第17話 ネリネの誘惑③

 墓地が近づいてきた。カーナビは空港への到着予定時刻が午後五時五十分になると示している。駐車場に車を停めて搭乗口まで歩くことを考えれば、かなりギリギリの時間になる。


 ソレッラは視線を滑らせて周囲の様子を探った。今のところ視界にも車のミラーにも怪しい人影は映っていないが、襲撃は必ず来るだろう。アクセルペダルに乗せた足に汗がにじむ。


 先ほど反対車線大型トラックが走って行ったきり、ソレッラたちの車両の前後を走っている車はいなかった。嵐の前の静けさのせいで、自分の鼓動がより大きく聞こえた。


 突然、前方で火柱が上がった。続いて花火が爆発したような轟音が鳴り響く。場所は空港の敷地内、距離から考えて手前にある駐車場のあたりだろうか。


「来たのね」


 助手席のヴァニアが肩をすくませていった。


「ええ、空港のほうに炎が見えます。まさかこんなに派手にお出迎え頂けるとは思いませんでした。カポ、飛ばしますよッ!」


 アクセルを踏み込んだとき、真後ろから目が覚めるような光が前方を照らした。慌ててバックミラーを確認すると、先ほど反対車線をすれ違った大型トラックがUターンしているのが見えた。ヘッドライトが獲物を見つけた獣のように輝いている。トラックはガードレールを踏み倒して中央分離帯に乗り上げると、そこから一気にエンジンをふかし距離を詰めてきた。


 トラックのフロントガラスは砕かれていた。乗っているのは二人の死者だ。一人がハンドルを握り、もう一人の死者が前方に身を乗り出してオリーブドラブ色の筒状の武器を肩に担いでいる。


 ソレッラはギョッとした。死者が持っている武器は軍が使用する携帯式の対戦車用武器――バズーカと呼ばれているものだ。


 死者が発砲するやいなや咄嗟にハンドルを切る。弾は傾いた車体のすぐ脇に着弾、爆風によって車の窓が粉々に砕ける。割れたコンクリートの破片が後部座席に降り注いだ。


「バズーカなんてどこからかっぱらってきたんですかね、あの女は!」


 ソレッラは毒づいてハンドルを強く握り締める。掌に汗がぬるりとまとわりついた。


 大型トラックは衝突する気満々な速度でソレッラたちの背後に迫った。バズーカ発射の衝撃で荷台が大きく歪んでもおかまいなしだ。死を覚悟しないとできないことが死者たちには簡単にできる。


 逃げる脇道のない真っ直ぐな国道で、総重量二十トンの鉄の塊に追い詰められていく。


「なにが起こっているの?」


 ヴァニアの焦った声が聞こえたが応えている暇はない。


「脱出します。シートベルトを外して」


 ソレッラは左足に力を込めるとドアを蹴り破った。五年間乗った愛車に心のなかで別れを告げる。ヴァニアを胸にしっかりと抱き、守るように車道に転がり出た。


 運転手を失い速度を落としたアバルトがトラックと接触する。その瞬間、アバルトはまりのように前方に吹き飛ばされ、数百メートルほど車道を滑った。コンクリートとの摩擦で車体が削れ火花が散る。そしてトラックと二度目の接触を果たし、中央分離帯に押しつけられて動かなくなった。


 アバルトから炎と黒煙が立ち上る。ヴァニアを乗せて運転した日々の思い出が灰になっていく。ソレッラは虚しさを振り払うように首を振ると、腕のなかから這い出たヴァニアの手を握った。


 離陸まであと十五分。時間がないことへの焦りと、愛車を失ったことで頭に血が昇る。身に着けていた武器を除き、愛車に積んでいた短機関銃や弾倉類は持ち出せなかった。


 もし、今ここで死者に囲まれたら――そう考えると背筋が寒くなる。たとえ素手でも一人ずつなら倒す自信はあるが、前後左右から襲ってくる多数の死者に対してヴァニアを守りきる自信はない。武器弾薬の補充のためにも、とにかくカルロたちと合流するまでは逃げ切るのが大前提だ。


 だが、周囲をぐるりと見まわしたソレッラは、車道の遥か後方に数人の死者を見てとった。黒い肌と虚ろな目をした死者たちは、いずれもボロボロの服を着てミイラ化している。沿道の森から一人また一人と影は増え、ついに三十人ほどになった。


「森の向こうにある墓地からお客様です」

「わざわざ棺を抜け出して会いに来てくれなくていいのに」


 むくれたヴァニアが手を握ってきた。行先は火の海、後ろは死者の群れ。ヴァニアに怪我をさせずに切り抜ける方法が思い浮かばない。ソレッラはじりじりと囲みを詰める死者たちを睨んだ。


 そのとき、ヴァニアの《ソレリーナ》が鳴った。


「カルロだわ!」


 ヴァニアが瞬時に通話モードに切り替える。通信がつながった途端、バラバラという空気を叩くような雑音がスピーカーから聞こえてきた。


 似た音が聞こえてくる気がしてソレッラは空を見上げた。曇天の下に青いヘリコプターが浮かんでいた。白い灯火点滅させながらヘリは徐々に高度を下げ、ソレッラたちのほうに真っ直ぐ飛んでくる。


「カポ、お待たせしやした」


 雑音にかき消されそうになりながら、端末の向こうでカルロが声を嗄らして叫んだ。


「カルロ! 今どこにいるの、私たち車を失ってしまったの。それにこの音はなに?」

「ご安心ください、ちょいとCVCからヘリを借りてきたんでさ!』


 カルロの声は上ずっている。それに、なんだか楽しそうだ。


「今迎えに行きますからね……おっと見えましたよ! こりゃあピンチじゃないですか。しかしカポとソレッラ姉貴の手を煩わすまでもありやせん。お二人はそこを動かないでくださいねッ!」


 二人が身体を固くした瞬間、弾幕が滝のように上空から降り注いだ。ソレッラの目の前で死者が次々と地に伏していく。銃声とプロペラ音の多重奏に思わず耳を塞いだ。死者たちが後退したタイミングで、滞空していたヘリからロープが落ちてきた。


「そいつに掴まってくだせえ!」


 ソレッラはいわれるがままヴァニアを抱いてジャンプする。手が触れるやいなや、ヘリは二人を吊るしたまま空中へ飛び上がった。


 髪が風に遊ばれて顔を叩きつける。まぶたに張りついた髪をかきあげると、眼下に燃え盛る車とトラック、そして息絶えたグンタイアリのように動かなくなった死者たちが見えた。


「怪我はねーですかい?」


 ヴァニアが胸につりさげている《ソレリーナ》から再びカルロの声が聞こえた。


「ありがとう、問題ありません。ただカポが疲れているようなので休ませていただきたいのですが」

「私のことよりボフミラを捕まえるのを優先して!」


 風の音に負けじと、胸のなかでヴァニアが叫ぶ。


「ですがカポ……」

「私はソレッラについていく。カルロ、このまま日本行きの滑走路まで連れていって」

「カポ! あなたは待っていてください。ボフミラは私が確実に止めますから」

「いやよ。絶対にいや」

「あのう、意見を統一してくれやせんかね」


 申し訳なさそうなカルロに、ヴァニアが間髪入れず叫んだ。


「じゃあ私とソレッラを滑走路まで連れていって!」

「カポ!」


 ソレッラは気が気ではない。この先はさらなる激戦が予想される。ヴァニアを守ることを第一に優先すべきと考えると、ヴァニアの意向は絶対に飲めないものだった。


「もし危なくなったらどうするの? ソレッラは契約を守るためなら死んでもいいと思ってる。そんなの絶対に許さない。ソレッラは私の吸血鬼なの!」

「カポ、私のことはいいですから」

「絶対にだめー!」


 ヴァニアはソレッラを抱きしめている腕にさらに力を込める。なにがなんでも譲る気はなさそうだった。ソレッラは返す言葉を失い、息を飲み込んだ。


「……姉貴の負けっすね。カポ、お望み通りお連れしますよ。しっかり掴まっててください!」


 ヘリの速度が上がり、冷たい空気の塊が背中にぶつかっては後ろに流されていく。片手で抱きしめたヴァニアの肌から体温が奪われていくのがわかった。ソレッラは頬をすり寄せ、風から守るようにぎゅっと抱きしめる。

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