第八話 倒れたタン

 シュウは老人と人里の長、それから獣医を名乗る中年ほどの腹の膨れた男の三人と一緒に、人里に向けて歩いていた。タンを殺したのか、早く手当てを、とシュウはしつこく老人にがなり立てた。獣医と話を終えた老人がそれに答えて、

「熊を撃った銃は、殺傷能力を抑えてある……死にはしないから安心しなさい」

 シュウはうなずいたが、心から納得できるはずもない。あんなに深く、寝息すら聞こえないほど深く眠っているタンを見たことがなかった。無理やり自分を納得させ、シュウは里に帰る人間の列に続いて歩いた。

 シュウが人里へ行かなければいけないのは、タンの無罪を証明するためだった。タンはただ、人里との緊張状態を引き起こしたという罪悪感をエミィにかきたてられ、今回の行動をそそのかされただけだろう。あれほど派手に老人たちの前に立ちはだかったタンだ、簡単に許しは得られないだろうが、シュウの胸にはなお、彼と仲直りがしたいという思いがあった。このままいけば、タンはただでは済まされないだろうし、最悪殺される可能性だってある。先ほどタンの言葉に首を振った時点で、向こうはもう自分に対し失望しているかもしれない。友達でもなんでもないと思われているかもしれない。けれど、シュウにとってはやはり、タンはかけがえのない友達だった。

 人里に着くまでに、シュウは隣の森の熊であるタンと友達になったこと、エミィから聞いた話と、それを受けてタンと仲たがいをしたこと、すべてを洗いざらい話した。老人はその話を人里の長に伝え、また長の言葉をシュウに伝えることに忙しかった。

「なるほど……話はかなり、複雑なようじゃな」

 老人は頭の覆い布から飛び出しているあごひげを、撫でつけるようにさする。人里の長とひと言交わしてから、

「そこまで言われてしまえば、我々としては、鵜呑みにされないのは承知の上で、エミィの言ったような事実はないというしかない」

「……先ほど言ったように、ぼくはあなた方を信じます」

 それはほとんど本心だった。先日ひらめいた美しい考えは証明されたのだ。誰もが誰もに対し、良かれと思ってやったことだった。母は、森の動物たちへの奉仕の心から。母を射殺した若者は、人里に祀られた像を壊したという悪行に対する正義感から動いていた。そして――

 そして父は、人里のためを思って奉仕したのだ。

人里の中央にある広場に、シュウは連れてこられた。

「そのうちタン君が運ばれてくる。今日のところはもう暗いから、あちらで休んでいなさい」

 老人が指さしたのは、まるで蔵のような狭苦しい小屋だった。

「タンはいつ目覚めるでしょうか」

「きっとすぐじゃ、けれどこちらで少し預からせてもらうから、明日の昼頃まで君と会わせることはできない」

 シュウはおとなしく、そちらの小屋に移動する。そこで一晩を明かせということだ。戸を開けたとたん、埃っぽさとカビっぽさの混じったようなにおいがシュウの鼻をついた。

「鍵はしっかり閉められるから安心してほしい」

 もとよりシュウに眠る気はなかった。人間を信用できないというのもある。タンの体が心配で仕方なかったというのもある。

 それ以上に、シュウは父の病状、また彼のした立派な仕事が気になって仕方がなかった。

 小屋にはシュウの手の届かない場所に、くりぬきの窓が一つあるだけだった。月が見えないので、時間の経過はそこから入ってくる明かりで判断するしかなかった。予想以上に疲れがたまっていたせいかもしれない。シュウはなんとなくうつらうつらとしていた。

 ああ、自分はすでに夢の世界にいる、とシュウは確信した。目の前に、父親の姿が現れたからだ。小屋の隅で苦しそうにうずくまっている。うわごとのように何かつぶやいているのを、シュウは必死で聞き取ろうとした。父は、こういっていた。

 ――シュウ、お前には実はもう、能力を操ることができるんだ――

 実感がわかない、というのが本音だった。

「ぼくには、わからないよ」

 ――大丈夫、関門は乗り越えた。お前は能力が発現してから、十回ほど満月を見ただろう。それが条件だ――あとは、ただ自分の感情に従えばいいんだ――

「お父さん、そうはいっても……」

 父は返事をせず、少しずつ透明になり、やがて消えた。窓の外が明るみ始めていた。


 次の日の朝、小屋の戸がたたかれる音で目が覚めた。シュウが鳴き声を返すと、老人は戸を開けた。

 夜通し会議でもしていたのか、あるいはいつ起きるとも知れないタンのそばにずっといたのか、老人の顔には疲れがにじみ出ていた。

「タンの目は覚めましたか」

「ああ……意識自体は、すぐに取り戻した。けれどまだ、うわごとを言っている段階で、とてもまともに話はできない」

「少し、見たいところがあるんです。移動してもいいでしょうか」

「わしの付き添いがあれば」

 シュウは礼を言って、人里の中心から森の近くへと歩き始めた。父のやった仕事を間近で見るのは初めてで、胸が高鳴った。

「この辺りです」

「この畑が、どうかしたかね」

「これは……父がやったことなんです。母が人里の像を壊したことの罪滅ぼしに、毎晩夜通し、人の姿に化けてこの仕事をやっていたんです……」

「毎晩かね」

「僕のこの目で見たので間違いありません。父は毎日夜が明けるまで働いて……それで体調を崩したのだと思います」

 素晴らしい畑だった。整然と土が掘り返され、表土は見るだに柔らかい。夜明けの薄明のなかでもわかるほど太く長いミミズが這うさまが観察でき、所々に小さな穴が開いていた。この畑に、何を植えてもよい作物ができるだろうという確信があった。

 シュウが起きたことを知った人里の長が、人里で一番大きな家から出てきてシュウのそばにやってきた。

「そろそろなにか夏のものでも植えてみようじゃないか、と言っているよ」

 人里の長は気が早いのか、早くも蔵から野菜の種を持ち出して来て畑にまき始めた。その様子を見ているうち、シュウはその畑のそばに木の看板が立てられていることに気が付いた。

「おじいさん、あれはなんて書いてあるんですか」

「そうじゃな……」

 老人はその立て看板に書かれた文字を読み、深く感嘆のため息をついた。

「シュウ君、君の父親は、文字を読むことはできるのかい?」

 シュウは首を振った。

「……今度、この立札の内容を伝えておくよ」

 老人はゆっくりとその文字を読み始めた。

 ――もうこれ以上は結構です。あなたの償いの気持ちは、よくわかりました。どうか、もう自分の体を大事にしてください。話は通じないし、文字も読めないかもしれませんが、どうしても伝えたいことです。これまでありがとうございました。

 込み上げてくる感情があった。まただ、とシュウは思った。また感情に任せて、自然を変化させてしまう。

「シュウ君……目が青く、光っているよ。君はついに、真の力に目覚めたんだね」

 人里の長の種植えが終わった。シュウが滝のような涙を流すと、あたりにまるで巨大なじょうろを使ったかのように綺麗な水が広がっていき、土にしみこんでいった。それは破壊的な濁り水ではなく、優しく清い水だった。瞬く間に種から芽が出、茎が育って、葉がついた。人里の長は、シュウに拍手を送っていた。

「君も……これで、一人前の森の守り神じゃよ」

 シュウもこれまでとは違った感覚を得ていた。この感情の感覚からすると、涙によってあたりを水浸しにしてしまうはずだった。これが、力をコントロールできたということなのか。実感はまだわかないが、その事実はシュウの中に暖かく残った。自信につながった。自分の生み出した水をタンに飲ませると、傷も早く癒えるはずだった。

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