第一話 はぐれ者同士

 小高い丘があって、その上から見る森の景色は素晴らしいものだった。あちこちから鳥たちが楽しそうなさえずり、鹿や猪の楽しそうなおしゃべりなどが聞こえてくる。けれど、シュウは彼らの仲間に入ることができなかった。

 ここからの眺めはシュウにとって心洗われるものだったので、何度も訪れていた。そのほかにまるですることがないからだ。

 父親はシュウが神の申し子であることを森のみんなに触れて回ったらしい。たとえシュウが昔の知り合いにあったとしても、向こうがかかわるのを避けるようにシュウから目をそらし、どこかへ行ってしまうのだった。

 あれからいったい何回、日が昇るのを数えただろうか。もう正確な回数など数えきれないが、その夜明けのほとんどをこの丘の上で過ごしていた。最近はこのあたりに住み着いている。はじめはほこらのそばで暮らしていたのだが、放り出されて間もないころのシュウの涙で、その辺りはすでに池だらけになってしまっている。しかし、狐のほこらの、本当の周辺だけはシュウの力が及ばないのが不思議だった。

 あの日言われた父の言葉を信じるべきなのか、また信じるとしてもどこまで信じたらいいのか、シュウには判断がつきかねた。はじめのうち、父を憎んだ日々が続いた。いきなりよくわからない文句を付けられて追い出されたと取れなくもない。父にとって自分は邪魔者だったのだろうか、やはり人里に通う姿を見たのがいけなかったのかもしれない、などと考え、悲しさと悔しさの混じった涙を流したのはとうの昔の話だった。今はただ、雨雲のように灰色な孤独だけがシュウの脳裏にぼんやりと浮かんでいる。

 シュウは腹が減ってきた。絶望の淵にあったころから比べると、ずいぶん食欲が出るようなった。今からすればあの頃の自分は、幼すぎたのだ。そして親に頼りすぎていた。皮肉だが、それに気づかされただけでも、親に捨てられてよかったとシュウは思っている。

 シュウは森の低地に行って草をかき分ける。がさりと小さな音がして、日のもとにさらされたネズミが素早く逃げようとした。後足を巧みに使って進行方向をふさぎ、立ち往生するネズミを右の腕で捕らえる。それを口に含み胃の中に流し込んでいく間にシュウは、したたかになったものだ、としみじみ感じた。父の言っていた、力のコントロールも、感情そのものにふたをしたような生活なので、そういう意味ではできているといえるかもしれない。

 空腹はしのげたが、心の底から満足できはしなかった。いっそ捕らえたネズミ――今となっては肉片になってしまったが、彼と仲良くし、友達にでもなればよかったかもしれない。そうすれば、心の空白を少しは埋めることができただろう。

 食事を終えたシュウは、最近の住処である、森のはずれの大きなムクロジの木の下に戻ることにした。森の深いところに住めば、必然的にかつての仲間に遭遇する可能性が高くなるからだ。そこは人里にかなり近かった。そうしてねぐらについたシュウは、体を横たえ、もう一度眠ろうとした。最近はいくら寝ても寝たりない思いだった。もったいないという感情はなく、ただこのむなしい生活を少しでも忘れて暮らせるその時間が心地よかった。楽しい夢でも見られればこれ以上のことはない。悪夢も空虚よりは数倍良い。

 しばらくうつらうつらしているうち、草むらを揺らす音がした。もぞ、もぞ、とその音は人里のほうへ移動しており、かなり大型の動物だろうと思われた。人里に大きな動物が現れたときどんなにひどい仕打ちを受けるか目に見えている。けれど止めに入る義理はないし、そもそも森ののけ者にされている自分の意見に、相手は耳を貸さないだろう。けれどその動物が何の目的で物騒な人里を訪れようとするのか気になったので、シュウは起きだして様子をうかがった。

 木立の葉のそよぐ隙間から、一頭の熊の姿が見えた。怪我でも負ったのか左の目が開いておらず、雄々しさを物語っていた。その割に身体はまだ小さく、また周囲に仲間らしき熊の姿も見当たらない。シュウは幼心に、熊が群れを好む生き物であることは知っていた。それで、熊の事情は分からないけれど、温かい気持ちを覚えた。ある種の同情だった。そわそわとして落ち着かず、眠るどころではなかった。

 シュウはなにかきっかけを見つけてその熊と接触を図りたかったが、特別の用事もないし、やはり相手は自分の存在を知っていて、会話を避けようとするだろうと思った。茂みを抜け、いよいよ人里に入った熊を引き留めることもできず、かといって無視することもできない。

 熊はあたりを見まわした――人のいないことを確認したのだろうか。だとすると、シュウには熊がこれからやることの想像がついた。自分もそれを考えたことがあったからだ。

 二足立ちになって、人家のすぐそばにある、よく手入れの行き届いた松の木を揺らし始める。熊は加減を知らないのか、その揺さぶり方は荒々しく、音がこちらにまで響いてくる。ぼとりぼとりと、大きな松の実が落ちる姿を見て、シュウは居ても立っても居られなくなってきた。

 シュウがその人家に近づくよりも早く、大きな人間の声が響く。大地を揺るがすような老婆の胴間声に、シュウは驚いていっときそちらへ向かう足を止めてしまったほどだ。急事の発生を把握した人里の大人たちが、手に手に武器を持って老婆の人家に押し寄せる。その様子に気づかず、のうのうと柿を拾っている熊に大きな声をかけるか逡巡した。彼、もしくは彼女を助けるだけの義理はないし、それどころか危害が自分に及ぶ可能性も高い。

 熊はようやく自分が取り囲まれていることに気付いたようで、おどおどとあたりを見回すことしかできない様子だった。そちらに駆け寄りながら、見殺しにはしたくないという思いが、シュウの心にふつふつと湧き上がってきた。

 人間の一人が手に猟銃を持っているのが視界に入ると、シュウは反射的に、

「危ない!」

 そう叫んで、木々を大きく揺さぶった。

 銃弾が、松の木の横をかすめていく。シュウの声に驚いてその場を飛びのかなかったら、銃弾は熊に命中していたに違いなかった。

 熊は飛び上がったのちすぐに茂みへと消えていった。その逃げ足は速かった。人々は彼を目で追いかけることができなくなり、次第にシュウのほうを向く人が増える。

(まだこちらの確実な位置は知られていないはずだ。大丈夫、逃げ切れる――)

 シュウはできるだけ体が草木に触れないように、なおかつ急いで、森の深みへと突き進んだ。森の奥までは、誰も追ってこないだろう。

 あたりに二発目の銃声が響いた。大丈夫、こけおどしだ、でたらめに撃っているだけだ。そう思って脚を止めない。人間特有のざわめきが落ち着いてきて、シュウは熊の行方を追おうと思った。熊を助けることで交流できるきっかけを作れると思ったが、まさかこういう展開になるとは思いもしなかった。まさか猟銃まで用意しているとは。

 シュウはいつもの高台にまで足を運び、人里を観察した。ほとぼりの冷めるのを待とう。その頃には熊はどこかへ行ってしまっているかもしれない。しかし、それが仕方のないことだと諦めきれなかった。熊のためを思ってやったことが空回りしたことのやるせなさが、胸にくっきりと残った。

 早いうちに動き始めたら、まだ出会える可能性があるのではないか。森の中から、人里のほうへと足を運びなおすシュウは、人間が茂みを揺らすわずかな音に気付かなかった。

 森に響く三度目の銃声。数歩先に歩いていれば弾丸に身を貫かれていたが、足を止めるよう指示したのは、先ほどの熊の発したものと同じ絶叫だった。

 再び、森の奥へと逃げることにする。熊の速い逃げ足に追いつくのがやっとだった。胸に抱いた同情の念など、どこかへ忘れ去ってしまうほど、脚を回転させることに全力を注いだ。

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