第20話 ネリネの誘惑⑥
足が潰れて満足に動けない。まず、ソレッラの頭のなかに描かれた空港の地図に従って、ヴァニアを外に逃してやろうと考えた。外には部下も警察もいるし、CVCの捜査官も来ているという。守ってくれる誰かと合流すれば安全な場所に連れていってもらえるだろう。
ソレッラは残った体力の限りを尽くして能力を発動――ヴァニアの肉体とのリンクを繋いだ。
「だめ、待って! 私はここにいる!」
ソレッラの意図を理解したのだろう、ヴァニアが喉を引き裂かれたような叫び声をあげる。けれど、もう彼女のワガママを聞いてやることはできない。これ以上は譲れないし待ってもやれないのだ。ヴァニアの足に意識を集中し、彼女の抵抗を捻じ伏せ、ターミナルビルの外へ向けて走らせようとした。
「逃げるなよ」
ボフミラが昂った調子で声をかける。
「地雷はたくさん仕掛けてある。その女は吸血鬼だからまだ脚がくっついているが、人間が踏めばどうなるかはわかるよな?」
喉元に銃口を突きつけられた気分だった。ソレッラはヴァニアをこの場に留まらせるしかない。銃を構えさせ、自分の後ろに隠すだけが精いっぱいだ。
床には旅行客の荷物が散乱している。ボフミラはこれらのハンドバッグやビニール袋のなかに地雷を隠したのだろう。散乱する荷物の量から考えて、ひとつひとつ目視で確認することは不可能だった。地雷は地下に埋められない代わりに、赤外線を使って獲物に反応するタイプのものだろう。
ソレッラは歯を食いしばり、取り落とした短機関銃を拾い上げた。銃口はボフミラを迷いなく捉える。ソレッラの苦し紛れな抵抗を見て、ボフミラは歩みを止めた。
「で、どうなんだ。おまえたちはこれでも僕を見逃す気にならないのか? 僕としては同胞を殺すのは忍びないんだが」
距離は目測で約二十メートル。ボフミラは呆れたような表情で、弾の切れた拳銃を捨て両手を上げる。
「そんなの、お断りです……ッ。たとえ相討とうとも、あなたの目的は果たさせない」
ソレッラは全身が湧き立つままに吐き出した。無理に体を起こしたせいで血が流れ出すのが早い。身体の芯が急速に熱を失っていくような感じだ。短機関銃を構えている腕にも、上半身をぐっと起こしている腹にも力が入らなくなってくる。
なによりヴァニアとのリンクが薄れつつあるのが怖かった。他者を操る能力は、敵を殺したり敵地侵入の手引きをさせたりするだけではない。目の見えないヴァニアの道しるべとなり、ときに彼女を助けてきたのだ。リンクが切れればヴァニアを逃げさせることができなくなる。せめて応援が来るまでは持ちこたえなければ。
ソレッラは考えられる間に必死でこの場を切る抜けられる方法を考えた。腰のホルダーには鉛入りの手榴弾が二つ残っている。ボフミラを一カ所に足止めできれば当てられる。ただ、正面から投げてどうにかできるほどの相手ではない。
傷はしばらく塞がりそうにない。強敵を前に、動けない吸血鬼と盲目の少女になにができるのだろう。状況は絶望的だった。
「ソレッラ、相討ちは許さないわよ。二人でここを切り抜けるのよ」
背中に寄り添い、耳元でささやくヴァニアの気持ちが嬉しい。ヴァニアの声が、吐息が、ぼやけた思考回路のなかに溶け込んでいき――抑えていた吸血欲求を呼び覚ました。
――血が欲しい。
ソレッラは唾を飲み込んだ。震える指先でヴァニアの手を握る。
――血なら、すぐ隣にあるじゃないか。
白い柔肌に爪を立て、牙を立て啜ってやればいい。契約すればヴァニアを守ってやれるし夢も叶えてやれる。今すぐにボフミラに噛みつき引き裂き、意地も目的も彼女の歪んだ正義も足元に従えてやれる。そうすればヴァニアは真にソレッラの主となり、契約を介さない仮初の主従関係にも終止符を打てる。
ソレッラの血が文字通り「踊り出した」。床に広がった血が沸騰したようにのたうち、周囲から奪い取れる血液を探す。身体中の血管が新たな血を欲して脈打った。
そのとき、額に柔らかいものが触れた。ソレッラは頭が真っ白になり、ヴァニアを見上げた。
「勝利のおまじないよ」
額に汗を受かべたヴァニアが見守っていた。小さな肩が小刻みに震えている。
心のなかに堰を切ったように羞恥心が溢れた。守るべき立場の自分が守られていることがひどくふがいなく、ヴァニアすら傷つけようと考えたことを後悔した。
ボフミラは顎に手を当て、台所で余った野菜をどう調理するか迷っているかのように佇んでいた。やがてポンと手を叩き、ポケットからオリーブドラブの手榴弾を取りだした。
「時間切れだ。ところで、誰かさんのアイデアを借りて作ってみたのだよ」
ボフミラが捧げるのはソレッラが持っているものと瓜二つの手榴弾だ。パイナップルのような凸凹のあるものであり、モニカに致死レベルの傷を負わせた武器だった。
「これはおまえには効くのかな。少なくとも、娘のほうはバラバラになるだろうな」
ボフミラは二人を追いつめるように冷笑する。
「私の正義とおまえの正義は残念ながら相容れなかったようだ。互いに譲らぬなら命尽きるまで戦う他ない。……それだけのことだ」
ソレッラが短機関銃の引き金を引くと同時に、ボフミラも手榴弾のピンを外した。ソレッラの弾幕は軽々と跳んでよけられる。ボフミラは手首を軽く捻って手榴弾を投げた。
迫りくる死の恐怖。カウントダウンが始まる――もう爆発は防げない。
せめてヴァニアを守ろうと両手を広げたソレッラの顔に、逆にヴァニアが覆いかぶさった。優しい温かさに包みこまれながらソレッラは床に押しつけられた。短機関銃が手を離れると同時に絶望が去来する。
ヴァニアを押しのける間もなく、手榴弾は爆発した。
三年前の、まだ十二歳だったヴァニアの声が脳裏に蘇る。
「一緒に花の種を蒔きましょう。いい匂いのする花をたくさん咲かせましょう。あなたが踏んでしまった花の分だけ」
白い雪のなか、白い息を吐きながらヴァニアが詠ってくれた「贖罪の詩」。
ソレッラが
それから十二年の歳月が過ぎ、契約のために父親を殺されたヴァニアを守った。刺客を退け生き延びるために、戦いの駒にすらしたこともある。
けれど、いつの間に感化されてしまったのだろう。ソレッラはヴァニアの夢である「正義のファミリー」を共に目指し、「正義の吸血鬼」を演じてしまった。正義を志すことは命令などではなかった。ヴァニアはソレッラの手を引いただけだ。契約を守るだけなら、ヴァニアの夢に付き合う必要はなかったのだ。
いつの間にこんなに大切に想っていたのだろう。殺す殺されるとは異なる、契約に縛られない絆はすでに手のなかにあったのだ。互いに手を伸ばし続けることで、香しい花を咲かせる絆が――。
黒い煙が薄れると、床には大きな穴が開き、周辺一帯のタイルにひびが入っているのが見えた。焦げ臭いにおいが気になり、ソレッラは薄く目を開けた。
蜘蛛の糸のように張り巡らされたパイプ、その向こう側に白い天井板が先ほどと変わらない景色のなかに存在している。自分があおむけに倒れていることがわかった。爆発によって引き起こされた耳鳴りが治まり、周囲の音が聞こえてきた。
胸の上にのしかかる重みが起きたことのすべてを物語っていた。
ソレッラは狼狽えた。胸の上でヴァニアが横たわっている。何度も声をかけたが彼女が動く気配はない。ただ、弱弱しい鼓動が灰に響くばかりであった。
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