第15話 ネリネの誘惑①

 ソレッラとヴァニアは依然五階にいた。廊下のつきあたりで運よく非常用の避難はしごを見つけたため、死者が闊歩している四階と三階をショートカットすることにしたのだ。ソレッラはフックのついた金具を廊下の窓に固定し、そろそろと下ろしていく。


 地上を見下ろすと、研究棟の正面玄関前には建物から避難した人々が集まっているのが見えた。その数、およそ二十人程度。ボフミラや死者たちに殺された者を除いた人数だとしたらあまりにも少なく感じられた。建物内にはまだ生き残っている人がいるかもしれないが、ボフミラ追跡を考えると時間的に限界だった。


「カポ、私が操作していた者たちが無事脱出しました。我々も行きましょう」


 ソレッラははしごをかけ終えると、廊下の隅でうずくまるヴァニアにせかすように声をかけた。


「建物内にもう生きている人はいない?」

「避難誘導がうまくいったので大丈夫でしょう。さあ早く私の背に乗ってください」


 百パーセント大丈夫とは言い切れなかったがソレッラはきっぱりと答えた。研究棟で逃げ遅れた者を助けるより、ボフミラを逃せば一人や二人どころではない死者が出ることになるのは明白だ。ヴァニアが逃げ遅れた者がいる可能性を気に掛ける前に、小さな両手を肩に導く。体重が背中にのるやいなや、ソレッラは軽々とおぶって窓枠へと足をかけた。地上から約十五メートルの距離が今は果てしなく遠く見える。一人ならば身体の丈夫さに賭けて飛び降りたかもしれないが、今は背中にヴァニアがいるのだ。そのせいで床を離れた足の裏が余計に冷たくなる。


 だが、こんなところで一分一秒も無駄にするわけにはいかない。遠い地上から目を逸らすと、ソレッラは避難はしごに足をかけて慎重に降りていった。

最後の一階を飛び降りると急いで病院の駐車場へ向かう。ソレッラはヴァニアを背中から降ろすと、車に乗り込みエンジンをかけた。


「思ったより時間がかかったわね。飛ばして頂戴」

「わかりました。しかしカポ、お席はそこでよいのですか?」


 普段は後部座席に座るヴァニアが助手席に滑り込んできたので、ソレッラは恐る恐る尋ねた。


「あら、たまにはいいじゃない」シートベルトを着用したヴァニアは悲しげな笑顔を見せた。「今は少しでも近くにいたい気分なの」

「わかりました。ですが万が一のときは後部座席に隠れてくださいね」


 ソレッラはアクセルを踏み込む。目的地のティベリオ空港までは高速道路アウトストラーダで早くても一時間はかかる。今はとにかく時間が惜しい。


 制限速度をはるかに上回るスピードで車を走らせる。吸血鬼の視力であれば警察の取り締まりや車両はこちらが先に見つけ避けられるので問題はない。


 さらにアクセルを踏み込もうとして、ふとヴァニアの横顔が目に入った。ヴァニアはまるで淡く青い夕空の向こう側に魂を持っていかれたような表情で虚空を見つめている。ソレッラははやる気持ちを抑え、少しだけスピードを落とした。


「ソレッラ、正義ってなんなのかしらね」


 ヴァニアが力なく呟く。


「カポはご存知ではなかったのですか?」

「知っていると思っていたのよ。でも、いざというときにできなかった……私は人を殺してしまったの。駄目ね」


 ヴァニアの声には自嘲の響きが混じる。


「ソレッラはなぜ私を助けたの? あの人が死ぬことはわかっていたでしょう」


 ヴァニアはソレッラが操っていた案内役のアンドレイーナのことをいっている。ソレッラの選択を責めるわけではない、けれど納得ができてないような口ぶりだった。


「私があなたに仕えることを契約としているからです。契約したこと自体はクレーリアに対して立てた義理にすぎませんが、吸血鬼にとって守らねばならない契約はなにより優先されるべきものです」

「じゃあ、あの人の命を犠牲にして私を助けたのは『契約』だからなの?」

「ええ」


 ソレッラは迷いなく答えた。自分の行動を規定するものは契約以外にないはずだ。だが、口に出してみるとなぜか胸の奥を針で突いたような違和感があった。


「ソレッラはなぜそう思うの?」

「なぜって……吸血鬼とは契約に規定されるものでしょう」

「私はそうは思わないわ」

「それはあなたが人間だからですよ」


 ソレッラはハンドルを右に切る。陰さす車内でヴァニアの表情は暗く落ち窪んでいるように見えた。


「人間も吸血鬼もそう遠いもののように思えないわ。ソレッラに実は人間でしたといわれても、私は信じるわ」

「……私は吸血鬼ですよ」

「わかってるわ」ヴァニアは一呼吸おいてソレッラに向き直った。「ねえ、聞いてくれる?」


 ソレッラは黙って頷いた。了承の動作は見えていないはずだが、ヴァニアは構わず話し始めた。


「あなたと一緒に過ごすようになってから、吸血鬼の始まりを考えていたの。人間は神によって造られたといわれているけれど、実際は霊長類の進化の過程で分化したものよね。なら、吸血鬼の始まりはいつなのかしら。

あなたは以前、『生まれ変わる』ときには前世の記憶は引き継がれるといっていたわね。ソレッラは生まれたときのことを覚えてる?」

「生まれたときなんて考えたこともありませんでした」


 ヴァニアの問いに応えようと思い返すが、頭のなかに浮かぶのはここ百年の記憶ばかりだ。


 ソレッラは気づいたときには生きており、人間の身体に乗り移りながら生きていた。生を受けたときには赤ん坊だったのかどうかはもちろん、現在のヴァニアと同じ年頃の子どもと呼べる期間があったのかどうかすら定かではない。


 考えあぐねている間に、ヴァニアの話は進んでいく。


「私の仮説はこう。吸血鬼はある時点で人間から分化した――もしくは、互いに影響しあって今の形があると考えるなら現生人類種ホモ・サピエンスともに生まれたのよ。そうでなければ魔法や錬金術といった超常的な力によるものである可能性もあるわ。魔法を使える吸血鬼がいるなら、生物学以外の視点からも考えるべきかもしれない。とにかく、分化がいつ起こったのかはわからないけれど吸血鬼は人間に近しい種だと思うのよ。遠い種ならわざわざ人間の身体を器になんてしないはずよ」


 ヴァニアの声からは懸命さが窺えた。しかし、ソレッラは話の要点を掴み損ねていた。ヴァニアはいったいなにを伝えようとしているのだろう。


「それでね、要するにボフミラは思い出したんじゃないかしら」

「カポ、まさか」


 異物を飲み込んだようにソレッラは喉を詰まらせた。


「ボフミラは吸血鬼の造り方を知っている――そうでなければ復活なんてできないわ。この仮説が正しいなら、ボフミラとモニカが集めていた『吸血鬼の血液』は復活に必要な材料なのよ。だから今は悲しんでいるひまなんてないの」


 ヴァニアはいつのまにか俯くことをやめて前を向いていた。十五歳の少女がそれほどの強さを持たなければならない運命に、ソレッラはいくばくかの悲しさを覚えていた。

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