第六話 ほこら

 蒸し暑い風が吹き、絡みつくように木々の枝を揺らしていく。夏のけだるさを感じさせる音だった。シュウは夏の到来を予感させるこの風を、これまで意識したことはなかった。夜空にはほんの少しかけた月が浮かんでいて、そのほんの少しずつの動きを目で追うようにしながら、シュウは思いを巡らせていた。

 一日中、タンとほとんど言葉を交わさず過ごした。もう夜も遅いし、普段ならタンは眠っている頃合いだった。しかし、ふと彼のほうを向くと、考えを読み取りたいかのようにじっとシュウの眼を見つめてくるのだった。

「暑くなったね……」

 タンはムクロジの陰の一番涼しい、地表にむき出しになった根のところに腰掛けていた。

「初耳だったよ。君のお母さんが、人里の人間に殺されたなんて」

 それはシュウには秘密にしておいたことだった。父親と離れ離れになったことは伝えたが、母親の話はしていなかった。

「どうして黙っていたんだい」

「話す機会がなかっただけさ。話をしようとは思っていた」

 嘘だった。そのことはシュウの中で、最も心の深奥にあることだった。深い、深いところでの恨み。たとえ相手がタンであろうと、そこまでを明かす気分にはなれなかった。

 エミィが去ってからずっと、シュウは考えていた。ほこらで父に棄てられた時から、自分では現状に慣れ、擦れた大人になったと感じていたが、結局は両親を思いやる気持ちを捨てきれていないのだ。

「シュウ、君は人間に恨みを抱いている。それは間違いないじゃないか。エミィの言うことが絶対正しいとは言えないけれど、人間を信用するのは自分では許せないのじゃないのかい」

 言われなくてもわかっていることだった。それを刺激されることによって、父親のした人間のための行動がシュウの頭をかすめる。父は人間のためを思って働いた。それは、なぜだろう。

 そしてそれだけに、しばらく人里に姿を見せない父の安否が気になる。先ほどエミィに、父の安否を尋ねることもシュウの頭をよぎったが、エミィとしても森の除け者と関わることはできるだけ避けたいはずだった。協力しない結果森がどうなってもいいが、それまでは森の秩序は保たれなければならない。シュウはそんな気がしていた。

「ぼくは、取り返しのつかないことをしたんだよ。僕のせいでこの森が滅びるだなんて……」

「じゃあ率直に聞くよ。君にとってこの森が滅びてはいけないと感じる理由は何なんだい」

「そんなの決まっているじゃないか。この森のみんなに、迷惑をかけたからじゃないか」

 シュウにはもちろん、言わんとしていることは分かった。けれど、それを認めたくなかった。これまで自分が味わってきた、除け者としての苦しみが思い返される。

「……明日の夜、僕は彫刻師に、もう一度会うよう誘われていることはさっき聞いただろう。僕は、その誘いに乗ろうと思う」

 タンは気色ばんだ。

「どうして? 君がそうする理由が、僕には全く分からないよ。しっかり説明してくれ」

「……すまない」

「そうか、僕に隠し立てをする気なんだね……分かった。僕は君の代わりにエミィと話をしてくるよ」

 タンはそう言って、憤然とねどこの奥のほうへと潜っていった。

 しばらくしても、寝息が聞こえてこない。シュウはなおも風に打たれていた。けだるさに浸っていたい気分だった。

 日が昇り始め、鳥が朝を告げるその第一声を、シュウはぼんやりと聞いていた。寝床の奥から、タンが寝苦しそうに何度もうなり声を上げているのが聞こえる。悪い夢でも見ているのだろうか。シュウはそんなタンを、心配する気にはなれなかった。

 エミィに決断を迫られたとき、シュウは答えを渋った風を装ったが、今はむしろ深夜になるのが待ち遠しい。話をしている間に結論は出ていたし、エミィの意見次第で結論を変えることも考えたが、その情に訴えかけるような話は逆にシュウの癪に障った。

 もちろんそのことが、そのまま彫刻師の老人の話を信用する理由にはなりえなかった。父に関する情報が少しでも得たいがために、シュウは老人のもとへ行く決意を固めていた。

 しかし、それだけではなかった。シュウの中で一度芽生えた考えは、瞬く間に根を張り、脳を占領していた。

 太陽が空の天辺に達しようとする頃になり、ようやくタンが起きだしてきた。しかし食料を取りにいかず、寝床にため込んでおいた木の実だけを少し食べた。タンもそうした。

 動く気にはなれない。動かないと、自然と頭を働かせることになる。シュウはずっと、改めて、父親のした人里への奉仕の意図を考えていた。

 日が沈み、満月が昇り、そろそろ空の一番高いところに達しようとしている。シュウの考えは凝り固まっていき、シュウなりの結論が、まるで花が咲いたように、ぱっと出た。その考えは美しかった。

「そろそろ、出かけるよ」

「シュウ、僕は信じている。僕の罪滅ぼしに、協力をしてほしい。その気持ちを、少しでも分かってくれるというなら、エミィのもとへ行ってくれ。これは一生のお願いだ。和を乱すことの重大さは、群れで暮らしていて追放されそうになった時によく分かった。僕が群れの長の息子でありながら、非力だと知れ渡ったとき、群れを見限った熊たちもいたんだ。僕は……これ以上、動物たちの悲しむ姿を見たくはない。シュウ、僕には理解できないけれども、彫刻師に共感する部分があったんだろう。それは認めるよ。けれど、ほかの動物たちのことを考えて行動をしてほしいと思っている」

「タン……僕は夜中じゅうずっと考えていたんだ。僕は動物たちだけのために動けばいいわけじゃない。人間と、うまくやっていくことはできないのかな」

 タンももう、自分の意見を気兼ねなくさらけ出す覚悟ができているようだった。せせら笑うように、

「君の口からそんな言葉が出るとは思わなかった。君の母親を殺したのは、他でもない、人間なんだろう?」

「それは、盗みを働いた報いだ」

「それにしてはひどすぎる仕打ちじゃないか」

「そうも考えたさ。僕の母親は、盗みを働いただけじゃなく、もっと他の――人里の秩序を著しく乱したんじゃないか、そう思えてきたんだよ」

「具体性に乏しいね。一体何があるというんだ」

「それは……分からない。分からないけれど、なぜか僕の心の底ではそれを分かっているような気がするんだ。それをうまく取り出せていないような、そんな気が」

 タンは呆れたようにため息をひとつつき、

「分かった。シュウ、僕は僕なりの行動をとらせてもらう。僕は君の代わりにエミィのもとへ行く。君は君の信念に従うといい」

 皮肉っぽい調子でタンは言う。返事をせずに、シュウは出かける準備をした。もちろん、ほこらのほうに向かって、だ。

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