第14話 碧いアネモネ⑥

 エレベーターを待つ時間も惜しく、ヴァニアを抱いたまま階段を駆け下りる。銃声や窓が割れる音が研究棟内に響き渡ったのだろう、不安げな色を浮かべた人々が廊下や階段に出てきていた。


 隠れて進むのを諦め、ソレッラは半階分の階段をすっとばして飛び降り進む。誰かとすれ違うたびに息を飲む音を聞き、悲鳴を浴びながらも歩みは止めない。右手に血みどろのヴァニアを抱え、左手に短機関銃をしっかりと握る。


 目指すは三階。世紀の殺人鬼復活を阻止する手掛かりはボフミラとモニカのみだ。モニカの所在がわからない以上、いち早くボフミラを捕らえる必要がある。


 下の階にいくほど鼻を突くような刺激臭が強くなってくる。このにおいは間違いなく死体から発生する腐敗ガスだ。ボフミラに近づけば近づくほどツンとしたにおいに腐乱が混ざり毒気が増す。これ以上近づくなと警告されているように感じ、ソレッラは顔をしかめた。


 四階を通り過ぎたところで、左右の壁の陰から死者が駆け出してくる。咄嗟に銃の側面で右側の死者の横面を殴り飛ばす。身体をひねった勢いで後ろを向き、反対側にいた死者を蹴り上げた。


 一旦遠ざけても死者は再び立ち上がり、時間が経つほど新たな仲間も加わっていく。


「走れますか」


 ヴァニアを下ろしながらソレッラは有無をいわせぬ口調で告げた。聡明なヴァニアならば自分の足で立たなければこの場を切り抜けられないと理解しているはずだ。ヴァニアはなお落ち込んだ様子だったが、涙を拭いて頷いた。


 操られた死者は頭と胴体を切り離せば動かなくなる。喉元を狙いトリガーを強く押さえた。


 即座に発射モードが切り替わり、短機関銃が死者の群れを掃射する。首元に当たった弾が骨と肉を破壊し尽くし、頭部がゴールに入り損ねたバスケットボールのように虚しく落ちた。


 前方の死者たちの間に道が見える。ソレッラはすかさずヴァニアの手を取った。倒した死者を踏みつけた際、底なしの泥沼に引きずりこまれていくように踵が肉に沈んだ。しかし、その気持ち悪さを気にしてなどいられない。


 前後の死者を撃ち倒しながら二人は駆け抜ける。ヴァニアが段差につまずいたり死者に足を引っかけたりするたびに、抱きかかえてサポートした。


 ボフミラを追うほどに操られた死者の数は増え、ソレッラたちの行く手を阻む。狭い廊下、無数の部屋、逃げ惑う人間たちに紛れて死者はあちこちから姿を現した。最初は腐敗が進んだ青や赤の死者が多かったが、進めば進むほど新しい死体が操られているのに気がついた。


 鮮やかな血を流し、服を赤く染めた温かさの残る死者たち。それらはボフミラが道すがら人々を殺害していることの証拠だった。


 向かってくる死者にはキリがなく、二人は一旦上階へ戻ることにした。死者の囲みを抜けてボフミラの研究室まで退却する。死者が追ってこないことを見ると、ボフミラが逃げ切るまで足止めすることが彼らの役割なのだろう。


 ソレッラは深く息をつくと机の上に腰を落ち着け、残弾を確認した。ヴァニアは先程座っていたのと同じ椅子に腰を下ろしうつむいていた。額に大粒の汗が浮いているが、頬からは血の気が引き今にも気を失いそうな表情である。


「ソレッラ、お願いがあるの」ヴァニアはうつむいたまま絞り出すような声でいった。


「あなたが操れるようにした人たちがまだ生きていたら、その人たちを動かして。逃げ遅れた人たちの避難誘導をするの。私たちも手伝いましょう」

「そのようなことに時間を使ってはボフミラを取り逃がすリスクが高まります。それでも?」


 ヴァニアは唇を噛みしめてしばし逡巡した。それでも、数秒と経たずに顔を上げ決意の込もった瞳でソレッラをまっすぐに見つめた。


「もう私のせいで人を死なせたくないの。お願い、ソレッラ!」


 ソレッラは仕方なく頷いた。それがヴァニアの意思ならば、契約を履行する身として尊重したいと思う。だが、ボフミラを捕らえるという命令は完遂できなくなるかもしれない。


 ボフミラが向かう場所の手掛かりになるものでも残されていれば――ソレッラは周囲を見渡した。床に散乱した論文集や薬品辞典、書類、机の上に残された万年筆、眼鏡。陽光を細密に反射する割れた窓ガラス。ふと崩れかけた本の山の向こう側にパソコンのディスプレイが見えた。


「カポ、ちょっと来ていただけますか?」


 ソレッラは本を退け、パソコンを手前に引きずり出した。電源は点いたままで画面にロックもかかっていない。


 ソレッラは続いてマウスを救出して操作してみた。隣にやってきたヴァニアはきょとんとしている。


「パソコンが点いたままになっています」

「まあ、ずいぶん不用心なのね」

「私たちも突然来ましたから、シャットダウンする余裕がなかっただけかもしれませんが……」


 デスクトップのフォルダには、ひとつひとつロックが掛かっていて開けられなかった。メールソフトを開くのにもパスワードが要求され、ソレッラはがっくりと肩を落とした。


「手掛かりになるものがあればと思ったのですが、さすがに甘くはなかったですね」

 諦めてマウスを手放そうとしたとき、ポンっと機械音がして画面の隅に通知がポップアップした。枠にはプリンターのマークと「カートリッジを交換してください」の文字が表示されている。それから、印刷待ちのジョブが一件。データの送信日時は本日午後三時四十分。ソレッラたちが来る直前だ。


 データファイル名を見て、ソレッラはハッと立ち上がった。ボフミラがつい先刻、印刷しようとしていたものを見ることができれば。


「カポ、もしかしたら今からでも追いつけるかもしれません」


 机の引き出しを片っ端から開き、プリンター用のインクカートリッジを探す。引き出しのなかはまったく整理されていなかった。捜索は難航すると思われたが、運よくすぐに見つかり引っ張り出すことができた。


 書類に埋もれたプリンターを救い出す。黒インクのカートリッジを交換するとプリンターは水を得た魚のように一枚の紙を吐き出した。


「なにを見つけたの?」

「航空券の予約票ですね」


 ソレッラは紙を取りあげ、内容に目を通す。



 日付は本日。午後六時十分・ティベリオ空港から出発する飛行機だ。

目的地は日本、成田国際空港――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る