第11話 碧いアネモネ③
駐車場を抜けると、大理石の噴水の向こうに白く巨大な建物がそびえる。門といい、建物といいまるで檻のようだ。病を治す場ではあるが、難病の患者が運び込まれてそのまま天国へ旅立つことも少なくない。治療の神は健康な者には近づくなと叫ぶが、病んだ者には逃がさないとささやく。通常の病院であればそんな印象は受けないのだが、吸血鬼が潜む病院と知っているぶん怪しげな印象を受ける。ドラキュラ伯爵が住んだブラン城ならぬ「ブラン病院」といったところか。
下調べしたところによれば、病院だけでなく大学院付属の研究施設も隣接しているという。奥に見える、茶色のレンガ作りの建物がそれだ。許可証がなければ訪院が難しい、主に富裕層が通う特別な病院。その研究棟に標的のボフミラが勤めているという。
ヴァニアと手を繋いだソレッラはゆっくりとした調子で歩く。病院の前を通り過ぎ、二人は研究棟へと向かった。病院と研究棟の間には一メートルほどのフェンスがあり、関係者以外の敷地内への侵入を防いでいる。
ソレッラは片方の手でヴァニアの肩を抱くと、膝をついて胸元に引き寄せた。ソレッラは四方を見回し、病院周辺の道路や駐車場、病室の窓からの人目がないことを確認する。
「失礼します」とヴァニアの耳元でささやいた後、もう片方の手をヴァニアの太ももの後ろへと回した。ソレッラが立ち上がると、ヴァニアは王国の姫君のように軽々と持ち上がった。
ソレッラはヴァニアを抱いたままフェンスから数歩下がる。心のなかでカウントダウンを唱えつつ、脚に力を込めて思いきり地を蹴った。
ヒュンと風の音がしたと同時に、ソレッラは研究施設の敷地内に降り立っていた。
「セキュリティは案の定簡単なものでしたね」
ソレッラは優しくささやきながら、腕のなかで身じろぎするヴァニアに視線を落とした。そっと地面に下ろそうとして、ヴァニアが縮こまっているのに気づいた。ぎょっと目を見開いたソレッラに、ヴァニアは頬を膨らませていった。
「ソレッラ、跳ぶなら跳ぶといってほしかったわ」
「す、すみません……」
盲目のヴァニアにとって、突然大きく動けばひどく恐怖を感じることだろう。そんなことも思い至らなかった自分に、ソレッラは失望するとともに猛反省した。
「さて、潜入捜査もここからが本番ね」
ヴァニアは気持ちを切り替えるように明るい調子でいった。
「……ボフミラと正面切って話し合う予定だったのでは?」
「会うまでは潜入、よ!」ヴァニアはソレッラの腕を探り当て、手を掴んだ。「誰かに見つからないうちに行きましょう」
病院と研修施設の間は裏庭のような場所になっており、小さな葉を散らす広葉樹が等間隔に植えられている。木陰にいれば多少は隠れることができるが、長く潜伏できるような場所ではない。一刻も早く移動しなければならない。
ソレッラはヴァニアの手を引きながら、小走りで研究棟へと向かった。下調べの際に、建物の玄関に取り付けられた監視カメラの位置は確認してある。玄関を迂回し、研究棟の窓に見え隠れする人影に注意しながら、二人は撮影範囲の外側を進んでいく。
建物の脇に、秋風にも葉を落とさない低木があった。生い茂った葉の下に身体を寄せ、建物と木の間に身を隠す。頭上には高さが一メートル、幅が二メートル程度の窓があり、カーテンが閉まっていてなかは見えない。この場所ならば、侵入も容易いうえに誰かに見つかる心配もないだろう。
「ここで待つの?」
地面にしゃがみこんだヴァニアは不満そうに眉を寄せた。窮屈だが、他にうってつけの場所はないのだから我慢してもらわなければならない。
「時間はかかりません。もうすぐ迎えの者が来るはずです」
ソレッラは頭のなかで現状を整理していた。病院に入るところはうまくいった。次に研究棟に侵入するところだが、案内役の人間――アンドレーナ・ディアーコがソレッラたちを迎え入れる手はずになっている。
ソレッラの感触では、その人間は近づいてきているはずだった。吸血鬼のなかには壁を透かして見ることができたり、多くの人間がいる場所で足音やにおいを感じ特定することができる者もいるがソレッラの五感はそれほど鋭くはない。
だが、対象がソレッラの能力の影響を受けている者なら話は別だ。距離とかかっている能力の強度がわかるということなら、霊感に近い感覚かもしれない。もちろん、ソレッラには霊感がないため本物の霊感と比べることはできないが。
窓の下で身をかがめ、五分ほど経過しただろうか。早々に待ちくたびれたのか、ヴァニアはソレッラの袖をつまんで引っ張った。
ものいいたげな眉毛の角度に多少申し訳なさを感じながら、ソレッラは立てた人差し指をヴァニアの唇にやさしく押し当てた。ソレッラのジェスチャーが通じたのか、ヴァニアは唇をとがらせてプイと横を向いてしまった。斜め後ろのソレッラからは、柔らかい頬が少し緩んでいるように見える。
緊張感の高い場面だ。見つかったら問いただされてつまみ出されるに違いなく、怪しい者認定されて建物内部で動くのが難しくなる。案内役の人間を動かし、あたかも来客のように振る舞いながらボフミラの研究室へ向かう予定なのだ。今ここで失敗するわけにはいかない。
だからこそ、ヴァニアが少しでも落ち着いていられるように――ソレッラは平常と変わらない姿を見せようとしている。
さらに待つこと数分。背中側からコツ、コツと固い足音が聞こえてきた。
「カポ、準備してください。行きますよ」
ヴァニアに了承を取ってから背中を支え、しゃがみこんだ膝の上にそっと抱き上げる。ソレッラが窓を見上げると、鍵を開けるキィと高く小さな音が鳴った。続いてガラスが引き開けられ、頬がふくよかな女性が顔をのぞかせた。シャツの胸元に昨日見た通りの名札をつけている。
女性はソレッラに持ち上げられたヴァニアを受け取り、窓のなかに素早く入れた。アンドレイーナが窓から離れるのを確認すると、ソレッラも窓枠に足をかけて研究棟へ侵入する。
窓のなかは狭い書庫だった。床面積が少ないというよりは、天井に届くほど背の高い灰色の棚が部屋いっぱいに並んでいるため圧迫感があるのである。金属製の棚には、医療関係の大小さまざまな書籍がぎっしり詰め込まれている。床にはひとつひとつの棚の幅に沿ってレールが敷かれており、ボタンを押せば移動するタイプの書架のようだ。
書庫はしんと静まり返っており、自分たち以外に生き物の気配は感じられない。もちろん死臭もない。ボフミラが死体を準備して待ち伏せしていないか心配だったが、この部屋は大丈夫そうだ。
何事もなかったように窓を閉めたアンドレイーナに導かれ、ソレッラとヴァニアは書庫の中央へと進んでいく。
「ソレッラ、あなたが能力を使ったのはこの人にだけ?」
ソレッラの手を握りしめているヴァニアが、唐突に尋ねる。
「今のところは。ですが、これからすれ違う人間も操れるようにしておくつもりです。ボフミラが事を起こせば人手が必要になるかもしれません。ゾンビが出てくるということも考えられます。なんにせよ、問題が起こったときに誰かがすぐ対応できるようにしておく必要があります。先日のようにはさせません」
「殊勝ね。そうしてちょうだい」
ヴァニアは落ち着いた調子で応えたが、触れあっている掌には汗がにじんでいた。内心緊張してはいるものの、アンドレイーナという第三者が目の前にいることによって余計気丈に振る舞おうとしているに違いない。
アンドレイーナは怯えた視線を右往左往させてなにかいいたいことがありそうな様子だったが、結局口を堅く結び、ソレッラたちの会話に割り込もうとはしなかった。
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