、赤黒い血が付着していた。ヴァニアの背に刺さった金属片を急いで抜き取る。幸か不幸か、金属片は思ったほどの多くは刺さっていなかったが、彼女の意識を奪うには十分だった。


 この世の終わりが来たような気分だった。ヴァニアが身を挺してかばってくれたおかげで、ソレッラの身体に致死量の鉛の破片は刺さっていない。それでも、ヴァニアを失った世界のことは考えられなかった。


 視界が歪み、それから震えた。まぶたいっぱいに溜まった涙が表面張力を破って落ちていく。


 そのとき、二十人程度のせわしない足音がターミナルビルにこだまし、壁面のガラスが飛び散った。ガラスが割れた場所から屈強な男たちがいっせいになだれこんでくる。男たちは滞りなく散開し、防護盾を持った男が前列に、銃を構えた男が後列に陣取った。


 透明な防護盾に堂々と書かれた隊名から、ソレッラは彼らが国家憲兵の特殊部隊であることを知った。濃紺の隊服に身を包み黒い帽子をかぶった男たちの後ろから、一人の女が歩み出した。アジア系の顔立ちのせいか若く見えるが、立ち振る舞いには老練の風格がある。戦闘服は身を守る装備をそぎ落とし、軽量化したもののようだ。男たちは盾の前に歩み出た彼女を止めようともしない。突き刺すような鋭い瞳が印象的だった。


「パパヴェロ大学医学博士兼CVC研究員、ボフミラ・ネトリツカ。殺人および放火の容疑で逮捕する」


 女は銃口から灰色の煙が立ち上る大型ライフルを構えたまま、断固とした口調でいい放った。


 銃口の先には、床にうずくまるボフミラがいた。ボフミラは首の付け根から血を流していた。肩を伝った血が白衣を汚し、赤い染みを広げている。唇の間からときおり苦しげな唸り声が漏れ、浅い呼吸をするたびに身体を揺らした。


「CVCには吸血鬼犯罪に関わった者の逮捕・拘束権が認められている。抵抗する場合は銃殺も辞さない。大人しくしろ、ボフミラ」

「おまえか、エリ・ツキシロ。いきなり撃ってくるとはな、おかげで手榴弾がすっぽ抜けたではないか」


 悪態をつくボフミラを睨みながら、エリ・ツキシロと呼ばれた女性は頷いた。


「そう、私だ。まさか裏切られるとは思っていなかった。おまえの研究に期待していたのに、とんだ悪女だったようだ」

「ふふ、もう遅い。僕を捕えようが意味はない。ここへ着いた時点で僕の役割は終わったのだ。あはははは……残念だったな!」


 ボフミラが飛びかかろうと立ち上がったとき、エリのライフルが火を噴いた。銃弾がボフミラの目元を掠め、肉が削げた。青ざめるボフミラの頬から血が垂れる。


「大人しくしろ、といったはずだが?」


 エリは表情一つ変えずに、なお銃口を向けている。


「くっそ!」


 ボフミラは苦々しげに血を吐き出した。足を踏ん張って立ち上がり、よろめきながら保安検査場のほうへ走り出す。


「待て、ボフミラ!」


 エリが追おうとしたとき、警官たちがざわめいた。保安検査場からボフミラと入れ替わるように死者たちが一斉になだれこんできた。さらに、玄関のほうからも先程までソレッラたちを追って来ていた死者の群れが流れ込む。特殊部隊は前後から挟撃された。


 エリの行動は早かった。腰のホルダーから取り出した手榴弾を、保安検査場の両脇に撒いた。仲間たちを盾にして爆風を免れた死者が、一斉にエリのほうへ駆けてくる。数人の死者が途中で地雷に引っかかり、派手な爆発とともに木っ端みじんになった。


 続く死者たちは列を形成して地雷が爆発した跡を辿る。


「首を落とせ! それで奴らは止まるッ」


 エリの号令を受け男たちは動き出す。防護盾を使い死者の動きを止め、銃やナイフで首と身体を切り離していく。素早い連携の前に死者は手も足も出ずに倒れていく。


「大丈夫か?」

「ええ。それよりも彼女をお願いします……」


 ソレッラは上目遣いにエリを見つめる。手榴弾の爆発はヴァニアの身体をずたずたに傷つけたはずだ。破片は内臓にも及んでいるかもしれない。早く救急車に乗せて、治療を受けさせてやってほしいと懇願した。


 エリはソレッラの上で息も絶え絶えなヴァニアをつぶさに観察し「救急車では間に合わない」といいきった。


「彼女はまだ生きています! 脈も呼吸もある。死を宣告するには早いのではないですか!」


 やり場のない怒りをぶつけるソレッラに対し、エリは冷酷に感じるほど落ち着いていた。


「あなたがヴェントリーニ・ファミリーの吸血鬼で、この子は契約者?」

「私は吸血鬼ですが、彼女は契約者ではありません。私は誰とも契約していません」


 ソレッラがぶっきらぼうに答えると、エリは驚嘆の眼差しで見つめた。


「そう。なら、今すぐこの子と契約しなさい。この子の魂が認めていれば意識の有無にかかわらず契約は成立するはずだ」

「いえ、早く病院へ運んでやってください。私は、彼女を死なせたくはないのです」

「駐車場の火災ですぐに病院へ行けるかどうか怪しいんだよ! あなたの血はこの子に吸血鬼の力を分け与えて命を繋ぎ止めるはずだ。さあ、早く」

「契約はできません! 今生き残っても彼女は結局死んでしまいます!」


 ソレッラは食い下がった。契約したところで、変わるのは死ぬのが早いか遅いかだけだ。それでは意味がないのだ。


 ソレッラを押しとどめ、エリは真剣な目で応じた。


「契約の破棄を手伝うといってもか」


 今度はソレッラが驚嘆の眼差しを向ける番だった。エリはため息をついた。


「契約破棄の副作用を抑える方法を知っている。ただし効果があるのは人間だけだ。あなたには魔力の低下と戦ってもらわなければならない」

「……できるんですか、そんなことが」


 契約破棄は人間にも吸血鬼にも大きなリスクがあるはずだ。実際、過去には精神に異常をきたしたり、肉体の自滅アポトーシスが始まった者もいる。そのような副作用に有効な手段があるとは聞いたことがない。先代のカポも探していたことがあったが、結局は見つからなかった。


「できる」


 きっぱりと肯定するエリを見て、ソレッラは胸の上で動かないヴァニアを抱きしめた。血がまとわりついた指先で背中を撫でてやる。手榴弾が爆発したときに飛び散った金属片が、ヴァニアの背に刺さって命を蝕んでいる。トクトクと刻まれる鼓動は、こうして抱きしめないと感じられないほどに小さくなっていた。


「クレーリア、許してください。そしてヴァニア様をどうか助けてください……」


 ソレッラは初めて神に祈った。もし神がいるのならば、死んだクレーリアもまた天国から見守ってくれるだろう。


 契約を決めた途端、乾いた口のなかに唾液が充満した。現金な身体を後ろめたく思いつつも、ソレッラは精いっぱい優しくヴァニアの首筋を舐めた。


 くすぐったいからやめて、といわれたかった。だが反応はない。波のように押し寄せる後悔に後ろ髪を引かれつつ、ソレッラは牙を立てた。傷跡が残らないように、ほんの少しだけ肌に穴を開ける。傷口からヴァニアの血液が舌先に吸い付いた。


 ヴァニアの血は香しく甘く、想像していたよりずっと柔らかい舌触りだった。味わうのもそこそこに、ソレッラはヴァニアの体内に自身の血を注ぐ。契約するからにはなるべく早く多くの血液を分け与えてやりたい。吸血鬼の血に宿る魔力は強力だ。小さな傷はたちどころに治るし、深い傷にも耐えうる力を与えられる。


 内心危惧していた拒絶反応は起こらなかった。ヴァニアは契約を受け入れてくれたのだ。


 牙の痕を舐めながら小さな手を握ると、わずかに握り返された。それだけでソレッラの未来に一斉に花が咲き誇ったようだった。まぶたに浮かんだのはピンク色のネリネ。光が当たると花弁がダイヤモンドのように輝く。


 ソレッラはヴァニアを抱きしめた。鼓動や呼吸がだんだんとしっかりとしたものになってくる。同時に、ソレッラもヴァニアの血を吸ったことで傷の回復力が高まっていた。もう、脳に突き刺さるような痛みはない。


 特殊部隊の男の一人がソレッラの傍に膝をつき、ヴァニアを受け取った。


「安全なところまでお連れします」

「よろしくお願いします」


 ソレッラはうち捨てられていた短機関銃を拾って立ち上がる。


「もう大丈夫なのか?」

「ええ、いけそうです。私もボフミラを追います」


 エリはソレッラの申し出を快く受け入れ、特殊部隊についてくるように指示を出した。ボフミラを追う道は保安検査場から出てきた死者が通った場所だ。死者が通ったことで、隠されていた地雷はすべて爆発した。ソレッラとエリ、そして隊員たちは二列になって死者が切り拓いた道を通り抜けた。

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