第七話 怒涛
ほこらに着いたとき、まだ彫刻師の姿はなかった。普段は眠っているであろう森の鳥たちが、あわただしく飛び回っているようだった。タンが行動を始めたのだろう。満月は空の天辺から少し降りてきた。一瞬、シュウの頭を不安と疑念がよぎった。もし自分が騙されていたとしたら、タンにはどうやっても申し訳が立たない。
つか、つかと靴の音が響いた。この前の老人が履いていた草履の音とは、明らかに違う。よく耳を澄ますと、足音はふたつ聞こえた。そちらを向くと、ぼろが来ている覆い布に顔を隠した老人と、もう一人、とても背の高い、壮年ほどの男がこちらに向かっていた。シュウの背筋に、電流のような緊張が走った。老人は見るからに重そうな行李を背負っている。だまされたか。やはり、人間は森の動物たちを始末しようと考えていたのか。
「身構える必要はない」
老人がシュウに語りかける。背の高い男の青々とした髭の剃り跡が、シュウには精悍さを引き立てているように感じられ、体がこわばる。彼に受ける折檻はさぞ苦しいことだろう。
「こちらは、人里の長を務めている者だ。あれから人里に戻り、話を交わした。君に謝りたいと言っている」
人里の長――彫刻師がそう言った人間は、何やら分からない言葉を使った。
「君の母親の件は、村の血気盛んな若者がやったことだ。本当に申し訳ない。いくら人里で大切に祀っている像を壊したからとは言え、やりすぎだった、と彼は反省しているよ」
その彫刻師の言葉に、シュウは緊張をほどいた。さらに、自分の考えに確証を持った思いだった。
「やはり……そうでしたか。僕の母が、人里の食べ物を盗んでいた件は知っていますか」
「もちろん。あの時は本当に食糧難だったから、それは仕方のないことだと割り切っていたそうだ」
「僕は、母が殺されたのは食べ物を盗んだ報いだとこれまで勘違いをしていました。それなら、僕の父親があなた方にせめてもの罪滅ぼしをしようとしたことに納得がいきます」
シュウは言葉を切って、一度深く深呼吸をした。最悪の事態も考えた。意を決して、
「僕の父親の様子は、どうでしたか」
「……先に、こちらの話をしよう」
そういって、老人は荷を解いた。ふくれ上がった行李から彼が取り出したのは、大きな石像だった。
「君を模して造らせてもらったよ……これでいいかね?」
月明りに照らされ、シュウにはその輪郭の美しさが浮き彫りのように見えた。立派な――という言葉では足りない、荘厳さを感じさせる石像。シュウはその目の部分を見ると、まるで自分と向き合っているかのように錯覚してしまった。この老人は、本物の彫刻師だ、それは間違いなかった。
「うれしいです。こんなに素晴らしいものを彫ってもらえて……」
老人は形だけ喜んでいる様子だったが、ほめ言葉には慣れているかのように表情を崩さなかった。
「では、これを人里に祀らせてもらおう。ありがとう」
老人はその像を地面に立てたあと、言葉を切った。
沈黙が流れた。
「僕に……覚悟はできています」
まっすぐに老人を見つめた。老人の目が、悲しげにきらめいた。
「君のお父さんは……もう先が短いじゃろう」
老人とシュウの間には、再び沈黙が流れた。なぜかあたりが騒がしかった。鳥たちだけでなく、ほかの動物たちも動き出しているようだった。情報伝達役らしい鳥たちだけが、月明りのもとで見えた。しばらくその言葉をかみしめるようにしてから、シュウは、
「……やっぱり、そうでしたか」
覚悟していないわけではなかった。むしろ、そうなっていることは予想の範囲内で、まだ父親は亡くなっていないという事実に、なによりシュウは安堵した。
「君のきょうだいらしき子ぎつねたちが、必死に君のお父さんを看病している様子じゃった。お父さんは衰弱しきって、ほとんどねぐらから出てこず、たまに出てきたときは歩くことすらおぼつかなかった。終始ぐったりして、目はどろんと精気を失っていた。もう少しで歩けなくなるじゃろう……」
老人の顔には、シュウを気遣う心と、疑念の心が共存していた。シュウは父の安否について聞いたことを早くも後悔し始めていた。こんなにも、父親に会いたくなるとは予想外だ。
「君のお父さんの心労はよく分かる……若い息子を置き去りにしなければいけなかったのだから。が、わしが見た感じでは、心というよりは体に病を抱えている様子じゃった……なぜじゃろう」
「実は僕の父親は……」
おずおずと言いだそうとしたシュウの声は、周りの草々を揺らす無数の音でかき消された。森の狼たちが一斉に森から出てきたかと思うと、瞬く間にシュウたちを取り囲んだ。
「何ごと」
老人がつぶやくうち、狼たちの間から、予想もしなかった動物が現れる。
タンだった。
「シュウ、そこの像を持ってこちらに来るんだ!」
シュウは大きく声を張り上げるタンに、いつもの大人しそうな雰囲気を感じなかった。シュウはその場に氷漬けにされたように動けなかった。純粋に、タンが怖かった。
「どうしたシュウ、何をぐずぐずしているんだ? そういう計画だっただろう!」
老人の通訳を聞く前に、人里の長は老人の行李から猟銃を取り出していた。いざという時の備えか。やはり老人たち人間も、シュウのことを全面的に信頼しているわけではないのだろう。人里の長は半ば暴言のような口調で老人にひと言吐いた。
「シュウくん、今あの熊が言ったことは本当かい」
老人がシュウに猟銃を向ける。冷ややかな銃口がシュウの瞳をにらみつけ、射すくめられるようにシュウは固まってしまった。シュウはすぐにでも首を振りたかったが、ためらった。ここでタンの言葉を否定することは、自分たちの間に決定的な亀裂を生み出すことになる。せっかくできた唯一無二の友を、失ってしまいかねない。
けれど、やはり、シュウは首を横に振った。この状況で、真っ先に猟銃が撃たれるとしたら、自分だろう。なおも猟銃はシュウに向けられている。シュウは首を振ったあと、まるで大木で頭を打ち付けられたような、重い痛みに苦しんだ。愛する友を裏切った罪の意識。
狼たちは輪をじりじりと狭めていき、その荒い息遣いがシュウの耳に入る距離となった。その輪の後ろに、タンが立っている。
「あまりこの力は、使いたくないんじゃが……」
老人はそういうと、何やらわからない呪文めいた言葉を唱え始める。老人の手にした杖の先は、ぼんやりと青い光を纏いはじめた。シュウは彼の彫った像も、その呪文に反応してかたかたと震えているのを見逃さなかった。
(シュウ君、目を閉じていなさい)
老人がシュウにささやく。逆らうとどんな目に合うのか分からなかったので、黙って従った。
老人は呪文を唱え終わると、その杖の先にたまった光が、すべての方向に散らばった。目を閉じていたシュウにも、その明るさがまぶた越しに分かるほどだった。
「さあ、包囲を解くんだ」
老人の言葉を聞いた狼たちは、それに従いあちこちへ散らばっていった。
「さあ、君たちを操ることは、たやすいのだ。おとなしくしてもらおう。我々も、君たちに危害を加えるつもりはない。……この像を、壊そうというつもりだったんじゃろう。この像は、君たちを危険にさらすものではないし、シュウ君の能力を封じるものでもないよ」
シュウ達を二重、三重に取り囲んでいたらしい動物たちが、散り散りになっていく音が響いた。そうして、その場にはただ一頭、タンだけが残った。
「ほう……君にはこの術は効かないのか。べつの森からきたのかね?」
タンは無言でうなずく。
「さあ、シュウ、これでわかっただろう。この人間たちは、怪しげな呪文を使って動物たちをたぶらかす存在だ。僕たちを滅ぼす存在だ」
タンが迫るにつれ、人里の長が構える銃もシュウに近づく。熊がとびかかれば一息に人間を打ちのめせる距離にまでなって、人里の長は強く高い声をあげた。
その声は、撃て、の合図だった。森の奥から、銃声が聞こえた。弾はタンの左足を的確にとらえる。タンは気を失って倒れ、どう、と深く重い音が鳴った。
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