第18話 ネリネの誘惑④

 ふと焦げ臭いにおいを感じ、ソレッラは足元を見下ろした。


 眼下では空港の駐車場が真っ赤に燃えていた。あちこちで車が爆発し、炎は次から次へと燃え移っている。火の広がりが早く思えるのは、爆発に巻き込まれた車が燃料を撒き散らしているだろう。衝撃的なのは、火だるまになった死者が次々に車を破壊し、自らの炎を分け与えていることだった。


 空港の入口付近はほとんどが駐車場として使われている。ボフミラは自動車を燃やし炎の壁を作ることでソレッラたちの侵入を阻もうと考えたのか。彼女の思惑通り、人々は空港の外に出ることができず火のない場所へ避難を始めていた。火の手は駐車場周辺から外へ向けて広がるだけで、火だるまの死者たちもターミナルをなど人々が集まっている建物に向かっていく様子はない。さすがのボフミラも自分自身まで燃やすつもりはないようだ。


 ヘリは炎のバリケードを軽々と超えて滑走路に近づきつつあった。


「《ソレリーナ》、離陸まであと何分?」

「午後六時十分発、成田国際空港行きは、あと五分で離陸します」


 女声を模した自動音声による返答が、今はひどく無慈悲に感じられる。時間が刻一刻と迫るなか焦りだけが募っていた。


「カポはご自身が戦いの邪魔になることくらいわかるでしょう? なぜついてくると仰るのですか。カルロもなぜカポのワガママを許すのですか!」

「ソレッラ」


 ヴァニアにたしなめるように呼ばれても、胸騒ぎが収まらない。


「カポにそんなこといえるのは姉貴だけでさ。俺らじゃあダメなんですよ」


 カルロもぽつりと呟いたきり口をつぐんだ。


「こんなときにッ……」


 ソレッラは唇を噛みしめた。ヴァニアがどうしても譲らないというならば考えがある。ヴァニアを操って避難するように仕向ければいい。


 だが、無理矢理にヴァニアの意志を曲げて解決する問題なのだろうか。岩よりも固い意志は多少抑えつけたくらいでなくなるものではない。ヴァニアと過ごした三年間、ソレッラは「正義のファミリー」へと邁進する彼女の強さをまざまざと見せつけられてきた。


 ヴァニアの強さはソレッラとは異なる強さだ。人を殺して生き延びる吸血鬼の生き方をソレッラは受け入れられない。だが、ヴァニアは人が死ぬことから逃げなかった。ボフミラの研究室であんなことがあっても、悲しみを飲み込んで前を向いている。今すべきことを一生懸命に考えている。


 もしかしたら、ソレッラと共に行動するというのも勝算あってのことかもしれない――少し無茶な感じもするが、そう思い込むしかソレッラができることはない。要は腹を括れということだ。


 ソレッラはため息をついてヴァニアの肩を抱きしめた。車のなかでした勝利のおまじないが効くように願う。


 ヘリは滑走路の上空で止まり、徐々に高度を下げていく。地上では日本の航空会社のロゴが入った旅客機が、今まさに搭乗口を離れようとしていた。


 ロープの先が地面に着き、ソレッラとヴァニアは地上に降りた。ヘリから投げ落とされた黒いケースを受け取る。衝撃吸収機能の備わったケースには武器類と無線通信機が入っていて、ソレッラは必要なものを素早く選び取った。二つの短機関銃のうち一つは自分のホルスター装着し、もう一つはヴァニアが持った。目が見えなくても、万が一のときにはソレッラの能力のサポートを受けながら戦うことができるからだ。


 ソレッラたちに続いて四名の部下がロープを伝い降りてくる。彼らも戦闘に参加するようだ。一般人の救出を支持すると、部下たちは一様に頷いた。


「CVCから連絡が来やした。もうすぐ数名の特別捜査官と警察隊が空港に着くとのことです」

「それ、車で来てるんじゃないですよね」

「さあ?」


 カルロもわかっていないらしい。通信機を耳に装着しながらソレッラは顔をしかめた。移動手段が車だけであれば、駐車場の火の壁を突破するのにどれほど時間がかかるだろう。応援はあまりあてにしないほうがいいかもしれない。


「俺はここで待ってます。死者どもが来たらさっきみたいに撃ち込みますんで」

「頼みます」


 急いで準備を整えたソレッラは風のように駆け出した。旅客機は完全にターミナルを離れ、滑走路の隅で離陸態勢に入ろうとしている。エンジン音が徐々に大きくなっている。まずはこれを止めなければ始まらない。ヴァニアはソレッラの能力に導かれ、後ろから無理のない速さで走ってついてきた。


 遮るもののない滑走路を一直線に進む。ボフミラは飛行機のなかでのうのうと過ごしているに違いない。勝った気でいるのなら、その天より高い鼻頭を真っ二つに折ってやりたい。


 飛行機の正面に立つと、コックピットで仰天する二人の操縦士と目が合った。軽々と跳び上がり、旅客機の鼻先に降り立った。


 そのとき、ソレッラの耳に人々の悲鳴が飛び込んできた。震える鼓膜から人々の痛みを感じ、振り向いて呆然とした。


 開け放されたままの搭乗口から人々が転げ落ちていく。コンクリートの地面に叩きつけられ気を失う人、倒れた人を助け起こして走ってくる人がいる。


 視線をスライドしてターミナルの窓を覗くと、人々がまるで蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う姿が映っていた。その後ろから、青白い顔の死者たちが壊れたおもちゃのように緩慢な動作で歩いていく。杖を取り落として転んだ老婆の上から死者が覆いかぶさるのが見えた。


 遠くで鳴っている消防車のサイレンは悲劇に似合うBGMのようだ。赤々と立ち上る炎と怪しげな黒煙は夜空に吸いこまれ、雲は墨を塗ったように暗く重く星々を覆い隠す。


 ソレッラは息が詰まった。搭乗口から屋外に脱出した人々が、銃を持つソレッラとヴァニアを見つけてすがるように駆け寄ってくる。


「助けてくれ! ゾンビが、ゾンビが……!」


 痛哭な悲鳴を漏らしながらスーツ姿の男が真っ先に近づいてくる。明らかに気が動転した様子で、男は頭を抱えて地面に膝をついた。


「あなた大丈夫? いったいターミナルでなにがあったの」


 動揺した声で尋ねるヴァニアに向かって男は俯いたまま手を伸ばす。


「ああ……」


 男の意気消沈したため息は嗚咽となり、かすれ声となってぷつりと途絶えた。男は突如としてのけ反り獣の断末魔のような叫びをあげた。袖口から見える手首がみるみるうちに青白く変色し、刺激臭が溢れだす。一秒前まで生きていた男は、ボフミラの能力によって腐り死者と化した。


 ヴァニアは男の尋常でない様子を感じとり身を引いた。だが、それよりも男がヴァニアの腕を掴むほうが早い。彼の顔はすでに人間の姿を留めていない。青い肌は腐りかけ、膨張した頬はただれている。透明な唾液がだらしなく半開きになった唇から滴り落ちた。


 ソレッラはすかさず死者の額を銃のグリップで殴りつけた。あわよくば首ごと吹き飛ばしたかったが、死者は首を後ろに逸らして一撃を逃れる。ソレッラが二撃目を加えようとしたときヴァニアの銃が火を放った。死者は至近距離で眼窩を撃ち抜かれ、両手で目を押さえながら倒れていく。


 ソレッラは解放されたヴァニアを抱え上げて走り出した。部下たちもソレッラに続く。


 後に残された人々もすべて青白い顔へと変貌していた。どの死者も助けを求めるように迷いなくソレッラたちを追いかけてくるが、ヘリの援護射撃が開始されると同時に足を止めた。ヘリが撃ち漏らした分は、部下たちが一人一人仕留めてくれた。

絶え間ない弾幕が死者たちを押しとどめてくれたおかげで、ソレッラは少し余裕を取り戻した。


 先ほど離陸を止めた飛行機はまだ滑走路のなかにいて、ゆっくりとターミナルに戻ろうとしている。ソレッラはあえて飛行機の正面を通って操縦士の視界に入り、ターミナルには戻らないようにとジェスチャーで伝えた。ターミナルは死者が溢れて地獄絵図の様相を呈している。戻れば乗客の命が危ない。ジェスチャーが伝わったのかはわからないが、飛行機の進行が止まったのを見てソレッラは胸を撫で下ろした。

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