第12話 碧いアネモネ④

 ソレッラは、「来客」という肩書でボフミラの研究室への案内をアンドレイーナに指示した。三人は書庫を出て、長い廊下をまっすぐに歩いていく。


 研究棟内部は病院と同じように白が基調となり、清潔感のある空間となっている。隣の病院と研究棟はどちらも三年ほど前に建てられたもので、今なお真新しい雰囲気を漂わせている。反射する蛍光灯の光が眩しいほど滑らかで光沢のある床を走れば、スケートの要領でスーッと滑っていけるだろう。


 ソレッラは不審に思われない程度に辺りを見回し、完璧に覚えた研究棟のフロアガイドの記憶に実際の風景を上書きしていく。なにかが起こったときのためにではあるが、もう十中八九なにかがあるだろうと身構えていた。ボフミラがヴァニアとソレッラを無事に返してくれるとは限らない。先日の「ソレッラの部下を殺し死体を操る」という行為からは、人を人とも思わない残虐性が感じられる。


 言葉を交わすことなく研究棟の廊下を歩み続けるソレッラ、ヴァニア、アンドレイーナの三人は、エレベーターに乗り、五階へと向かう。エレベーターに乗り合わせた研究員と職員の男女二人がアンドレイーナに笑いかける。


 アンドレイーナが二人に来客の案内をしているのだと説明している間に、ソレッラは二人の手を傷つけて血を奪った。女性はおしゃべりに夢中で気づかず、男性は小さな虫に噛まれた程度にしか感じなかったため、大事にはならず流された。


 さらに上階に向かった男女を残し、ソレッラたち三人は五階でエレベーターを降りた。


 ボフミラの研究室は階の最も奥にある。壁や床のレイアウトは一階と大差ないが、他の研究者の部屋が左右にずらりと並ぶ廊下は窓がなく、蛍光灯では照らしきれない影が床に伸びていた。


 アンドレイーナは迷いのない足取りで進んでいった。ソレッラは脳内に描いた地図と現在地をリンクさせていた。一歩一歩確実に近づくほどに緊張感が高まる。左側を見ると、ヴァニアが両手でソレッラの左手を握るところだった。


 ヴァニアは額を寄せ、口元を一文字にきゅっと結んでいる。ソレッラは握られた手を優しく握り返してやった。


 こんなに研究室が並んでいるにも関わらず、廊下は不気味なほどシンと静まり返っていた。まさか一部屋一部屋が防音室であるはずがない。ソレッラは眉をひそめた。


 やがて、先頭を行くアンドレイーナが足を止めた。ソレッラの調べた通りの部屋の前である。型どおりに三回ノックして来客の旨を告げると、部屋のなかから返答があった。


 アンドレイーナはボフミラ・ネトリツカの名が記された研究室の扉を開けた。操られているせいか、諦めているせいか、虚空を見つめるかのような無感情な目がソレッラの緊張を煽った。


 部屋のなかは机が三つ置かれ、そのすべてに書類や書籍が山のように積まれていた。壁に沿って置かれた本棚にスペースが空いていることから、恐らく本棚から抜き取ったまま片づけられていないのであろう。ざっと見た限り机の上にあるのは論文や学会誌、ソレッラには読めない言語で書かれたデータ類、企業からのファックスなどであった。論文の間には、カラフルなお菓子の包み紙がいくつか捨て置かれている。小柄なボフミラはその山脈の谷間に身を置き、万年筆で便箋になにやら記している最中だった。


 便箋から視線を離し、人間に紛れて生きる女吸血鬼はソレッラたちを舐めまわすように見回した。ソレッラはヴァニアを部屋のなかへ導くと、アンドレイーナを後ろに下げて部屋の隅に立たせた。


 「これはこれは」ボフミラは呆れ顔で眼鏡を外し、白衣の胸ポケットにつっこんだ。「とんだお客様だ。どうやって僕を嗅ぎつけたのかね」

「企業秘密ですよ。あなたのせいで頭を冷やすのに時間がかかりました。さて、今日は先日の件にどう落とし前をつけるつもりか伺いに参ったのです」


 ソレッラは挨拶も前置きもわざと飛ばし、唐突に切り出した。たとえ社会人の礼儀として必要ではあっても、ボフミラにしてやる義理はない。


「ふーん、そうか。まあ座りなよ。こちらも忙しいが時間はまだ少しある、それまでゆっくりと話そうぜ」


 ボフミラは書類の山を乱暴にどけると、オフィスチェアを二つ転がしてよこした。


 ソレッラは椅子をボフミラから二メートルほど離したところに置き、そこにヴァニアを座らせた。自分の椅子はもしボフミラがヴァニアを襲ってもすぐ守れる位置取り――ヴァニアの一歩前に置いて腰掛けた。


 ボフミラは椅子の背をソレッラたちに向け、子どもが乗って揺らしているスプリング遊具の要領で、椅子にまたがった。


「で、なにが聞きたいんだったかな」ボフミラは話を切り出しかかったが、ハッと気づいた様子で話題を切り替えた。

「いや、まずはおまえたちの名を教えてもらおうか。こちらが一方的に教えるというのは不公平だからな」


 ソレッラはちらとヴァニアに視線を移した。この場の主はヴァニアであり、相手にどれほどの情報を与えるか否かはヴァニアに任せることを昨夜打ち合わせていた。


 盲目のヴァニアはソレッラの目配せに気づくはずもなかったが、まるで見てとったかのように頷き、胸に手を当てて答えた。


「私はヴァニア。ファミリーネームについてはここでは控えさせて。ある組織の責任者をしているの」ヴァニアは次にソレッラを指す。「私の姉(ミアソレッラ)。呼び方はソレッラでいいわ」

「ほう、詳しくは言えないか。だがまぁ吸血鬼を擁する組織といえば見当はつく。第一にCVC、次に警察、それからどこぞの反社会的組織。CVCや警察が目の潰れた子どもを連れてくるとは考えられないから、さしずめならず者どもかな。それで?」


 ボフミラは余裕のある笑みを浮かべた。


「なかなかおつむが回るのね、吸血鬼さん。私たちの敵ではないような口ぶりだけど、あなたはもう敵になのよ。それでもあなたの協力如何によっては目をつぶってあげられるかもしれないのだから、二度と無駄口は叩かないほうがいいわね。……さて、さっそくだけどあなたが吸血鬼の血液サンプルを盗んだ目的を教えてもらおうかしら」


「僕を脅すか」ボフミラは万年筆を指先でくるくる回しながら笑った。「大丈夫かね。ここは僕の根城だ、罠が仕掛けられていてもおかしくはないぞ」


 ソレッラはおもむろに立ち上がり短機関銃を腰のホルスターから抜き取る。ヴァニアが考えていることが手に取るように分かる。ソレッラは脳内で思い描くヴァニアが望む通りに、銃口をボフミラの額に突きつける。


「無駄口は叩かないほうがいいといったはずよ、吸血鬼さん。で、あなたの目的は?」


 ヴァニアはしっかりと受け答えする。今も相当緊張しているだろうが、キリリと引き絞った表情は先程までの緊張は夢にも思わせない。ファミリーを立て直すための多くの死地を経て、ヴァニアは自分がどう見られているかを把握できるほどに成長した。


「銃で僕が殺せるとでも思っているのか?」


 その問いにはソレッラが応じた。


「少なくとも動きを封じるくらいはできると思っていますよ。あなたの死体を操る能力は強力ですが、身体能力のほうが高いとは言い切れませんね」


 口にした言葉はそのまま自分への言葉でもある。人を操る能力は強力だが、そのぶん身体能力の点で他の吸血鬼より劣る――右腕がいまだに義手なのもソレッラの身体能力が劣るせいだ。身体能力特化の吸血鬼ならば、時間はかかるだろうが腕一本ごとき生やしかねない。先日相対したモニカもおそらく身体能力に秀でていると考えられる。


 ボフミラは返答せず、考えを巡らしている様子だった。無言であることはつまり図星ととっていいだろう。弱点を知ったうえでこの場に死体がない以上、現状はソレッラたちが有利だ。


 ソレッラは少しでもおかしな挙動をすれば撃つという意思を銃口に注ぎながら、敵を見つめていた。


「……僕らの目的は、ある人を救いだすことだ」


 ボフミラは軽口を叩き続けるのを諦めたようだった。両の碧眼がまっすぐにヴァニアを見、静かに語りはじめた。

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