第16話 ネリネの誘惑②

「《ソレリーナ》、カルロに電話をかけて」


 暫く押し黙っていたヴァニアが通信端末を取り出してマイクに話しかける。人の声で制御できるこの通信端末AIの起動コードは、本人の意向により《ソレリーナ》と設定されていた。


 もうすっかり慣れたものの、ソレッラとしては少々複雑な気持ちである。


「彼は今動けないかもしれませんが」


 ソレッラはにわかに眉を寄せた。


 カルロはファミリーの構成員の一人である。ヴァニア擁する新体制では重要な、ナビゲーションの仕事を任されていた。しかしカルロが甥っ子のように可愛がっていたアドルフォは、エラルド・リッチ捕縛作戦の日に命を落としていた。


 ソレッラは昨日ヴァニアとともにカルロの様子を見に行った。一人暮らしの部屋は寝巻きや下着が散乱し足の踏み場もない状態であり、思わずヴァニアがこれを見なくて良かったと胸を撫で下ろしたほどである。ソレッラは寝室とキッチンを片づけ、くしゃくしゃになった服を洗濯機に放り込み、カルロを洗面所に引きずっていって髭を剃らせた。食欲が起きないというカルロのためにレトルトのボロネーゼを作ってやったが、結局カルロが口をつけることはなかった。


「どうされたんですか、カポ……」


 案の定、ヴァニアの通信端末からは痩せ牛のいななきのような干からびた声が聞こえてきた。


「カルロ、声が聞けて良かったわ。調子はどう?」

「はあ、良くなんかありませんやぁ。それで俺になにか用事ですか。カポならわかってくだすっているでしょうが、今の俺は使い物になりやしませんよ」

「上出来よ、頼みたいことがあるの。至急CVCに情報提供をしてほしいの。それから手が空いているメンバーに今すぐティベリオ空港へ来るように伝えて。空港のなかには入らないで、周辺で待機して」

吸血鬼対策委員会Counter-Vanpire Comittee? あのクソどもに今更なにを」


 カルロの声色が硬くなったが、ヴァニアは構わず続けた。


「CVCに所属する研究員、ボフミラ・ネトリツカによる不祥事の証拠を押さえたと伝えて」


 身じろぎするようなノイズに紛れ、カルロが息を飲む音が聞こえる。


「不祥事ってのは、どういうことですかい」

「彼女は史上最悪の吸血鬼犯罪者を復活させようとしている、という内容の音声データよ。彼女は人間に対して憎悪を抱いていると思われ、復活は人間社会にとってのテロ行為と見て間違いないわ。そこでCVCとは今一度『良い関係』を築きたいのよ。協力は惜しまない、とよくよくいい含めてね」


 さっき録音していたのよ、と加えるヴァニアの周到さに感心しつつも、ソレッラは口元に笑いが込み上げてくるのを禁じえなかった。


 ファミリーが新体制に移行した後、ヴェントリーニ・ファミリーはCVCに協力を提案したことがある。「正義のファミリー」の実現にはCVCとの連携が大きな一助となるとヴァニアは考えたのだ。


 しかし、CVCとの連携は叶わなかった。犯罪者の取り締まりを目的に吸血鬼を運用するという実務の面では少なからず共通点があるものの、ヴェントリーニ・ファミリーがかつて犯罪者の温床たるマフィアであった過去を見過ごすことはできなかったようだ。ファミリーが生まれ変わったというのなら、構成員は警察での取り調べを――という条件をヴァニアが飲めるはずもない。それはすなわち、父親の時代からついてきてくれている人々をブタ箱送りにすることと同義であった。


 それ以降、犯罪者の逮捕権を持たないファミリーは被害者を守ることに徹した。だが立場の相違から妨害ともとれる扱いを受けたこともあれば、最終的に手柄を横取りされることもあった。メンバーの不満は膨れ上がっており、ヴァニアもどうにもできず辛酸をなめることになっていた。カルロがCVCへの情報提供に難色を示したのはそういうわけだった。


 だが、組織内部の不祥事のしっぽを掴んだとなれば話は別だ。公表されたくなければ仲間に引き入れろ――とヴァニアは半ば脅しのような交渉をさせるつもりなのだ。


「弱みをダシに交渉を有利に、ね。カポもなかなか板についてきたじゃあねぇですか」

「あら、そんなに褒められたら困るわ。《ソレリーナ》、カルロにデータを送って」


 そこでヴァニアは一旦通話を切り、カルロから折り返しの連絡を待った。今ごろカルロは大急ぎでパソコンを起動させデータを確認しているはずだ。


 数分後、再びカルロから連絡を受けたヴァニアは期待のこもった様子で応じる。


「『証拠』はどうだったかしら?」

「なるほど、こりゃあ……」


 カルロの声は水を得た魚のように生き生きしていた。


「カルロ、私たちは今度こそやり遂げるのよ。私たちはCVCにも過去にも負けない正義のファミリーだと、胸を張って宣言するの!」

「え、もちろんでさ。アドルフォや皆の弔い合戦ですよ!」


***


 空港に近づくほど景色から民家が消える。すでに太陽は地平線に沈み、車道の周囲の畑や茂みに薄闇が訪れていた。ソレッラはアバルトを巧みに操り、行く手を塞ぐ高速バスの隊列を追い越した。


 時刻は午後五時半を過ぎている。目指す飛行機の離陸予定時刻は午後六時十分だったから、ボフミラはすでに保安検査場を出てラウンジにいるかもしれない。



「雲行きが怪しいですね」


 ソレッラは眉をひそめて呟いた。夜が近いせいも相まって、天にはより黒々と濁った色の雨雲が立ち込めている。ソレッラの胸には天気以外にも憂慮することがあった。


「カポ、近くに墓地があるそうですよ」


 カーナビに堂々と表示された文字は、空港のすぐ近くに大量の死体が存在することを指している。ボフミラがソレッラの追撃を阻止しようとするならば、墓地の死体を使わない手はない。


 実際、先立って研究施設で起こった混乱は隣接する病院で亡くなった人々や研究のための解剖を待つ死体など、研究棟で保管していた死体が使われていた。助け出した職員や研究員がいっていたから間違いないだろう。


 死体は腐敗が進まないよう冷暗室に保管されていたが、ボフミラに操られ始めてからは不自然なスピードで腐敗が進行していた。研究棟に満ちていたアンモニア臭は、それらの死体から発生した腐敗ガスのにおいだった。


 においのあるところにボフミラがいる――死体を操っている限り、においばかりは隠せない。


 ヴァニアからの返事がないことに一抹の不安を覚えつつ横目で見ると、当の本人はすやすやと眠っている。


「起きてください。もうすぐ空港に着きますからね」


 ヴァニアの肩を軽く揺らす。疲れているところを起こすのは申し訳なかったが、いつ襲われてもおかしくない場所が近づいている。不測の事態が起こった際には自分の足で逃げてもらわなければならないのだ。


「ん……。私、寝てしまっていたのね」


 ヴァニアは小さくあくびをして頭を起こした。


「お疲れですか? カルロたちからもうすぐ着くと連絡がありました。恐らく離陸には間に合いますので、彼らが到着するまでこのあたりで待ってから……」

「だめよ。私も行くわ」ヴァニアはソレッラの話を強く遮った。「ソレッラなら飛行機を壊しかねないでしょ」

「さすがにそんな野蛮な真似はしませんよ」

「でも今にも離陸しそうだったら、車輪を壊したりエンジンにものを投げ入れたりするつもりでしょう」

「何事も臨機応変に対応するだけですよ、カポ」


 ヴァニアはなお不満そうな表情を見せていたが、諦めたようにそっぽを向いた。


「……私は行くわよ」

「わかっていますよ」


 ソレッラは自分の頬が緩むのを感じた。なんだか気恥ずかしくて、ヴァニアが別の方を向いていることに少しだけ安堵する。


 これから死地に赴くというのに、今は不思議と安心感を覚えた。ソレッラはヴァニアの頭に触れて優しく引き寄せる。


「カポ、こちらを向いてください」


 余所見運転も、一瞬なら許されるだろうか。唇で感じたヴァニアの額は温かくて心地よくて、きっとここが帰るべき場所なのだと思った。ヴァニアはびっくりして呆けていたが「勝利のおまじないです」と伝えると嬉しそうに笑った。


 夜が近づき、月が天空で輝きを増す。だがその白い月も、西から来る雨雲に覆い隠されようとしている。

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