第13話 碧いアネモネ⑤

「吸血鬼が近年まで迫害されていたことは知っているだろう。その時代は悪魔だとよくいわれたよ。だがそもそも吸血鬼が人間を殺すのは悪のためじゃない、生きるためだ。被食者の最期の願いを叶えてやってから殺すなんてなかなか親切じゃないかね? 家畜が望むかどうか関係なしに肥え太らせて屠殺する人間サマとは大違いさ。

 まあとにかく、吸血鬼ってやつは嫌われ者でね。人間がいなければ生きられないが、人間からは嫌われ、自己防衛のために人間を殺せばますます協力が得られないという悪循環に陥ってたのだよ。人間側にしてみれば、吸血鬼などいなくても生きることに不足はない。仲間を殺すやつなど受け入れられない。そういう理屈だな」


 ボフミラは再び万年筆をくるくると回した。透明なペンのなかでインクが波打つのが見えた。


「僕とモニカは――モニカというのはソレッラ、おまえと戦っていた触手女の名だが――ある村に住んでいた。その村は国境近くの山のなかにあって、先の戦争で隣国に襲われて住民がいなくなった廃村だった。持ち主のいなくなった廃墟に吸血鬼が住み、その噂を聞きつけて他の吸血鬼がやってきた……そうして静かに暮らすことを望む吸血鬼たちが肩を寄せ合い生きていた。

 人間は必要なぶんだけ調達し、村で共に暮らした。調達といっても攫ってきたんじゃない。戦争で親を失ったり貧しさゆえに捨てられた子どもを連れてきたり、家族を失い絶望した人間が死地を求めてやってきたのさ。最期の願いを叶えられるうえに、吸血鬼がもたらす死ってやつは痛みを伴わないからな。

 ……そうそう、悪魔に憑かれたという人間が連れてこられたこともあった。ほら、要するに精神病患者のことだよ。家族の手に負えなくなって、連れて来られていた。体のいい人間処理場にされていたこともあったのさ。『悪魔など存在しない。存在するとしたらおまえたちの魂のなかだ』と突き返してやったがね」


 ボフミラはくつくつと笑う。ソレッラは吸血鬼の村の存在を聞いたことがあった。その村は第二次世界大戦時に破壊されたはずだ。


 人間が去り地図からも消えていた村は国境付近にあったという。反政府運動の拠点だとか、悪魔の村などという理屈をこねて軍は村を踏みつぶした。


 だが後に、ソレッラは風の噂で本当の理由を聞いた。それは村人たちが退去命令を拒否したからだという。村は国境付近にあったため、隣国への侵攻を目論んでいた当時の政府にとっては進軍の妨げとなる。村の構成員が国民の資格もない鼻つまみ者ばかりであったことは、政府にとっても国民にとっても都合のいい言い訳をこねるのに苦労しなかったはずだ。


 なおソレッラは先の大戦時すでにヴェントリーニ・ファミリーに仕えており、自分とは関係のない遠くの出来事のように感じていた。


「あの頃の暮らしは悪くなかった。田舎暮らしは多少不便ではあったが、人間と距離を置いていたから傷つけることも傷つけられることもなかった。畑で麦を育て、野山で実りを摘むように暮らした。僕らは僕らだけの生活を送れていた」


 記憶の糸を辿るごとく遠くを見つめるボフミラに、ヴァニアは告げた。


「それは穢れた血のデル・サンゲ・アレガート村のことかしら。聞いたことがあるわ」

「人間どもはそう呼ぶ。僕らは『沈黙のディ・シレンツィオ村』と呼んでいた。聞いたことがあるなら知っているだろうが、シレンツィオは第二次世界大戦の戦火に焼かれ歴史の闇に葬られたのだ」

「そこにあなたが救いたい人もいたの? その人は吸血鬼?」

「そうだ。彼女は皆から姉と慕われていた。だが……」


 ボフミラは一旦言葉を切り、持っていた万年筆を机の上に置いた。手を首の後ろに回してうなじの辺りを探っている。


 ソレッラは身構えたが、ボフミラは気に留める様子もなく指先を細かく動かしていた。どうやらペンダントを外そうとしているようだ。


 ボフミラは襟のなかから金色のペンダントを引き上げる。傷がつき輝きを失った小さなロケットの蓋を開け、ソレッラに突き出した。差し出されたロケットの写真なかでは、一人の女が微笑んでいる。女の目元には薄いしわが刻まれ、年齢は五十歳程度に見える。だが、作りもののように整いすぎた目鼻立ちにはえもいわれぬ迫力があった。苛烈さと冷酷さを併せ持つおとぎ話の継母のようだ。


「見覚えはない、か」


 なんの反応も示さないソレッラにため息をついて、ボフミラは蓋を閉じた。


「僕らを逃がしてお姉様は死んだ。亡骸すら僕らの手には取り戻せなかった」

「それはもう百年近く前の話よね。そんなにも長い時間が経てば、亡骸でさえすでに失われているはずよ」

「無論そんなことはわかっている。だが百年かかって漸く僕らは突き止めたのだ。たったひとつだけ……この世に残るお姉様の断片を」


 ボフミラは手をひるがえしロケットを握り締めた。それからペンダントチェーンを再び首にかけ、ロケットを服のなかに入れた。


「それを手掛かりに僕らはお姉様を取り戻す、それだけだ。ソレッラとやら、モニカが突っかかっていったことは申し訳なかったが、これからはおまえに直接害は及ぼさないと約束しよう。さっさとその小さい契約者を黙らせて、大人しく身を引いてもらいたいものだな」

「そのために数多の吸血鬼の血液サンプルを持ち出した?」


 語気を強めるボフミラとは対照的に、ヴァニアは穏やかに告げた。ソレッラの契約者だと間違えられたことを否定するつもりもないらしい。


「……人間には関係ない。もういいだろう。早く物騒なものはしまって帰ってくれ。僕はこれから出掛ける予定がある」


 ボフミラはソレッラの銃口を指差し、辟易とした口調でいった。


「いいえ、ならばなおさら帰るわけにはいかないわ。あなたが取り戻そうとしている吸血鬼は、記録された吸血鬼事件のうち最多の死者を出している。アレガート村が発見されてから消滅するまでの二十年間で亡くなったのは三百十六人よ。この数は吸血鬼が『生きるために』必要とする人数を遥かに超えているわね。

 たとえあなたにとっては恩人でも、人々に害なす者なら……あなたのお姉様を取り戻すことがイコール復活させるという意味ならば、私はここであなたを止める」

「笑止。止めるなどもう遅い。復活劇の幕は上がったのだ!」


 ボフミラは挑発的に椅子を蹴飛ばし立ち上がった。その目に殺意が宿っているのを感じ、ソレッラはすかさずトリガーを引いた。


「遅かろうが、やるといったらやるのよ!」


 ソレッラ、と呼ばれる前に短機関銃が火を噴いている。だが半歩遅く、銃弾はボフミラが飛び退いた後に椅子に穴を開けた。


 ボフミラは先ほど書いていた便箋を乱暴に掴み窓際へ駆け寄る。頭からは血が流れているがボフミラの動きに無駄はなく、一撃で急所を仕留められなかったことがソレッラには悔やまれた。だが後悔している暇はない。


 ヴァニアの指示を待たずに、ソレッラは吸血鬼を逃すまいと攻め寄った。


「その子を押さえて!」

「了解ッ」


 ボフミラはこの場所が五階だと忘れたかのように、躊躇いなくガラスを突き破って外へ飛び出した。ソレッラも急いで窓際へ向かう。人間ならば即死する高さからのダイブである。いくら吸血鬼とはいえ、身体能力に劣る者が無傷で耐えられるとは思えなかった。


 窓から身を乗り出して短機関銃を構える。地面に吸いこまれるように落ちていくボフミラに狙いを定め連射モードに切り替えた。


 が、突然階下の窓から青い腕が突きだされボフミラを抱き留めた。腕はボフミラを力強く掴み、素早く屋内に入れる。


 ボフミラの姿が視界から消えると同時に、背後で壁を裂くような音が鳴り響いた。扉の蝶番が周囲の壁ごと剥がされ、廊下から白衣の男性が半身を覗かせた。青白い肌がその人間がすでに死んでいることを物語っている。虚ろな目がヴァニアを見据えた。


 ソレッラは体を捻り、死者に向けて発砲する。弾は死者の額を貫いたが、動きを一瞬止めただけで無力に床を転がった。


 死者が膨張した手でヴァニアの髪を掴む。もう片方の手にはナイフが握られている。すでに死者とヴァニアの距離が近く、発砲すればヴァニアに当たる可能性があった。ソレッラは銃が使えないとすぐに判断して駆け出した。押しのけた椅子が勢いよく机にぶつかりうず高く積まれていた本がソレッラの行く手に雪崩落ちる。


「カポ……ッ!」


 絞り出すような叫びは己の喉から出たものとは思えなかった。ヴァニアが逃れようと身をよじるほど、死者はヴァニアを強く引き寄せる。狙いを定めた死者によってナイフは今まさに振り下ろされようとしていた。絶体絶命のヴァニアをとらえた視界の隅に、驚倒の表情で佇むアンドレイーナが映る。


 選択肢はひとつしかなかった。


 アンドレイーナが死者に飛びかかる。振り下ろされた凶刃を胸で受けとめ、ナイフごと死者の腕を抱き込んだ。


 ソレッラはアンドレイーナとの血のリンクが薄れていくのを感じた。ソレッラの能力では死者を操れない。対象が死ねば自然とマリオネットの糸が切れる。


 アンドレイーナが命を以て生んだ隙へ、ソレッラは滑り込んだ。片手を封じられて動きの鈍くなった死者の目の前、ゼロ距離から喉仏をめがけて発砲した。弾丸は首の骨を砕く。ソレッラはうなじを掴んで無造作に捻り、頭と身体と分断した。死者は急激に力を失い、敷き詰められた本の上へ倒れて動かなくなった。


 ソレッラは腐敗ガスのにおいに顔をしかめながら、体液で汚れた手袋を外してポケットにしまう。


 ボフミラは今どこにいるだろうか。撃たれる可能性を考えれば先ほどのように窓から飛び出すことはしないだろう。しかし、ずいぶん距離を開けられてしまったのは間違いない。


「カポ、急ぎましょう」


 ソレッラは手を差し延べ、強引にヴァニアを抱き上げた。ヴァニアの白い頬や首筋は絵具をこぼしたように赤く染まっている。黒い髪はじとりと濡れて重く、前髪が目を覆うように貼りついていた。


「あ、あの人は?」


 ソレッラは腕のなかの震えを感じた。前髪を掻き分けてやると、見られたくなかったのだろう、蒼白な顔を胸に押しつけてきた。


「私を守って……私の、せいで! あ、ああ……」


 ヴァニアが必死に嗚咽を飲み込み、気を保とうとしているのがわかる。服がしっとりと濡れ肌に張りつく。が、今は敵地だ。ヴァニアもそれをわかっていて耐えようとしている。ソレッラは声をかけようと思ったが結局は口を結んで部屋を出た。

 選択に後悔はなかった。

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