第二話 人里と森

「ここまで来れば大丈夫」

 シュウは荒い息を整えながら言った。

「もう少し、奥へ行っておいたほうがいいと思うけど……」

「大丈夫、ここまでは絶対に追ってこない。第一、ここは人里では迷いの森と呼ばれているからね。一度入ったら抜け出せないから、深追いはしてこない」

 しばらく無言で休んでいた。口の中がからからだった。シュウは熊を誘って近場の水源まで行き、二頭で澄んだ水をごくごく飲んだ。

「おいしい、おいしい」

 森では有名な、うまい湧水だった。

「この辺りに来るのは初めてなのかい」

「群れにいたころ、何度か来たことがある。でも、一人で来るのは初めて」

 シュウは熊のその左目の傷跡から想像もつかないほど柔和な口調に、安堵を覚えていた。よそから来たのであれば自分の森での扱いも知られてはいないだろう。

「さっきは助けてくれてありがとう、命拾いした。僕の名前はシュウ。君は?」

「タン、と呼ばれていた」

「命の恩人だよ、タン」

 タンは照れくさそうにそわそわと体をゆすった。おず、とシュウの顔を一見し、

「最後に名前で呼ばれてから久しいよ、とても懐かしい響きだ……僕にも名前があったんだな」

「群れとはぐれてから、どのくらい経つんだい」

 シュウは踏み込みすぎかと質問を反省したが、

「数えきれないほど前だよ……でも、その日は空に満月が昇っていたことだけはよく憶えている」

 タンは言った。シュウが父親に追放されたのも、満月の夜。独りになった日の奇妙な相似に、シュウはほとんど運命めいたものをみたような気さえした。

「もしよければ、だけれど……。僕には群れに戻るつもりはないんだ。ここについて、いろいろ教えてくれないかな。よければ、友達になってほしい」

 シュウの心に温かいものが満ちた。懐かしい温かみ。ほかの動物と触れ合い、交流するということの幸せ。

「よろしく。じゃあ早速だが、この近くの見晴らしのいい高台を紹介するよ」

 二頭は場所を移した。歩きながら、シュウは瞳がうるんでいることを自覚していた。目的の高台についたとき、シュウは言った。

「ここをほかの動物に教えるのは初めてなんだ、といっても、友達は今いないんだけど」

 タンはキョトンとした顔をして、

「どうして?」

 シュウはやや考え込んだ。ここで、自分に秘められた能力について話をしてしまっていいのか。しかし、タンと友達になれたという喜びで――久々に、自分以外の生き物と対話ができたという喜びで、シュウは涙をこらえきることはできそうになかった。

「今からそのわけを教えるよ」

意識して流れる涙を振り絞った。それは地面に浸透していき、少しずつ水分が土に勝って、ついには一つの池ができた。底が見通せるほど澄んだ色をしていた。

「きれいな水だ……」

「僕はどうやらこんな風に、感情でこの森の自然を変化させることができるらしいんだ……それで、僕は父親に、よくわからない理由を付けて見捨てられた」

 シュウは意識して、神様の申し子云々という話はしないでおいた。行っても理解できないだろうし、してもらうつもりもなかった。

「それは可哀想に……」

 タンはそれ以上の言葉を持ち合わせていないようだった。少しの沈黙ののち、

「飲んでもいい? 実はまだ、のどが渇いていて」

 自分で、自分が創った水の味を確かめたことはなかった。なにか毒になるものが混じっているとまずい、と思ったが、それを言う前にタンは水を前脚で掬って飲んだ。

「さっきの水よりもおいしい」

 タンはそうつぶやくと、次々と、慌てたようにその水を口に運んでいった。

「腹が空いていたんじゃないかい。さっき人里から松の実をくすねようとしていたじゃないか」

 シュウがそう言うのとほぼ同時に、タンの腹が鳴った。


 次の日の明け方、人里を覗いたシュウは、各民家に一丁ずつ猟銃が備え付けられているのを認めた。警戒を強くしているらしく、しばらくは姿を出さないほうがいいと判断した。

 人里は寝静まっていた。唯一、金具が土を混ぜ、掘り返し、均す音だけが響いていた。汗だくになりながら働く父の姿を、シュウは久しぶりに見たことになる。今になって急に、その音が死んだ母を思い起こさせることも恐れず、変わらず行われているであろうそれに耳を傾けたくなったのだ。声をかけることははじめから考えていない。父の行動を理解することはできない。納得はいかないけれども、父が人里のために働いている事実が揺らぎないものになっていた。

 昨夜、シュウは夢を見た。何か得体のしれない、けれど自分の悟性を超えたものが、シュウに教え諭す夢だった。それが何だったかは定かではない。けれど、シュウの心には言葉ではない、なにか温かいものがあふれた。――それを、すんなりと受け入れていいのか。なぜか、シュウはそうした思いに駆られた。なんというか、それを享受するにはもう腹が膨れている。

 変わらない日常が続くことを最もよく確認するすべは、父の働く姿を見ることだとシュウには思われた。そうして、シュウは日が明けるまでずっと、人里のそばの、ほとんど姿を隠せないほどの浅い茂みにいた。

 ムクロジのねぐらに戻ると、まだタンは眠っていた。気持ちよさそうにすやすやと寝息を立てている。昨日の夜は遅くまで話し込んだし、もう少し寝かせておいてやろうとシュウは考え、踵を返して森の深みへと向かう。昨夜見た夢といい、これほど自分に心安らぐときがあっていいのかと身に余る思いがした。

 タンには恐ろしいほど狩猟能力が欠けていた。昨日、獲物を前におどおどしていたタンに、シュウは苦笑した。基本的に、木の実やはちみつしか食べないが、肉が食えないこともないと言っていたので、シュウはいつものように楽々とネズミを捕ってタンに与えた。タンはその手並みに恐れ入ったようだが、シュウは、人里では狐より熊のほうが恐れられているよ、と冗談を飛ばした。

 二頭分の食料を集め、ねぐらに戻った。木の下に潜り込み、タンのぬくもりが感じられる距離で、ただ何もせず過ごした。じっとしていても、シュウの心は温かいものに塗りこめられていく。

 ただ、タンと語り明かした昨晩を思い返す。タンはシュウに備わった異能を、何の疑いも、また恐れの念も抱かず受け入れた。タンに話すことは楽だった。まるで絵空事のような能力の告白を、純粋な瞳をくりくりとさせながらしきりとうなずいて聴く姿に、シュウは心癒された。久しぶりの感覚だった。タンとは長く付き合っていたい、と心から思った。

「うーん……」

「起きたかい」

 シュウはまだ眠気の冷めないタンに明るく声をかけ、

「朝食べるものは用意しておいたよ」

「そこまでしてもらって、ありがたい。すぐにここを去るつもりなのに……」

 タンは先日から、自分は人里と森の関係を乱してしまったからこの森には長居できない、という様子で、実際それを口に出してもいた。

「昨日は、ごめん」

「勝手が分からなかったんだから仕方がないよ。君のせいじゃない。ただ、森と人里との隔ては大きくなっただろうな……」

 もともと、ここには人里はなく、森だけがあった。父が生まれるずっと前から、人間は人里を形成し住んでいるそうだが、これまで一定の不文律でもって互いに干渉しすぎないようにはしていたらしい。そう、例えば――母は人里の食べ物を盗んだから、殺された。そのことのほとぼりはそろそろ冷めてきたころだろうが、今回の件でまた警戒が強くなったことには大いに納得できた。

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