夏の夜の一幕
松尾 からすけ
夏の夜の一幕
「呪いのビデオ?」
俺は食器を洗う手を止め、ニヤニヤと笑いながらこっちを見ているバイトの先輩に視線を向ける。
「あぁ……面白そうだろ?」
その手に握られているのは、もはや化石と称されてもおかしくない長方形の黒い物体。揚げ物のオーダーが多いせいで油まみれの居酒屋の厨房には相応しくないものだ。
「こいつを見た奴には例外なく不幸が訪れるらしいぞ?」
「はぁ……」
なるほど……こう暑い日が続くと、決まって出てくる類の話か。
「不幸って具体的には?」
「知らね。死ぬんじゃね?」
えらく軽いな、おい。怖い話にしたいんなら、その辺はしっかり雰囲気作ってもらいたいんだけど。
「先輩は見たんですか?」
「見るわけねーだろ。俺んちにビデオデッキねーもん」
そうだった。ってか、今はそれが普通か。昔、懐かしの怪談も時代の流れにはついて行けないみたいだ。
「前にお前んちで酒飲んだろ?そん時、ビデオデッキ付きのテレビがあったのを覚えてたんだよな。もはや骨董品だろ、あれ」
「……リサイクルショップで安かったんですから仕方ないですよ」
D-SUB、HDMIなんてクソ喰らえ。男なら三色端子でしょ。貧乏学生に4Kテレビなど幻想だ。
「つーわけで、ビデオを見ることができるたった一人の後輩にこいつを贈呈したいと思う!」
「そうですか。処分に困ったから俺に押し付けるってことですね」
「ギクッ」
先輩が分かりやすい反応を見せる。いわくつきのビデオを適当に捨てるのが怖いのか、この人は。子供かよ。
「じ、じゃあ俺はもう上がりだから!お前の鞄に押し込んでおくからちゃんと見ろよ!明日感想聞くからな!」
そう言うと、先輩は逃げるように厨房から出ていった。あの人、俺より一つ上だから今年で大学卒業だよな?あんな人が社会に出ても大丈夫なのか?
俺は気を取り直して、洗い場に向き直る。猛暑のおかげか、そこにはひっきりなしに空のジョッキが運ばれてきていた。あの人と無駄な話をしたせいで、こっから戦争だな、おい。
俺は大きくため息を吐くと、終わりの見えない戦いに乗り出す。必死にグラスを洗い続ける俺の頭からは呪いのビデオの記憶が奇麗さっぱりなくなっていた。
*
「お疲れ様です」
深夜枠の人に挨拶をして、俺はバイト先を後にする。はぁ……まじで疲れた。フルマラソン走り切ったぐらい身体が疲れてんぞ、まじで。マラソンどころかジョギングすら最近しないけど。これで時給が最低賃金って言うんだから参るよなぁ……バイト先変えるかなぁ。
そんな事を考えながら歩いているとオンボロアパートが見えてきた。これだよ。家からの近さが魅力的すぎて、バイトを変えられないんだよな。
軋む木の階段を細心の注意を払いながら上がっていく。もうてっぺん回っているから音なんてたてられない。音に関してはこのアパートは驚きの透過性を誇っている。前にバイトのみんなで飲んだ時、隣人にめちゃくちゃ怒られたからね。あれ以来気まずくて家を出るとき会わないように気を遣いまくってるもん。
なんとか自分の部屋につき、極力音をたてずに扉を開く。そして、足音を忍ばせ、中へと入り、玄関のドアを閉めたところでホッと息を吐いた。
…………ぽちゃん。
シンクに水滴が垂れる音以外には何の音もしない。窓から差し込む月明かりだけが寂しい部屋を照らしている。一人暮らしだから仕方がないけど、こういう時はちょっとだけ実家が恋しくなるな。
「はぁ……」
俺以外誰もいない部屋で安物のソファに腰を下ろす。電気をつける気分になれない。そもそも接触が悪いせいか、何度かスイッチを入れたり消したりしないと電気がつかないんだよ。それをやる元気が今はない。
俺は緩慢な動きで立ち上がると、部屋の隅に置いてある小さな冷蔵庫を開けた。冷房なんかないからこの暑さに耐えるには冷たい飲み物しかない。あるのは……発泡酒ぐらいか。ビールなんて高級品置いてあるわけがない。俺はそれを取り出すと、ソファへと戻る。
プシュッ……。
プルトップが開く音が心地いい。これだけで何となく涼しくなった気がする。いや、気のせいだった。
「……ん?」
それは何の変哲もないビデオテープ。
俺は足元に落ちているそれを手に取る。
「呪いのビデオねぇ……」
缶を傾けながら胡散臭げな表情でそれを眺めた。タイトルも何もない。不気味な雰囲気も不思議な力も何も感じない。当然だ。ただのビデオテープなんだから。
「馬鹿馬鹿しい」
そもそもビデオを見たら死ぬってなんなんだよ。物理的に不可能だろ。じゃあ目が見えない人がビデオを再生したらどうなるって言うんだ。
「……まぁ、暇つぶしには丁度いいか。明日感想聞くって言ってたし」
幸い大学生である自分は今、長い休みに入っている、つまりオールサンデーということだ。まぁ、そのせいで連日あのブラックバイトに勤しまなければならないのだが。あの先輩の事だ、俺が見なかったなんて言おうもんなら、一月くらいずっと『びびり君』とかあだ名で呼んでくるだろ。別にそれで不利益を被ることはないけど、何となく鬱陶しそうだから却下だ。
俺は今や死語になっているテレビデオに近づき、電源を入れた。おっ、今日は機嫌がいいみたいだな。一発でついたぞ。俺はそのまま例のビデオを差し込み、リモコンで入力切替をすると、ソファに戻った。
ザー……。
しばらく砂嵐が続いた後、少しずつ映像が鮮明になっていく。俺は発泡酒をちびちび飲みながら、はっきり見えるようになるまで待った。
そこに現れたのは殺風景な景色に一つの井戸。地面には季節外れの落ち葉が散乱している所を見ると、どこかの山奥にある廃井戸かなんかだろうか?
「……結構雰囲気出てるじゃん」
音も動きもなにもない静止画。それだけだというのに、なんとなく背筋に冷たいものが走る。
「……え?」
いや、静止画などではなかった。物寂しく放置された井戸からゆっくりと何かが出てくる。
それは手だった。
灰色の景色に濁った白い手。そして、徐々に見えてくる肌よりも更に白い服。最後に見えたのはどこまでも続く黒くて長い髪。
現れた白装束の女を見た俺の全身は総毛だった。あれはこの世に存在していい女ではない。俺の本能がそう伝えている。
井戸からでてきた白装束の女は地面を這いながらゆっくりと、しかし確実にこちらに迫って来ていた。俺の缶を持つ手が激しく震えている。これ以上この映像を見てはいけない。そう、頭が告げているが、俺の目は画面に釘付けになったままだ。
「た、たかがビデオだろっ!!」
俺は一人、大きな声を上げながらバッとソファから立ち上がる。それは恐怖に支配されている自分を鼓舞するための事であることは明白だったが、俺は認めない。先輩が悪ふざけで持ってきた玩具にびびるなんてことがあっていいわけがない。
既に震えは身体全体に広がっているが、俺は無理やり身体を動かし、テレビデオに近づく。そして、ビデオを止めるため、停止ボタンに指を伸ばした。
ガシッ!!
その瞬間、画面から飛び出した白い手が俺の手首をつかむ。
「あ……ああああぁぁぁぁぁぁぁああぁぁああぁぁあ!!」
俺は叫び声を上げながら、その手を振りほどこうとした。だが、どれだけ手を動かそうと、掴んだ手は離れる気配がない。
白装束の女の顔は長い髪に隠れて見えない。だが、その表情はニヤリと笑っているような気がした。
女は俺の手を掴んだまま、静かにこちらへと寄ってくる。
「ひ、ひぃぃ!く、来るなっ!!」
俺は恥も外聞も投げ捨て声を上げた。自分でも抑えきることができない恐怖が俺の肉体を蝕んでいる。だが、そんなことはお構いなしで女は少しずつこちらに近づいてきていた。
来るな来るな来るな……。
もはや声を出すこともできない。
来るな来るな来るな……!!
俺にできることは一つだけ。
来るな来るな来るな……!!
こちらの世界に来ないでくれ、と願うこと。
だが、その願いは叶うことはない。
間近まで迫って来ていた女は生と死の世界の境界線を越えようとする。
そして……。
ガンッ。
盛大に頭をぶつけた。
「あっ……」
思わず声が漏れる。女は俺の手首を握っていない方の手で自分の頭をさすり、頭を引くと何事もなかったかのようにもう一度、テレビ画面を越えようとした。
ガツンッ!!
先ほどよりも大きな音が響き渡った。その瞬間、女の姿が画面から消える。俺が恐る恐る覗き込むと、頭を抑えながら地面に蹲っていた。
「あ、あのぉ……」
「小さいわっ!!」
女は勢い良く立ち上がると、髪の毛で全く見えない顔を俺に向けてきた。
「画面が小さすぎるでしょっ!!こんなの出れるわけないじゃないっ!!」
えー……。
「猫は頭が通るところならどこでも入っていけるって言うけど、これじゃ猫も出ていけないわよっ!!だって、頭すら出ないんだもの!!」
「いや、そんなこと言われても……」
「それに何よこれっ!?」
女は半狂乱のまま左上を、俺から見て右上を指さす。そこには緑色の文字ででかでかと『ビデオ』の文字が……。
「雰囲気出ないじゃないっ!!こんなに不気味な映像が映っているのに、こんなのあったら怖いものも全然怖くなくなるってのっ!!」
「そんなことは……結構、怖かったですよ……?」
「ふんっ!!」
白装束の女は腕を組みながらそっぽを向いた。なにこれ。どうしたらいいの?
「あー……いったー……もろにおでこをぶつけたわ。たんこぶできちゃってるじゃない」
「あっ、今湿布持ってきますよ」
俺はそう言うと慌てて冷蔵庫に走っていく。そして、冷凍庫で冷やしてた湿布を取り出しながらふと思った。俺は一体何をしているんだろう。
あのアホな先輩から押し付けられたビデオを深夜に一人で見てたと思ったら、いつの間にかわけのわからないヒステリックな女の相手をしている。なんか泣けてきたよ。不幸が訪れるってこういうことなのか。
俺はため息を吐きつつ、冷凍庫を閉めると、女が待つテレビへと歩いていく。
「持ってきましたよ。自分で貼れますか?」
「あんたのせいでできた怪我よ!あんたが責任取って貼りなさい!」
なんでこの女はこんなにも上から目線なんだろう。顔面に思いっきり張り付けてそのまま突き飛ばしてやろうか。
「じゃあ貼りますから、前髪を上げてください」
「ふんっ!えらそうに……ほら、これで貼れるでしょ!」
その瞬間、俺の時間が止まった。
雪のように白い肌、吸い込まれるような黒い大きな瞳、少し膨らんだ艶やかな赤い唇、そして、その辺のアイドルなんて目じゃないほどに整った顔。
「ちょっと!早くしなさいよ!」
女が顔を顰めながら声を荒げた。その声もビロードのように透き通って聞こえる。もう俺の頭の中は目の前にいる女でいっぱいだった。
「…………した…………さい」
「えっ?なに?」
女が怪訝な表情を向ける。俺はその目を見つめながらはっきりとした口調で自分の思いを告げた。
「一目惚れしました。俺と付き合って下さい」
「は?……えーっと…………えぇええぇぇぇぇぇぇぇぇぇええぇぇぇ!?!?!?!?!?!?」
女の絶叫がこの古びたアパートの一室に木霊する。
呪いのビデオ……見た者には必ず不幸が訪れるって話だったけど、俺に訪れたのは幸福だったみたいだ。
苦節二十年余り、俺が本気で恋に落ちた瞬間だった。
夏の夜の一幕 松尾 からすけ @karasuke
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