【2巻読了後推奨】SS 江南梨沙とイヤホン
その背中は、ぽつっ、と、薄暗い部屋に灯る裸電球みたいな寂しさを浮き出しながら、家電量販店の六階の商品棚の前にさらされていた。若い女性と思しきその背中を見つけた瞬間に、真田弘美は、見本用のモニタを落としそうになり、あわてて決められた場所に置いてから、てかてかした青色のブルゾンで額をぬぐった。
『二階。もう一人頼む』
右耳に着けたイヤホンからそんな声が聞こえるが、目はその背中から離れようとしなかった。
フロアを見渡す限り、他の販売員に対応の余裕はなさそうだ。赤と緑で彩られた店内は人であふれていて、レジの前にも客が並んでいた。
『……五階の市村、向かいます』
最近、入社したばかりの若い声に胸をなでおろした弘美は、床に置かれた段ボール箱の処理を後の自分に任せて、迷うことなくその背中に向かって足を運んだ。
茶色の長い髪。身動きが少ないので、天井から放たれるやたらと真っ白な光や商品棚の端に飾られたPOPに囲まれて、足の裏ごと床に固定されてしまったように見える。丸まらずに、堂々と直立しているようでいながら、彼女の周囲だけ時間の流れが遅く、取り残されてしまったんじゃないかとすら感じられた。
かつ、かつ。
自分の足音がやたら大きく感じる、と弘美は思った。
「どうされましたか?」
背中の主が振り返ったとき、弘美の心臓が止まりそうになった。
つい、大型液晶に映った芸能人が、画面から飛び出してきたのかと錯覚する。新品の白物家電と同等の艶めいた肌に、並行二重の瞳が絶好の位置で輝いていた。後ろ姿でも、楚々とした雰囲気をまとっていたが、その正面は比べ物にならないくらい眩かった。
しかし、5年ほどの接客スキルは、驚きを営業スマイルに隠させる。急に声をかけられて戸惑っている様子の若い女の子は、しばし弘美を見つめたあと、言った。
「いや……別に。買おうかどうか、迷ってただけ……」
背後からその子の持つ商品をのぞき込むと、比較的安価なワイヤレスイヤホンをつかんでいることがわかった。
プレゼントだろうか。それとも自分用だろうか。身勝手な好奇心が頭をもたげるが、懸命にそれを抑え込んで、弘美は口角を上げた。
「そうでしたか。今、手に持っていらっしゃるのは、機能を抑えた機種となっておりまして、特にこだわりがないようであれば、おすすめの商品となっております」
「……こだわり……」
「はい。たとえば、音質を高くしたいということであれば、SBCよりもAACやapt-X対応のイヤホンのほうがいいかもしれません。また、耳栓型は、落としてなくすリスクがありますので、首にかける一体型のほうがいいという方もいらっしゃいます」
「ふぅん……」
おそらく、弘美よりも一回り若い年齢だろうが、どこか超然としている。
「オシャレなデザインということであれば、こちらは色の種類が豊富で、形も非常にスタイリッシュなので、若い方にとても人気があります。少し値が張りますが、リモコンもついていてとても便利ですね。あとこちらは……」
つづけざまに行っている商品の説明に興味を持たれていないことは理解していた。
ただ、なんとなく放っておけないと思っていた。理由は弘美自身にもよくわかっていないが、多くの人で賑わう店内に佇む寂しそうな背中に、直感的に、惹かれてしまった。
説明を終えたあと、女の子の顔がわずかに横に移動した。
「ありがとう、ございます」
「いえ。なにかありましたら、遠慮なくお声がけください」
とはいえ、さすがにこれ以上のことはできない。素直に引き下がった弘美は、後ろ髪を引かれる思いで、元の位置に戻った。
段ボールを畳んで、フロアの端に積み上げられた一番上にのせると、また無線が入った。
『こちら一階。レジ要請』
弘美は、フロアの責任者に声をかけてから、一階へと降りて行った。
「ありがとうございましたー!」
次から次へと押し寄せてくる客の対応をしているうちに、20分ほどが経過していた。
一階フロアは、携帯電話やその付属品をメインに扱っている。商品棚の配置にゆとりがある設計になっているため、他のフロアよりも見晴らしが良く、出入口を過ぎていく人たちの姿も見ることができる。
そこに、さっきの子の姿がまだなかったから、まだ、悩んでいるのかな、と思った。
さらに3人ほどのレジ打ちが完了したときだった。
「あ……」
エスカレーターを降りてきた例の子が、片手に小さな紙袋を提げて出入口を通り過ぎようとしていた。
当然のことながら、レジを放っぽりだして、追いかけていくことはできない。義務感に縛られた足が、白く照り返す床とこすれて、カエルの鳴き声のような小さな音を立てた。あれだけの容貌で、一見光り輝いて見える子なのに、なんで、どんよりとした翳りにまとわりつかれていると感じてしまうのだろう。声と手は、忠実に職務を遂行しながら、右の黒目だけが、ずっと彼女の後ろ姿を追っていた。茶色の長い髪は、うっすらとした高層雲越しにぼんやり差し込む日差しに包まれて、小刻みに揺れている。足はまっすぐ前に向かっているけれど、その背中は六階に突っ立っていたときと同様に儚くて寂しい。機械的に口から吐き出されるありがとうございましたという言葉が中空へひらりと伸びて、少しでもあの子の背中に届けばいいなと思った。
やがて、その背中すら見えなくなった。どことも知れない場所に向かっていく彼女が、手に携えたそのイヤホンで、少しでもきれいな音を体になじませ、この、やたらと賑やかで、騒がしい今日という一日に紛れてほしいと、弘美は、こっそり心の中で祈るのだった。
【Web】他人を寄せつけない無愛想な女子に説教したら、めちゃくちゃ懐かれた 向原三吉 @dacadann
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