第19話 ネリネの誘惑⑤
「カポ、ターミナルから次々と死者が溢れてきます。なかには比較的新しい死体もあります」
「ボフミラは空港の人間をゾンビ化しているのね。この勢いだと空港の外にも被害が広がりかねないわ。《ソレリーナ》、カルロに繋いで――それで、ボフミラの居場所は割り出せる?」
「ダメでさぁ。さすがに空港内の監視カメラ映像は頂けやせんでした」
ソレッラの脳内に、通信に応じたカルロのがっかりした顔が浮かぶ。
「ただ俺のほうからは見当たらないんで、いるとしたら建物のなかかと。それから駐車場のほうは火が小さいところは消し止められやして、警察と消防隊が一般人の避難を進めてます」
「じゃあ、ターミナルに入って捜索するしかないのね」
最も近い搭乗口からは死者が溢れかえっていたため、ヴァニアを抱いたソレッラは第一ターミナルビルの入口へ向かった。ターミナルビル正面は全面がガラス張りになっており、なかの状況がよく見えた。正面玄関付近には死者の姿は見えず、生きている人間たちがそこかしこに集まっている。皆、燃え盛る駐車場を唖然と見つめていた。
ソレッラはカルロに消火が済んだ場所を教えてもらい、部下たちに避難誘導をするよう指示した。
「消火が終わったところがある。こっちから避難できるぞ!」
ソレッラを追い越した部下の一人が人々に呼びかける。人々が一斉に振り返ったのを見て、四人の部下たちは別れて誘導を始めた。
不安げな人々の表情にサッと安堵の色が映る。だが次の瞬間には老若男女が玄関に殺到した。横の人を押しのけたり押しのけられたりしながら、我先にと先導する部下の後へ続いて走り去っていく。
ソレッラとヴァニアは大勢の生者の間をくぐり抜けてターミナルビルに入ることになった。すれ違う人々は多様な表情をしている。悲鳴を上げながら必死の形相で駆け抜けるイタリア人を黒人男性が追い越し、その後から困惑した様子のアジア人が逃げていく。目に涙を浮かべている男女はゾンビが起こした恐ろしい光景を見てしまったのかもしれない。一人でうずくまる男の子の手を、空港職員の制服を着た女性が引っ張って逃げていく。
部下たちは人々を導き、また遅れた人をフォローしながらターミナルビルを後にした。彼らが去った後には静けさが残された。
ビル内にソレッラたちの足音だけが響く。ソレッラはヴァニアを下ろして手を繋いだ。短機関銃を握り直し、慎重に歩を進める。視覚からも嗅覚からも死者が潜んでいる気配は感じられない。カルロが殲滅してくれたのか、もう後ろから追ってくる死者もいなかった。
大空間のいたるところに設置された電灯は人のいない場所を煌々と照らしていた。正面がチェックインカウンターだ。白い自動チェックイン機が長いカウンター一面に並び、そばにキャリーバッグが置き去りにされていた。床にはペットボトルやハンドバッグ類があちこちに落ちている。
二階建てのターミナルビルは一部が吹き抜けになっており、左右奥にあるエスカレーターを上がるとレストラン街へ行けるようになっている。頭上では白いパイプ状の梁が幾何学的に組み合わさり、広大な天井板を支えている。
辺りを警戒するソレッラの視界の隅に、素早く動く人影が映った。人影は二階の通路をぐんぐん進み、一階にいるソレッラたちの正面に来ると足を止めた。
――ようやく辿り着いた。
感動にも似た感慨とともに、ソレッラのなかに腸が煮えくり返る思いが湧き上がってくる。
白衣にタイトスカートの恰好、そして小柄な背丈。あの日と同じように拳銃を構える姿は脳裏にこびりついている。ボフミラ・ネトリツカ――パパヴェロ大学医学部の医学博士・非常勤医師。そしてCVCの臨時研究員。だが、ソレッラは多くの顔を持つ吸血鬼をファミリーの仇としてのみ睨む。
ボフミラは涼しい顔でソレッラたちを見下ろした。
「早かったじゃないか――いや、むしろここまで辿り着けるとは思わなかったな。僕としたことが酷い誤算だった」
ボフミラの姿を捉えるやいなや、ソレッラの身体は動いていた。返答する間も惜しく、短機関銃のトリガーを引き絞る。銃は即座に連射モードに切り替わり、ボフミラがいた場所に容赦なく穴を開けた。ガラスの欄干が数メートルに渡って砕け、霰のごとく一階に降り注ぐ。
ボフミラはソレッラの初撃をかわし、二階の床に身を伏せて続く弾道を避けた。
「そう焦るなよ。狙いが定めにくいじゃないか」
ボフミラは煩わしそうに黒い拳銃を構え直す。
「その程度の武器で私を倒せるとお思いで?」
ソレッラは銃口の向きに気を配りつつ、ヴァニアを守るようにけん制射撃を続けた。ソレッラがリロードするタイミングを見計らい、ボフミラは通路を左へと駆け出した。彼女が向かう先にはエスカレーターがある。
ソレッラもより相手を狙いやすい位置を求めて駆け出した。重要なのはボフミラの弾が決して届かない位置取り。能力を使ってヴァニア背後に隠しながら導いていく。
ボフミラはエスカレーターの上まで来ると跳躍した。天井から吊るされた横長の案内板に軽々と跳び乗り、拳銃を上に向けて構える。
ボフミラは六発の弾すべてを撃ち出した。弾はどれもソレッラを狙わず真っ直ぐに天井へ吸いこまれていく。白い梁に設置された小ぶりな電球が割れた刹那、天井を支えていた一組五本のパイプがぐらりと傾き、バランスを失って真っ逆さまに落ちてきた。
ソレッラはヴァニアを抱えて後ろへ飛び退く。パイプがすぐに落ちていれば危うく叩き潰されるところだった。その様子を見るボフミラの口の端がニタリと歪んだ。
しまった――と思ったのもつかの間、足元のタイルが割れて吹き飛んだ。ソレッラが飛び降りた場所に地雷が仕掛けてあったのだ。咄嗟に身を捻ってヴァニアを突き飛ばした。
踵にガツンと殴られるような衝撃が走る。膝が浮き上がり、がくんと力が抜けた。一瞬視界に天井が映り、スローモーションで世界が反転する。タイルの破片が数メートルの高さまで跳び上がり、最後にガラスを突き破って外へ飛び出していくのが見えた。
気づいたときには床に倒れていた。
「ソレッラ、大丈夫ッ?」
駆け寄るヴァニアが見えて、ソレッラは安堵した。ソレッラの安堵とは裏腹に、肩に置かれた小さな手は震えている。
ソレッラはヴァニアに支えられながら、腕に力を込めて上半身を起こした。視界は霧がかかっているように薄白く、頭がぼんやりしている。意識が曖昧なのは後頭部を床に打ちつけたせいなのだろうか。
ヴァニアの震えが気になり見回すと、自分の足元が真っ赤に染まっていた。灰色のタイルがソレッラの周辺だけ燃えるように赤い。その血だまりの中心に、身体の正面に向けて曲がった左膝があった。膝の先端から顔を覗かせる白いものは皮膚を突き破った骨だ。
視界で状況を認識した途端、心臓を突き破らんばかりの痛みが爆発した。折れた膝から頭のてっぺんまで突き抜けるような痛みが全身を焼き尽くす。
「ソレッラ、ソレッラ!」
ヴァニアの悲痛な声が耳のなかでこだまする。ソレッラは肩に感じる温もりにすがりついた。心配してくれる彼女に声をかけたい一方で、流れ続ける血液が言葉も意識も蝕みつつある。
血が、流れている。
吸血鬼にとって血液は命であり魂である。血液が失われるということは死ぬということである。この程度の傷、時間をかければいずれは塞がる。だが、今は大人しく待てる状況ではなかった。
ボフミラが案内板から降りて二人に近づいてくる。ヴァニアの嗚咽交じりの叫びが聞こえる。ヴァニアは血のにおいで非常事態がわかっているのだ。叫び声のリズムをとるように、ボフミラのパンプスが固い音を響かせる。それはまるで死へのカウントダウンのようだ。
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