夏色の約束

片瀬智子

第1話

 僕は物書きのはしくれだ。名前はまだない。

 いや、もちろんあるが名前はまだ売れていないってこと。無名の作家。


 今夜は、仕事帰りの彼女とデートの約束だ。先程から僕は駅前のコーヒーショップで待機している。

 そんな時、ある出版社の編集者から電話が入った。嫌な予感がうっすらと辺りに漂う。話を聞けば、要は人為的なミスで雑誌のページの枠が急遽空いたらしい。目立たない地味な枠なのだが、大至急文章の書けるやつを捜してる。

 お前やってくれないか――。


 フリーで名もなき若いライターなど、この世には掃いて捨てるほどいる。頼まれた時にやれないライターなどに次のチャンスは巡ってこない。それは身に染みてよくわかっている。

 僕は二つ返事でオーケーした。締め切りが、明日の朝と聞くまでは。


「いやぁ、ちょっと待ってくださいよ、黒木田くろきださん。今、何時だと思ってるんですか。もう夜の八時半ですよ。……明日の朝までに文章を仕上げろだなんて、無茶です! 無理です!」

 僕はごねた。


「何言ってるんだ。プロならプロらしいとこ、一度くらい見せてみろ。今月、どれだけ書く仕事をした? お前、本気で作家になる気あんのか? それとも、バイトのピザ屋を本業にするつもりか!」

 親しい編集者は、容赦なく痛いところを突いてくる。


「……ピザの配達はもうしてませんよ」

 唇の端で唸るように声を発する。現在、僕はドラッグストアでバイトしていた。

「わかりました。……出来たらメールします」

 そう答えると編集者は急に声色を変え、「さすが。期待してるぞ」だの「週刊誌だが、主婦の読者も多いからエログロはやめとけ」などと口早に言い電話を切った。


 ああ、マジかよ。困った、びっくりするくらい何にも思いつかねぇ。

「みぃたん、おまたせ~」

 ハッとして顔を上げると、目の前に恋人の清花さやかがいる。バッグを肩に掛け、グレーのパンツスーツでにこやかに立っていた。


 暑いのかジャケットをさらりと脱いだ。ノースリーブ、パステルピンクのシンプルなカットソー姿だ。僕が誕生日にプレゼントした、ダイヤのプチネックレスが申し訳なさそうに小さく煌めいた。


「どうしたの? 不倫が発覚した一発屋芸人みたいな顔してるわよ」

 それ、どうゆうことだ?

「まさに人生が終わったって顔よ」

 僕の心の声が聞こえたらしい、清花は軽く言った。

「なんでだよ。それより、人前で『みぃたん』って呼ぶのやめろ」

 僕は不機嫌になって言う。恥ずかしいにも程がある。


「なんで、いいじゃん。だって、家ではそう呼ばれてるんでしょ? みのるなんて普通すぎだし」

「そこは普通でいいんだよ」

 清花は唇を尖らかすと、「暑いからアイスコーヒーだけ飲ませて。それからご飯行こう」と言った。


「あ、清花。マジでごめん。急用入った」

 僕は普段から持ち歩いている、年季ねんきの入ったノートPCをバッグから取り出す。それを見て、清花は少しだけ声のトーンを落として言った。

「仕事なのね……よかったじゃん」

 

 僕が清花と付き合いたいと思った理由のひとつがそれだ。仕事に関して、充分すぎるほどの理解があるところ。 

 清花は僕なんかよりも立派に働いていた。大手の美容機器メーカーで広報を担当している。朝から晩まで、笑顔の裏で必死になって働いてる。だからこそ、働く人間の事情を理解していた。


 というか大抵の皆さんは、バイトしながら作家なんて夢を追いかけてる僕なんぞに、なんで清花が付き合ってくれてるんだという疑問のほうが遥かに勝ってるに違いない。ごもっともである。


 実は、清花は作家崇拝者なのだ。

 僕が一文無しであろうと戦慄せんりつを覚えるような駄作を書こうとも、うっとりとした表情で恋に落ちた理由を紡ぎ出してくれる。


 もし僕に作家の才能がなかったとしたら、このまま永久にそうこのまま……考えたくはないが、永久に日の目を見なかったら。

 なんて、ふいに頭の隅をよぎる不穏な考えを……急いで振り払った。


「締め切りが迫ってるんだ」

 僕は重々しく言った。清花は頬をすぼませ、アイスコーヒーをストローで吸い込んでいる。瞳は僕に対して、じっと見開いたまま。


「今決まった仕事じゃないの?」

「ああ、そうだよ。今決まって、今晩中に書き上げなきゃならない」

「はあ?」 


「しかも、何を書くのかもまだ全く決まっていない」

「はい?」

 僕は清花に全て白状する。背に腹は代えられないし、藁をもつかむのは作家という仕事柄、大得意だ。


「そうだ、はっきり言ってめちゃくちゃ焦ってる。なんか面白い話はないか? 締め切りは明朝なんだ」


「ふぅ」清花はひとつため息をつくとイスに深く座り、いつものごとく頼もしく腕を組んだ。


「ねぇ、稔。面白い話なんてそうそう転がってないから。安易な方向に走っちゃダメ。わかってると思うけど、何かからインスピレーションを感じて話を広げなきゃ。テーマとかモチーフとか決まりはないの?」


「ああ、明日の朝まで書き上げられれば、一応テーマなんかはない。強いて言えば、主婦層の読者にまでウケればなおのこといい」


「あっそ、わかった。でもね、言っとく。稔ので、ちゃんと考えないとダメだからね。じゃなきゃ、文章に魔法をかけるなんてこと出来ないよ」

 清花は大作家先生のようなするどい眼光で僕を見つめ、自分のこめかみを指で差した。


「ああ、言われなくてももちろん分かってる。だけどさ……何だな。そのテーマとやらがはっきりしないと、インスピレーションもしぼんだままじゃん? ここで何か清花がさ、雷鳴らいめい轟くようなテーマを僕に提示してくれた……ら」


「みぃたん!! なんもわかってないじゃん!」

 清花がいきなり大声で吠えた。

「だからぁ、人前で『みぃたん』って言うなって」

 慌てて僕は清花をなだめようとする。思いのほか、自分でも情けない声になっていた。


「みぃたんでも、稔でもどっちでもいいわよ! 恥ずかしいなんて、気にしすぎ。誰だって、子供の頃は可愛い呼び名で呼ばれるわ。そのニックネームを、今でもまだ家族が使ってるってだけでしょ」

 それだけ言うと、清花のヒートアップは少しずつ落ち着き始める。ふくれっ面をした、僕の可愛い恋人が首を傾げてみせた。


 いや、そうなんだ。そうだった。

 ニックネーム……あの日、確かに。

 僕の中で何かが轟いた。それは雷鳴なのか、過去の記憶の扉が開いた音だったのか。僕の心が徐々にビブラートを奏でだした。


「清花……うちの母親、後妻だって話はしたよな。血が繋がっていない」

「え、ああ、うん。でも、稔もお姉さんもお母さんとすごく仲いいよね? 本当の親子みたいに」

「ああ、姉ちゃんなんかそれ以上だな。いつも母親にべったりだから」


「自分だってそうじゃない? 年齢の割に若くて綺麗なお母さんだし……なんかちょっと嫉妬しちゃう時あるよ。難しい関係なのに、そこまで仲良くなれて幸せだね」

 そういうんじゃない、清花。

 だけど、僕らは……もう。

 その時僕はくうを見ていた。口に出すと儚くて、幻みたいな言葉だとちょっと思いながら。

「僕ら姉弟きょうだいはもう……二度と、亡くしたくないんだ。母親という存在を」


 清花は黙っていた。

 きっと、僕に話をさせようとして。

 子供時代――。

 今よりも大きな太陽がギラギラと輝いて、僕ら姉弟を真っ黒に染めていた。そう言えば清花が、女は大人になると女性ホルモンの影響で肌が白くなると言っていた。子供の頃みたいにはなれないと。


「僕らがまだ子供の頃、母親がガンで亡くなった。姉ちゃんは小学三年生だった。母は死の直前に、僕らを抱きしめ言ったんだ。お母さんが空へ旅立ったとしても、いつもふたりを見守っている。そして、いつかきっとふたりの元へまた戻って来る。その時の合図を決めようと……。母は僕らにだけ通用する内緒のニックネーム、僕が『みぃたん』で姉の果南かなは『カノン』という愛称……いつかふたりに出会ったら挨拶をした後、ニックネームを呼ぶから気付いてと。気付いたら、今みたいに抱きついて来てねと」


 清花は静かにうなづく。僕は話を続けた。

「当時、父親は船に乗っていた。客船の乗務員だった。何ヶ月も戻らない航海だから、僕らにとって父親は影の薄い存在だよ。母親だけが僕と姉の全てだったんだ。……その母が亡くなって、父は船を降りた。一般企業の会社員になってくれた、僕たちのために」


「それから数年して、父親と僕ら姉弟の静かな生活が普通になった頃、父は再婚すると言い出した。姉が中学二年、僕は小学六年生だった。僕たちはかなり戸惑ったよ。そして、あの日、その女性が家にやってきたんだ」


「その人が今のお母さん?」

「ああ、そう。美琴みことさん。あの時は今よりもっと細くて、おとなしい印象だったな。まあ、僕らもだけどお互い緊張してただけかもしれない」

 清花はストローに手を伸ばす。でも、それには口を付けずに言った。

「すぐに仲良くなれたの?」


「まさか。姉ちゃんは、死んだお母さんのことを心底慕ってたんだから。僕もそうだよ、子供ながら冷めた目で見てた。父親とは結婚するかもしれないけど、僕らの母親になるなんて考えられなかった。でも……」

「でも?」

 僕の表情に興味を持ったらしい。清花が話をうながす。


「不思議なことが……起こったんだ。あ、いや、今思うと、いろんな仮説が成り立つから、実は全部計画的だったのかもしれない。だけど……」

「不思議なことって? どういうこと?」

 清花が身を乗り出すのを感じた。


「……あの日、美琴さんが家に来て、父親がみんなを紹介すべくリビングで対面した。対面以上のものは、そこにはないよ。話すことも笑い合うことももちろんない。僕らは子供だったから、大人の振る舞いなんて出来なかった。……特に姉ちゃんは、不満げな顔を崩さなかった。反抗期の入り口でもあったんだろ、辛辣な物言いをしてたし。もしかしたら、美琴さんを意図的に傷つけたかったのかもしれない」


「そうなんだ。まあ、最愛のお母さんの代わりって考えたら、仕方ない気持ちなのかな。……でも今のお姉さんを見てたら、美琴さんと仲良すぎて全然信じられないけどね」

 少し微笑んで清花は言う。

「ああ、今日もふたりで遠出してるはずだよ」


「ねえ、どうやって仲良くなれたの?」

 僕はその時、少し笑っていたのかもしれない。その日のことを思い出すと、いつも幸せな気持ちになるから。

 真夏の眩しい太陽は、僕らの苦しみを幻想的な蜃気楼で魅せ変えてくれた。


「美琴さんは居たたまれなくなったのか、三十分ほどでもう帰ると言い出したんだ。父親もその日は無理だと諦めて止めなかった。……美琴さんはひとり、足早に玄関へ向かった。もう二度と会うことはないだろうなんて、実は僕は思ってたよ。そうしたら家を出る前、美琴さんは最後にはっきりとこう言ったんだ。『お邪魔しました。……さようなら。カノン、みぃたん』って」


「え、うそ。それって……」

 清花が目を丸くする。

「そうだ。挨拶の後に、僕らの秘密のニックネームを呼んだんだ」


「ああ、わかってる。もちろん、今までに何十回何百回と考えた。父さんが、秘密の呼び名を美琴さんに教えたんじゃないか。母さんから、何かあったらそうするように父さんは言われてたんじゃないか。でも本当は母さんが、美琴さんに乗り移って戻って来てくれたんじゃないのか……ってさ」

 清花の瞳はすでに潤んでいた。そして、花が咲き誇るような素敵な笑顔を見せる。


「僕らはもちろん、玄関へ向かって駆け出したよ。美琴さんはすでにいなくて、扉は閉まっていた。……でもふたりして扉を開けると、そこには僕たちを待つ美琴さんがいたんだ。優しい笑顔で佇んでいた、両手を広げてね……。まるで、僕らふたりが抱きつくのを知っていたかのように」


 その時、僕らはまだ子供だった。大人じゃなかった。

 リアルは辛すぎて受け入れられなかったから。

 だから、ファンタジーを信じたんだ。信じることでいびつな魔法が僕らにかかり、そして世界はハッピーエンドへと向かい始めた。

 涙に濡れても汚されても、望めば確かで奇跡のような未来があると信じたんだ。 


「稔……もう書けるね」

 身支度を整えながら、清花が僕に言う。ああ、忘れてた。これから書くのかっ。

「ん。まあ、頑張るよ」

「じゃ、明日、電話ちょうだい。上手に書けたら、いっぱいご褒美あ・げ・る。……ね? みぃたん」

 清花が冗談交じりに笑いながら手を振った。


「はいはい」

 僕も口元に笑いを忍ばせ、PCへ向き直る。そして、愛着のあるOとNの文字がかすれたキーボードへと指を置いた。

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